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オノマトペの翻訳(不)可能性――中原中也「一つのメルヘン」と翻訳

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オノマトペの翻訳(不)可能性――中原中也「一つ

のメルヘン」と翻訳

著者

佐藤 伸宏

雑誌名

東北大学文学研究科研究年報

68

ページ

1-29

発行年

2019-03-07

URL

http://hdl.handle.net/10097/00125160

(2)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶

オノマトペの翻訳︵不︶可能性││中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳

  

  

  

  

Behold! the spring sea undulates / And undulates the whole day long.

̶̶ translated by A. Miyamo r ︶1 ︵ i.   

The sea of spring, / Rising and falling, / All the day long.

̶̶ trans. by R. H. Bly t ︶2 ︵ h.    L

a mer de printemps / se soulevant et r

etombant / tout le long du jour

.̶̶

traduit par R. Muni

e

︶3

r.

  

The sea in spring / all day moves slowly / slowly

.̶̶ trans. by W . S. Mer win and T . L en t ︶4 ︵ o.   右は与謝蕪村の句﹁春の海 終 日 のたり〳〵かな﹂の翻訳である。この著名な発句が呈示する緩やかなうねりに包まれた春の海の 大景、 そしてそこに揺曳する駘蕩たる情感││そうした原詩の伝える世界と翻訳テクストの描き出す海景との落差は極めて大きい。 最短詩形としての俳句が喚起する映像や情緒の豊かさとその翻訳との間に認められるこのような決定的な隔たりは、直ちに詩歌の 翻訳不可能性の問題を露呈させることになるだろう。   詩の翻訳不可能性に関しては、現在に至るまで多様な議論が重ねられてきている。確かに詩が一つの言語の内部に最も深く根を 下ろした表現としてある限り、その語彙の意味論的コノテーションや音韻的・韻律的価値の全てを含んだ等価物を異なる言語の裡 に見出すことは到底あり得ないだろう。或る詩を外国語によって﹁その形︵ for me ︶のまま﹂ ︵ヴァレリー︶再現す る ︶5 ︵ こと、原詩を 全き忠実さに於いて他なる言語に移し替えること=翻訳することは、その意味で原理的に不可能と見做す他ない。   このような詩の翻訳不可能性の問題を、日本文学の外国語翻訳という場に於いて考える時、そこに浮上してくる典型的な事例が

(3)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 オノマトペの翻訳に他ならない。周知のように日本語には極めて多様なオノマトペが存在している。最新のオノマトペ辞典に採録 された語数は凡そ四五〇〇語に及 ぶ ︶6 ︵ が、そうした夥しい数のオノマトペの存在は、他の諸言語と比較した時、日本語の顕著な特色 の一つをなしていると言ってよいだろう。そして日本の文学はそうした日本語の特性を活かし、様々のオノマトペをその表現の中 に 折 り 込 ん で き た が、 そ れ は と り わ け 詩 歌 に 於 い て 著 し い。 中 で も 近 代 詩 が オ ノ マ ト ペ を 重 要 な 文 彩 と し て 積 極 的 か つ 効 果 的 に、 或いは個性的に活用してきたことは改めて言うまでもあるまい。   或る音声や様態を言語音によって模倣的に、或いは象徴的に捉えるオノマトペの言語的特質は、音が意味に直結している点にあ る。即ちその音自体が直截的に意味を喚起、伝達するのであり、そこに他の言語記号とは異なるオノマトペ固有の性格が認められ る。そうした音と意味との結合は、個々の言語の歴史や文化的背景の中で、それぞれ個別的、個性的に形成されるものであり、言 語圏・文化圏による差異が顕著に認められることは言うまでもない。そして又そのように音という感覚をとおして伝達される意味 は多義的性格を備えることにもなる。それ故にオノマトペが重要な機能を果たす詩歌の翻訳は不可避的に翻訳不可能性の問題に直 面することになるのである。但しそれにも拘わらず、これまでそのような日本詩歌に関しても夥しい数の翻訳がなされてきたこと は紛れもない事実と言わなければならない。先に掲げた蕪村の一句の翻訳もその一例に他ならない。それら四篇の翻訳テクストは それぞれに﹁のたり〳〵﹂という訳出の極度に困難な擬態語表現への対処に腐心していることが窺われるが、 その何れに於いても、 原 文 の オ ノ マ ト ペ の 孕 む 多 義 的 な 含 意 が 一 定 の 意 味 に 還 元 さ れ て い る こ と が 明 ら か に 確 認 で き る。 オ ノ マ ト ペ 辞 典 に よ れ ば、 ﹁ の たり〳〵﹂の用法として﹁①ゆるやかに、 あせらず動くさま。余裕のあるさま。②だらしなく、 無為に過ごすさま。のらりくらり。 ﹂ との解説が加えられてい る ︶7 ︵ が、蕪村の発句は、その擬態語の複合的な含意を存分に活かしつつ、春の海のうねりの様相と春懶の情 感 と を 見 事 に 描 き 出 す。 翻 訳 テ ク ス ト に 於 い て は、 そ う し た﹁ の た り 〳〵﹂ が、 う ね り を 重 ね る 波 の 動 き︵

«undulates / And undu

-lates», «Rising and falling», «se soulevant et r

etombant»

︶、或いはその緩慢な動き︵

«moves slowly / slowly»

︶という一義的な意味に

回収されるのである。その結果として、原文との落差、そして翻訳テクストとしての平板さが必然的に生じていると考えられる。

(4)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ 訳 に 関 し て 自 明 の 前 提 の 如 く 要 請 さ れ る、 原 文 と の 間 の 等 価 性︵ equivalence ︶ の 基 準 で あ る だ ろ う。 即 ち 原 文 の 意 味 及 び 表 現 へ の 全き忠実さに於いて翻訳の理念型を措定する等価性の原理である。しかしながら翻訳に於ける等価性が原文の意味と表現の忠実な 再現として設定される時、個々の言語圏に於いて個性的に形成され、多義的な含意を備えるオノマトペの翻訳は直ちに不可能性の 隘 路 に 陥 り、 或 い は 「 翻 訳 者 は 裏 切 り 者 で あ る︵ Traduttor e è T raditor e ︶ と い う 古 い 格 言 を 常 に な ぞ り 返 す こ と と な る 他 な い。 そ れ故、翻訳不可能性の問題は、原文と翻訳との間に結ばれる等価関係、換言すれば原文の厳密な等価物としての翻訳という強固な 前提を改めて問い直すところから検討される必要があるのではなかろうか。   本稿では、オノマトペが重要な機能を果たしている詩として中原中也﹁一つのメルヘン﹂を取り上げ、その複数の翻訳テクスト に 考 察 を 加 え る こ と を と お し て、 翻 訳 可 能 性 の 領 域 の 拡 張 へ と 向 け ら れ た 多 様 な 翻 訳 実 践 の 試 み を 照 ら し 出 し て み る こ と と す る。 それによって、翻訳不可能性の問題について再考するための端緒を開くことが本稿の目的である。 一       一つのメルヘン 秋の夜は、はるかの彼方に、 小石ばかりの、河原があつて、 それに陽は、さらさらと さらさらと射してゐるのでありました。 陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、

(5)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 非常な個体の粉末のやうで、 さればこそ、さらさらと かすかな音を立ててもゐるのでした。 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、 淡い、それでゐてくつきりとした 影を落としてゐるのでした。 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、 今迄流れてもゐなかつた川床に、水は さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました⋮⋮   ﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ は﹃ 文 芸 汎 論 ﹄ 昭 和 十 一 年 十 一 月 号 に 初 出 の 後、 第 二 詩 集﹃ 在 り し 日 の 歌 ﹄︵ 創 元 社、 昭 和 一 三 ・ 四 ︶ に 収 録 された一篇である。中原中也晩年の作となるこの詩に於いて、全体にわたって繰り返される﹁さらさらと﹂というオノマトペが表 現上の特徴を為していることは言うまでもなかろう。このオノマトペの反覆は﹁一つのメルヘン﹂の詩的世界の生成にどのように 関与しているのか。   各種のオノマトペ辞典に示されているように、平安朝の文学に既に用例が見出される﹁さらさら﹂は多義的な用法を備えたオノ マトペとしてある。 ﹁一つのメルヘン﹂に於いてもその多義的な機能は存分に発揮されている。 ﹁それに陽は、さらさらと/さらさ ら と 射 し て ゐ る の で あ り ま し た。 ﹂ │ │ 第 一 連 の こ の 詩 句 は、 河 原 に 射 す 陽 の 光 を﹁ さ ら さ ら ﹂ と 形 容 す る 異 例 の 表 現 で あ る が、 このオノマトペが粘りや湿り気の無い適度に乾燥した状態を伝えることを踏まえれば、心地よく乾燥した空気に包まれた﹁秋﹂の

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オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ 陽 が 軽 や か に 光 を 降 り 注 ぐ イ メ ー ジ を 喚 起 す る 詩 的 修 辞 と し て 了 解 可 能 で あ ろ う。 同 時 に、 こ の﹁ さ ら さ ら ﹂ と い う 語 は、 ﹁ 小 石 ばかりの、河原﹂に射す陽光に伴うことによって、今ここに不在の、そしてやがて流れ出すことになる水のイメージをも潜在化さ せていよう。水や風の流れる様、 その軽やかな音を象るのは﹁さらさらと﹂というオノマトペの古来よりの用法に他ならな い ︶8 ︵ 。﹁さ らさらと﹂という詩句は、快い秋の陽射しの感覚を伝えると同時に、水の流れのイメージをテクストの背後に潜在的に喚起する両 義 的 な 機 能 を 果 た す の で あ る。 第 一 連 に 描 き 出 さ れ た そ の よ う な﹁ 秋 ﹂ の 「 陽 ﹂ は 第 二 連 に 至 っ て 変 容 を 見 せ る。 そ こ で は、 ﹁ 硅 石 か 何 か ﹂﹁ 非 常 な 個 体 の 粉 末 ﹂ の 直 喩 を と お し て、 そ の 陽 の 光 に 鉱 物 の 微 細 な 粉 末 の 形 象 が 付 与 さ れ る。 そ の 言 わ ば 光 の イ メ ー ジの物質化によってもたらされる、微細で硬質の、物質的な手触りを介して、陽は﹁さらさらと/かすかな音を立て﹂ることにな る。即ち第一連と同じく﹁さらさらと﹂のオノマトペが用いられながら、第二連に於いては軽い物や細かい物が擦れ合って発する 微かで軽やかな音を伝える用 法 ︶9 ︵ が前景化しているのである。そうした音のイメージが、第一連で潜在的に呼び込まれる、さざ波を 立てつつ軽やかに流れる水のイメージと聴覚的なレヴェルで相関し、呼応することは言うまでもない。そのようなイメージの変容 と複数化の中で陽の光は軽快に降り注ぎ、また水のイメージを伏在化させつつ流れ続けるのである。そして第三連を経て最終連で は、 ﹁ 今 迄 流 れ て も ゐ な か つ た 川 床 ﹂ に﹁ い つ の ま に か ﹂ 水 が﹁ さ ら さ ら と、 さ ら さ ら と 流 れ て ゐ る ﹂ 光 景 が 呈 示 さ れ る。 第 一 連 に 伏 在 し て い た 流 れ る 水 の イ メ ー ジ が こ こ で 現 前 化 す る。 ﹁ さ ら さ ら と ﹂ と い う オ ノ マ ト ペ の 反 覆 は、 そ の 水 が 軽 や か に 淀 み な く 流 れ る 様 を 鮮 や か に 伝 え て い よ う。 ﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ の 全 篇 を 貫 い て 繰 り 返 さ れ る﹁ さ ら さ ら と ﹂ の 表 現 は、 こ の よ う に オ ノ マ トペとしての多義的な機能を存分に発現することによって、この詩が呈示する光景、状況の変化や展開を導いているのである。   ﹁一つのメルヘン﹂に描き出されているのは、言わば不条理な光景に他ならな い ︶10 ︵ 。﹁秋の夜﹂に﹁陽﹂が射し、その陽光は鉱物の 微 細 な 粒 子 の 様 相 を 纏 い つ つ﹁ か す か な 音 ﹂ を 立 て る。 そ し て﹁ 一 つ の 蝶 ﹂ の 登 場 と 消 失 と い う 事 態 を 経 て、 ﹁ い つ の ま に か ﹂ 水 が流れ出している。そうした矛盾や不合理性は、 執拗に施された読点で区切られ、 繰り返し休止の折り込まれる詩句が、 そのイメー ジ喚起力を高める中で一層際立つことになるだろ う ︶11 ︵ 。そして前半部の乾燥した微細な粒子として物象化された陽の光から、末尾に 於 け る 流 動 す る 水 へ と イ メ ー ジ は 変 換 す る。 こ の よ う な 合 理 的 な 解 釈 の 不 能 な 詩 の 展 開 は、 ﹁ さ ら さ ら と ﹂ と い う オ ノ マ ト ペ が 備

(7)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 える多義的な機能を軸としてテクスト上に実現される移行に他ならないのである。   またこのオノマトペは詩篇中で幾度も繰り返されることによってルフランとしても作用している。 [ア] の母音、 そして摩擦音 [s] と 流 音 [r] の 反 覆 を と お し て、 そ れ は 軽 や か な 明 る さ と 流 動 性 を 帯 び た 音 色 を 伝 え る。 そ う し た 音 響 が こ の 詩 に 於 い て、 反 覆 さ れ 回帰する基調音として機能するのであり、その静かで軽やかな音色、音響が全体を貫く音楽性によって、数々の不条理な事態を語 り出す﹁一つのメルヘン﹂の詩句は言わば組織化されることにもなるのである。   以 上 の よ う に 考 え る 時、 ﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ に 於 け る﹁ さ ら さ ら と ﹂ と い う 表 現 は、 単 な る 修 辞 を 越 え て、 こ の 詩 の 構 成 原 理 と し て こ そ 機 能 し て い る こ と が 明 ら か と な ろ う。 こ の 詩 の 世 界 を 統 括 し つ つ、 そ こ に 呈 示 さ れ る 事 態 の 展 開 を 導 い て い る の は、 ﹁ さ らさらと﹂というオノマトペの機能に他ならないのである。そしてそれは直ちにこの詩の翻訳不可能性の問題を浮上させる。先の 蕪村俳句の翻訳と同様に、オノマトペが決定的な重要性を持つ詩歌の翻訳は極度の困難さに逢着せざるを得ないのである。しかし 又その困難さの中で翻訳はなされ続ける。 ﹁一つのメルヘン﹂に関しても、これまで以下の五篇の翻訳が発表されている。 ① “Mär chen

”, trans. by James Kirk

up,

Modern Japanese P

oetry

(The Open University Pr

ess, 1979) ② “a mär chen ”, trans. by K enneth L. Richar

d and John L. Riley

, Depilautumn

-The P

oetry of Nakahara Chûya

(University of T

or

onto

-York University Joint Centr

e on Moder n East Asia, 1981) ③ “A F air y T ale ”, trans. by P

aul Mackintosh and Maki Sugiyama,

The P

oems of Nakahara Chûya

(The Cr

omwell Pr

ess Limited, 1993)

“Un conte de fées

”, traduit par Yves

-Marie Allioux,

NAK

AHARA Chûya, P

oèmes

, (Éditions Philippe Picquier

, 2005) ⑤ “A F air ytale ”, trans. by R y Beville, Poems of Days P ast

, (The American Book Company

, 2005)

翻訳不可能性という事態に直面しつつ、それらの翻訳はそれに如何に対処しているのか。それを、翻訳の不可能性から可能性へ

(8)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶   ところで従来の日本に於けるオノマトペ翻訳の研究では、専らオノマトペ表現を断片的に取りだし、語彙の水準に於いて訳語と の等価関係を吟味する言語学的アプローチが中心となって進められてきたと言ってよい。それらの研究がオノマトペの翻訳実践に 関わる様々の問題を明らかにしてきたことは疑いないが、しかしそもそも既述の如く音と意味が直結するオノマトペに対応する表 現を、異種の言語の裡に見出すことは不可能である限り、そうしたアプローチは翻訳が抱え込む言わば欠落や損失を確認すること に終始しがちなのである。寧ろオノマトペそれ自体の完全に等価的な翻訳が不可能である故に不可避的に生じるそうした欠損を前 提に据えつつ、翻訳テクスト全体をとおして如何なる翻訳行為が選択されているのかを問うこと、そうした翻訳テクストの表現の 総体を視野に入れた分析が必要なのではあるまいか。以下、右に掲げた﹁一つのメルヘン﹂翻訳テクストについて個々に表現分析 を行うことをとおして、オノマトペが重要な機能を果たす詩の訳出に取り組む翻訳の多様な方法や試みを確認してみることにした い。 二   中 原 中 也﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ に 於 い て、 ﹁ さ ら さ ら と ﹂ と い う オ ノ マ ト ペ は そ の 複 数 的 な 含 意 の 下 に 詩 的 世 界 の 生 成 を 導 く 極 め て重要な機能を果たしている。そのような機構を備える詩がどのように翻訳されているのか。先に掲出の五篇の裡、初めに②と⑤ のテクストを参照してみよう。    ②   a mär chen

one night in a far off place

(9)

東北大学文学研究科研究年報

第六八号

that was nothing but stone

shone with a sof

tening, sof

tening sun.

the sun was lik

e silica or some such

dust of fine har

d grain,

and so it seemed, sif

ting

to mak

e a faint sound.

then on the stones a sudden butter

fly sat

with clear outlines of pastel shades

and with a shadow cast.

soon the butter

fly gr

ew indistinct,

suddenly among the river bed stones wher

e nothing had been

water mur

mur

ed, water mur

mur

ed, and bigan to flow

.    ⑤   A F air ytale

(10)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ Above a dr y, pebbled riverbed In a distant, for eign meadow ,

Shimmering on an autumn evening.

The sun was shimmering almost lik

e

The finest of powders, lik

e silica r

ock,

Indeed because of them, when suddenly

The faintest of sounds emer

ged as well.

A butter

fly then landed on a stone,

It

’s shadow cer

tainly visible wher

e it fell,

Though somewhat feebly thr

own.

And when the butter

fly eventually flew away

,

The mur

muring flow of water soon began,

Mur

muring wher

e nothing had been flowing.

  こ れ ら の 翻 訳 に 於 い て 、 原 詩 の ﹁ さ ら さ ら と ﹂ は 、 複 数 の 形 容 詞 、 或 い は 動 詞 に 訳 し 分 け ら れ て お り ︵ ② «sof tening»« m ur m ur ed », ⑤ «shimmering»«mur muring» ︶、 そ れ は﹁ さ ら さ ら ﹂ の 多 義 性 に 単 一 の 訳 語 で は 対 応 し 得 な い 故 に 採 用 さ れ た 訳 出 法 と 見 做 し て よ いだろう。しかしその結果として、原詩の﹁さらさら﹂というオノマトペが担う表現機能は閑却されざるを得ない。既述の如く原

(11)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 詩に於いては、持続的に反覆される﹁さらさらと﹂の詩句が詩の全体の表現を組織化しつつ、そこに呈示される事態の変容、展開 を導く、この詩の生成の原理として作用している。これらの翻訳テクストはそうした原詩の表現機構からの大きな隔たりを示して いると言わなければならない。但し又それらが、翻訳の詩としてそれぞれに個性的な詩的世界を浮上させている点を看過すべきで は 無 か ろ う。 例 え ば ② で は、 各 連 が 一 つ の 文 で 構 成 さ れ る 原 詩 の 構 文 及 び 語 順 を な ぞ る 中 で、 «a sof tening, sof

tening sun»–«a faint

sound»–«pastel shades»–«the butter

fly gr ew indistinct»–«water mur mur ed» と 続 く 詩 句 は、 柔 ら か さ、 微 か さ、 仄 か さ、 或 い は 判 然 としない様を象る類比的なイメージとして連鎖、連繋し、それが訳詩全体の基調を形成している。それは﹁さらさらと﹂の表現の 反 覆 を と お し て 原 詩 が 呈 示 す る 世 界 の 様 相 と 調 和 す る 性 格 と 言 っ て も よ い だ ろ う。 同 時 に、 そ う し た 様 相 を 呈 す る 世 界 に 於 い て、 最終連で流れ出す水は、意想外の、突然の事態の展開であることが強調される。 «a sudden ︵ butter fly ︶» が原詩にはない詩句の付加 であり、

«soon the butter

fly gr ew indistinct, / suddenly» の構文が原詩の詩句﹁やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか﹂から 逸 脱 し た 表 現 で あ る こ と は 言 う ま で も な い。 ﹁ さ ら さ ら と ﹂ と い う オ ノ マ ト ペ の 多 義 的 機 能 に よ っ て 不 条 理 な 事 態 の 展 開 が 導 か れ る構造を備える﹁一つのメルヘン﹂に対して、オノマトペの直接的な訳出を回避したこの訳詩に於いては、そうした展開の原理が 不在化する中で出来事はあくまでも思いがけぬ唐突さの裡に出来し、 移行することになる。換言すれば、 原詩自体の孕む不条理性、 不合理性が増幅されるのである。それは原詩冒頭の一句﹁秋の夜は﹂を不特定の «one night» と訳出したところにも認められる、 “a mär chen ”という表題に呼応する在り方とも見做せよう。   他 方、 ⑤ の 翻 訳 に 於 い て も 興 味 深 い 試 み が な さ れ て い る。 こ の 訳 詩 中 に 三 度 に わ た っ て 繰 り 返 さ れ る «shimmering» は、 «almost lik

e / The finest of powders, lik

e silica r ock» という比喩の詩句と結合しつつ、ちらちらと微かに煌めき、揺らめく太陽の光のイメー ジ を 呈 示 す る。 そ し て そ の よ う に 鉱 物 や 粉 末 の イ メ ー ジ と 類 比 的 に 結 ば れ た 陽 光 に 伴 っ て、

«The faintest of sounds»

も 又︵ «as well» ︶ 浮 上 す る。

«suddenly / The faintest of sounds emer

ged as well» と 語 ら れ る よ う に、 そ れ は 突 然 に、 陽 光 に 伴 い 重 な り つ つ、 その背後に響き始める。即ちここで微かさの様態を基底として光と音のモチーフが併置され重層化されるのである。それは、原詩 の表現に大きな改変を加えた訳詩に於いて、視覚と聴覚そして触覚に跨がる多義的機能を果たす原詩の﹁さらさらと﹂への可能的

(12)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ な対応を図る、モチーフの二重化の試みとしてあると言ってよいだろう。同時にそこで基軸となる微かさの様相は、訳詩後半部の «somewhat feebly thr own» ︵ 第 三 連 ︶│ │ «mur muring» ︵ 第 四 連 ︶ の 詩 句 が 伝 え る、 微 か で 小 さ な 光 や 音 の 動 き の イ メ ー ジ へ と 波 及 的 に 連 鎖 し て ゆ く。 更 に 訳 詩 末 尾 で 繰 り 返 さ れ る «mur muring» は、 前 半 の 反 覆 句 «shimmering» と 音 韻 的 に 明 ら か な 呼 応 を 示 し て い る。 そ う し た 音 韻 上 の 等 価 的、 類 比 的 な 関 係 に よ っ て、 «shimmering» と «mur muring» の 二 つ の 異 な る 語 は、 訳 詩 の 内 部 で 意 味 的な結びつきをも形成することになるが、それもまた光と水のモチーフの二重化を補強するものに他ならない。こうしてこの翻訳 ⑤ は、 冒 頭 と 末 尾 の «shimmering»–«mur muring» の 呼 応 │ 接 続 関 係 を 枠 組 み 乃 至 は 骨 子 と し つ つ、 全 体 が 有 機 的 に 連 関 す る テ ク ス ト世界を構成していると考えられよう。そのような詩句の緊密な相互連関の中で、最終的に «The mur

muring flow of water»

の映像 が 呈 示 さ れ る。 そ れ は、 «shimmering» と «mur muring» と の 音 韻 的 等 価 性 に 基 づ く 意 味 の 重 層 性、 そ し て 陽 光 に 伴 う «The faintest of sounds» の 予 兆 的 効 果 に よ っ て 導 か れ た、 こ の 訳 詩 固 有 の 表 現 の 作 用 を と お し て 生 成 す る に 至 っ た 流 れ 出 す 水 の イ メ ー ジ に 他 な らない。直訳的な忠実さとは無縁の、又オノマトペの直接的な訳出も回避するこの翻訳に認められるのは、原詩の詩的世界を支え る表現機構への方法的な接近の試みであると考えられよう。 三   前章で取り上げた二篇は、原詩のオノマトペへの直接的な対応を回避する形で成立しているが、勿論オノマトペ自体の訳出を試 みるテクストも存在する。前掲の①及び③の翻訳である。    ③   A F air y T ale

One autumn night, far far away

(13)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 ther e wer e only pebbles of a dr y riverbed

on which the sun

rippling, rippling was shining. “Sun ”, but lik

e silica or something, it seemed,

extr

emely har

d powder

, it seemed:

which was why

rippling

-a f-aint sound -ar

ose.

All at once, on the pebbles, a butter

fly landed:

pale, yet distinct,

its shadow was cast.

Soon that butter

fly vanished; then, unawar

es,

wher

e till now nothing flowed in the riverbed, water

rippling, rippling was flowing...   右 の 訳 詩 を 特 徴 付 け て い る の は、 «ther e wer e» に 始 ま る、 表 題 に 即 応 し た 昔 話 的 な 文 体 を 採 用 す る 中 で、 語 順 を 含 め て、 原 詩 の 表 現 に 忠 実 な 翻 訳 が 試 み ら れ て い る 点 に あ る 。 そ う し た 語 り の ス タ イ ル の 下 で 、﹁ さ ら さ ら と ﹂ の オ ノ マ ト ペ は « rippling, rippling -» と い う 挿 入 句 と し て 訳 出 さ れ て い る。 主 と し て 小 波 の 動 き や 音 を 表 現 し、 水 の イ メ ー ジ と 強 い 結 び つ き を 持 つ こ の «rippling» は、

(14)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ 通奏低音の如く訳詩全体に響き続ける中で、第一連に於いて既に水のイメージを喚起することによって、最終連で水が流れ出す詩 の展開を予示するのである。言わば表層として呈示される光景の背後に別途のモチーフが折り込まれるという前半部の表現の二層 性が最終的には一元化される、或いは潜在的に折り込まれていたモチーフが最後の場面に至って前景化する、そうした機構をこの 訳詩は備えている。但しその前半の二連に描き出される陽の光のイメージと «rippling» の挿入句との間の不調和、 齟齬は覆い難い。 そ れ は、 原 詩 の 表 現 へ の 徹 底 し た 忠 実 さ を 前 提 と し つ つ、 ﹁ さ ら さ ら と ﹂ の 訳 語 と し て «rippling» の 一 語 を 宛 て た こ と に よ っ て 不 可 避 的 に 生 じ た 原 詩 と の 落 差 に 他 な る ま い。 勿 論 こ の 翻 訳 に 於 い て は、 そ う し た 落 差 へ の 対 処 と し て、 «rippling» を «the sun» の 直 接 的 な 形 容 な ら ぬ 挿 入 句 と し て 折 り 込 ん で い る。 原 詩 の﹁ さ ら さ ら と ﹂ の 如 く 詩 全 体 の 構 成 原 理 た り 得 な い «rippling» は、 陽 光 が 焦 点 化 さ れ た 訳 詩 前 半 部 の 世 界 の 言 わ ば 後 景 に 響 く 音 と し て 呈 示 さ れ る の で あ る。 そ し て そ れ 故 に、 後 半 部 の 展 開 は、 «All at once», «Soon that butter fly vanished; then, unawar es» 等の詩句によって、そこに生起する出来事の意外性、不可解な唐突さを原詩よ り も 強 調 す る 表 現 を と お し て 示 さ れ る こ と に も な る。 “A F air y T ale ” と い う 表 題 に は、 そ う し た 訳 詩 の 呈 示 す る 世 界 の 不 条 理 性 も 含意されていよう。   一 方、 ﹁ さ ら さ ら と ﹂ と い う オ ノ マ ト ペ を 直 接 的 に 訳 出 す る こ と の 極 度 の 困 難 さ を 前 に し て、 音 訳︵ transliteration ︶ の 方 法 を 採 用しているのが①のテクストである。    ①   Mär chen

In the autumn night, somewher

e far

, far away

,

Ther

e is a dr

y river bed of small pebbles only

, And ther e is sunlight str eaming on it Sarasarato sarasarato .

(15)

東北大学文学研究科研究年報

第六八号

As it is sunlight, it glitters lik

e silica or something,

Lik

e the scatter

ed powder of something immensely har

d,

And that is why it is making this far off r

ustling sound of Sarasarato sarasarato . W ell now

, just at this moment a butter

fly alights on a pebble

And casts upon it a faint but unmistakable shadow

.

And soon, af

ter the butter

fly has vanished, unnoticed by us,

Over the dr

y river bed wher

e nothing was flowing

The water begins to r

un and ripple Sarasarato, sarasarato .   このカーカップ訳のテクストも、③と同様に昔話風の口調を用いつつ、語順を含め原詩の表現に基本的に忠実な翻訳となってい る が、 但 し 全 体 が 現 在 時 制 で 綴 ら れ る こ と に よ っ て、 ︿ 今 こ こ ﹀ で 生 起 す る 出 来 事 を そ の ま ま 語 り 伝 え る 実 況 中 継 的 な 語 り の 性 格 を 備 え て い る 点 が 注 目 さ れ る。 そ し て そ う し た 中 で 原 詩 の オ ノ マ ト ペ は、 そ の 音 を そ の ま ま ロ ー マ 字 で 写 し 取 っ た transliteration と し て 示 さ れ て い る。 ﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ の 翻 訳 五 篇 の 中 で 音 訳 に よ っ て オ ノ マ ト ペ の 訳 出 が な さ れ て い る の は 本 テ ク ス ト の み で あ る。 transliteration は オ ノ マ ト ペ 翻 訳 に 於 い て 特 異 な 方 法 で は 決 し て な い ︶12 ︵ が、 こ の カ ー カ ッ プ に よ る 翻 訳 で は こ の 音 訳 の 詩 句 に «sarasarato: an onomatopoeic expr

ession that suggests the sound of water r

unning.» と い う 脚 注 が 施 さ れ て お り、

«the sound of water

running»

を喚起する表現として意味付けられている。従ってこの訳詩第一連に於いては、

(16)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ の背後、或いは傍らに音として潜在化された水のイメージが浮上することになるが、そうした光と水という異質な二種のイメージ の 関 係 を 媒 介 す る 役 割 を 果 た す の が、 «str eaming» の 一 語 の 他 な ら な い。 こ の 語 は、 陽 光 が 降 り 注 ぎ、 射 し 込 む 映 像 を 呈 示 す る と と も に、 間 断 な く 流 れ 続 け る 水 の 様 相 を も 伝 え る 表 現 で あ り、 そ う し た «str eaming» の 両 義 的 機 能 を と お し て 光 と 水 は 絶 え ず 流 れ る流動性を含意するイメージとして重なり合い、第一連の重層的なイメージ構造が形成されることになる。換言すれば第一連の文 脈 上、 河 原 に 射 す 陽 の 光 の 流 れ る 様 を 示 し つ つ、 同 時 に 脚 注 に よ っ て 流 れ る 水 の 存 在 を 喚 起 す る «Sarasarato » は、 そ の 両 者 を 媒 介 する «str eaming» の一語を介して、 光と水、 また視覚と聴覚に跨がるイメージの二重性、 複層性を担う表現として成立するのである。 そ し て 第 二 連 に 至 っ て、 そ の 陽 光 の イ メ ー ジ は 変 容 を 見 せ る。 そ こ で 特 徴 的 な の は、 «glitters» «scatter ed» と い う、 訳 出 の 際 に 補 入 さ れ た 表 現 で あ ろ う。 «glitter» は 多 く の 小 さ な 輝 く 光 が 反 射 す る よ う な 煌 め き を 表 象 す る が、 そ れ は «lik e silica or something, / Lik e the scatter

ed powder of something immensely har

d» と い う 比 喩 表 現 に よ っ て、 撒 き 散 ら さ れ た 硬 質 の 微 細 な 粉 末 が 小 さ く 煌 め き 散 乱 す る 映 像 と し て 具 象 化 さ れ る。 そ の 際、 形 容 詞 «scatter ed» が 喚 起 す る 四 方 に 散 乱 す る 広 が り の 様 相 が 陽 光 の 表 現 と し て の 自然さを保持している。そしてこの直喩の詩句が浮上させる硬く微細な無数の粒子のイメージが、それらのこすれ合う音を派生的 に 喚 起 す る こ と に よ っ て、 «Sarasarato » の

«this far off r

ustling sound» に 接 続 さ れ る こ と に な る。 原 詩 の 詩 句﹁ か す か な︵ 音 ︶﹂ は 他の英語訳では全て «faint» を用いた直訳となっているが、 この翻訳は、 «far off» の表現を付加した上で、 衣擦れの音や木の葉、 紙 な ど が 軽 く こ す れ 合 う 音 を 呼 び 起 こ す 擬 音 語 «r ustling» を 訳 語 と し て 採 用 し て い る。 太 陽 の 光 の 形 象 が 鉱 物 等 の 硬 い 物 質 の 微 細 な 粒 子 の イ メ ー ジ に 移 行 す る こ と に よ っ て、 そ れ ら の こ す れ 合 う 微 か な 音 と い う 聴 覚 的 連 想 が 招 き 寄 せ ら れ、 擬 音 語 «r ustle» の 聴 覚 的 効 果 が 十 全 に 発 現 す る の で あ る。 同 時 に、 «r ustling» は 言 う ま で も な く 或 る 動 き、 流 動 性 の 様 態 を 伝 え て お り、 そ れ を と お し て 第 一 連 の «str eaming» と の 呼 応 を 生 み 出 し て も い る。 こ の 訳 詩 第 二 連 は 従 っ て、 第 一 連 に 確 認 さ れ た 光 と 水 の 重 層 化 の 機 構 の 言 わ ば 変 奏 で あ り、 そ の 四 行 目 の «Sarasarato, sarasarato » の 詩 句 は、 脚 注 に よ っ て 示 さ れ た

«the sound of water r

unning» の 含 意 を 基 底 としつつ、 ﹁はるかの彼方﹂ ︵ «far , far away»«far off» ︶から聞こえる微かで静かな音としての性格を際立たせながら、光から音への、 この詩に於けるイメージの様相と比重の移行を導いていると言ってよいだろう。そうした聴覚的な、そして動性を孕んだモチーフ

(17)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 の 前 景 化、 顕 在 化 が 果 た さ れ る の が 最 終 連 に 他 な ら な い。 こ の 最 終 部 に 於 い て、 «r un and ripple» と 描 か れ る よ う に、 さ ざ 波 を 立 て軽やかな音を響かせながら水が流れ出す。 それは脚注によって示唆されていた水のモチーフの全面的な開示を告げる光景である。 同 時 に こ の 最 終 連 に 於 い て、 原 詩 の﹁ 川 床 ﹂ が «the dr y river bed» と 訳 出 さ れ、 第 一 連 に 続 い て «dr y» の 形 容 詞 が 再 度 用 い ら れ て いることは興味深い。即ちここで流れ出す水は︿乾いた川床﹀を潤すものとして、豊かな生命的潤いのニュアンスを含み込むこと になろう。既述の如くこの翻訳テクストは、出来する出来事を今ここに於いて語り出す現在時制の文体で全篇が貫かれている。最 終的に流れ出す水の映像が焦点化される展開は、そのような文体の下に呈示されることによって、生命的世界の始まりとしての創 世神話的なドラマの性格をこの訳詩に付与することにもなるはずである。   オノマトペが重要な機能を果たす詩の翻訳として、このテクストが興味深いのは、言うまでもなくオノマトペの音訳がなされて いる点にある。それはオノマトペ訳出の際に従来も採用されてきた方法の一つに他ならないが、本訳詩は音訳を採用しつつ単に原 詩 の 表 現 を 忠 実 に な ぞ る こ と に 終 始 し て い る 訳 で は 決 し て な い。 既 述 の 如 く «Sarasarato » は、 ま ず 脚 注 に よ っ て 流 れ る 水 の 音 と い う含意が示されるとともに、 «str eaming» の語を介して光│水、 そして流動する動きという重層的なイメージ連関を内在化させるが、 第 二 連 に 至 る と、 そ の 重 層 性 が 保 持 さ れ る 中 で、 «Sarasarato » の 詩 句 は、 硬 質 の 粒 子 が 散 乱 す る 微 細 な 煌 め き の イ メ ー ジ を 媒 介 と し て 微 か で 小 刻 み な、 静 か に 響 く 音 を 伝 え る 聴 覚 的 な イ メ ー ジ と し て の 機 能 を 前 景 化 さ せ る。 そ の «r ustling sound» と し て の «Sarasarato » が、 こ こ に 不 在 の、 即 ち «far off» │ 遙 か 彼 方 の 流 れ る 水 の 存 在 を 象 る も の で も あ る こ と は 言 う ま で も な い。 前 半 二 連 に於ける «the dr y river bed» に降り注ぐ «sunlight» を描く表現の背後に、常に «water r unning» のイメージが伏在するのである。そ して最終部に於いてその流れる水の顕現が果たされる。細波を立て水音を響かせながら流れる水の映像が、詩の帰結として全面的 に開示されるのであり、それは «the dr y river bed» に豊かな潤いをもたらす生命的なイメージとして焦点化されるのである。   こ の 翻 訳 に お い て、 «Sarasarato, sarasarato » と い う 音 訳 に よ る 詩 句 が 反 復 さ れ る 中 で、 そ れ が 内 包 し、 喚 起 し、 或 い は 派 生 さ せ るイメージの様相と内実は変化、変容を示していく。これまで参照してきた翻訳に於いては、原詩の﹁さらさらと﹂の備える多義 的 機 能 を 前 に し て、 各 連 の 情 景 に ふ さ わ し い 語 彙 に よ る 訳 し 分 け が な さ れ︵ ② ⑤ ︶、 或 い は 描 き 出 さ れ る 状 況 と の 不 整 合 を 孕 み 込

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オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ みつつ一義化された単一の訳語を反復させるという対応︵③︶が試みられていた。そうした中で、音訳という訳出法を採用した本 テクストでは脚注を含め、 各連の具体的な表現との関わりに於いて «Sarasarato » の詩句が喚起する意味やイメージに複数的な性格、 様態が付与されていくのであり、 そうした移行乃至変容が最終的に水が流れ出すに至るこの詩の展開を支え導いている。 “Mär chen ” と 題 さ れ た こ の 訳 詩 の 展 開 の 動 因 と な っ て い る の は、 そ の よ う な «Sarasarato » の 詩 句 の 機 能 に 他 な ら な い。 そ し て そ こ に、 ﹁ さ ら さらと﹂という反復されるオノマトペが詩的世界の構成原理として機能する原詩の表現機構への対応の試みを認めることが出来る は ず で あ る。 同 時 に、 «Sarasarato, sarasarato » は 原 詩 の オ ノ マ ト ペ の 音 訳 で あ る に し て も、 外 国 語 圏 の 読 者 に と っ て そ れ が そ の ま まオノマトペとして機能しうる訳ではない。そうした読者にとっては、脚注によって示される意味とは別途に、この詩句の特徴的 な 音 色 こ そ が 際 立 っ た 印 象 を も た ら す こ と に も な る に 相 違 な い。 そ の 点 に 留 意 す る な ら ば、 例 え ば «s» と «r» の 子 音 の 響 き は こ の 訳 詩 前 半 部 の 表 現 全 体 に 鏤 め ら れ て お り、 そ う し た 子 音 の 響 き 合 い と し て の ア リ タ レ ー シ ョ ン、 そ し て 勿 論 «a» の 母 音 反 覆 に よ る アソナンスがもたらす豊かな音楽性もまた音訳という方法をとおして生み出された看過し得ぬ効果とみるべきであろう。 四   以上の四篇は何れも英語による﹁一つのメルヘン﹂の翻訳であったが、それに対し④は唯一のフランス語訳のテクストである。 ④   Un conte de fées Une nuit d ’automne, là -bas au loin,

Il y avait une rivièr

e au lit de cailloux secs,

Sur laquelle brillaient en br

(19)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 L es mur mur es du soleil. L

e soleil, on aurait dit du silice,

L

a poussièr

e d

’un solide extraor

dinair

e,

A

ussi ses mur

mur es Br uissaient d ’un faible br uit.

Alors sur les cailloux, à l

’instant un papillon s

’est posé

Faible mais clair

e

Etait l

’ombr

e qu

’il faisait.

Quand à la fin ce papillon dispar

u, et quand était -ce, A u fond de la rivièr e jusqu

’alors sans eau,

L ’eau mur murante en mur murant coulait ⋮   右の翻訳において、一読して明らかなようにオノマトペの訳出は殆ど無視乃至は放棄されている。それは、訳詩に於ける比重の 軽重は別としてそれぞれに原詩のオノマトペへの一定の配慮がなされていた既述の一連の英訳とは異なる、この翻訳の独特の位置 を示していよう。しかしそこに見出すべきは、単にオノマトペ翻訳の不可能性ゆえの訳出の断念のみなのであろうか。実はこの翻 訳に関しては、先行する初訳が存在しており、両者の間には大きな異同が認められる。初訳は以下のようなテクストであった。

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オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶   Un conte de fé e ︶13 ︵ s Une nuit d ’automne, là -bas au loin,

Il y avait une rivièr

e au lit de cailloux secs,

Sur laquelle le soleil, mur

murant

Brillait en mur

murant.

L

e soleil, on aurait dit du silice,

L

a poussièr

e d

’un solide extraor

dinair

e,

Et c

’est pour

quoi son mur

mur

e

Faisait un faible br

uit.

Alors sur les cailloux, à l

’instant un papillon s

’est posé

Et faible mais clair

e

Etait l

’ombr

e qu

’il faisait.

Quand à la fin ce papillon dispar

u, et quand était -ce, A u fond de la rivièr e jusqu

’à maintenant sans eau,

L

’eau mur

murante en mur

murant coulait

(21)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号   イ ヴ = マ リ・ ア リ ュ ー に よ る 最 初 の﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ 翻 訳 は、 と り わ け 前 半 二 連 に 於 い て 改 訳 テ ク ス ト と の 異 同 が 著 し い が、 その全体を特徴付けているのは、 原詩に対する忠実さである。語順を含めて原詩のほぼ忠実な再現が試みられており、 ﹁さらさらと﹂ の オ ノ マ ト ペ に 関 し て は、 風 や 小 川 の 軽 や か な 音 を 伝 え る «mur murant» に よ っ て 対 応 し て い る。 即 ち 初 稿 で は 原 詩 の オ ノ マ ト ペ の訳出が確かに試みられていたのである。 従って④のテクストはそうした原詩への忠実さからの離反の方向でなされた改訳であり、 オノマトペの訳出もそのようなテクストの改変に伴って放棄されるに至ったと言ってよい。それによってこの改訳はいかなる翻訳 テ ク ス ト と し て の 性 格 を 備 え る こ と と な っ た の か。 そ の 初 訳 の 改 変、 改 稿 の 起 点 は、 初 訳 第 二 連 の 詩 句 «son mur mur e» に あ る と 考えられる。 «son mur mur e / F aisait un faible br uit» は言うまで もなく﹁さらさらと /かすかな音を立てて もゐるのでした﹂の 部分 の 翻 訳 で あ る が、 訳 詩 第 一 連 で 反 復 さ れ た 現 在 分 詞 «mur murant» の 名 詞 形 に 所 有 形 容 詞 を 付 し た 詩 句 «son mur mur e» は 他 な ら ぬ 太陽がひそひそ声で語る呟き、囁きを含意することにもなる。即ち第一連に於いて陽光の輝きとともに描き込まれていた微かで軽 や か な 音︵

«le soleil, mur

murant / Brillait en mur

murant» ︶ は、 第 二 連 に 至 っ て 太 陽 が 洩 ら す 囁 き の 声 と し て 捉 え ら れ る こ と に な る のである。恐らく改訳が動き出すのはその地点からである。初訳の表現を起点として大幅な改訂が施された④のテクストでは、原 詩 の オ ノ マ ト ペ に 対 応 す る 初 訳 の «mur murant ⋮ en mur murant» の 表 現 が 削 除 さ れ る と と も に、 «L es mur mur es du soleil»   «ses mur mur es» と い う 詩 句 が 太 陽 の 囁 き、 呟 き を 鮮 明 に 伝 え る。 こ う し た 太 陽 の 発 す る «mur mur es» の 強 調 は、

“Un conte de fées

題 さ れ た こ の 詩 に 言 わ ば 神 話 的 性 格 を 濃 厚 に 付 与 す る こ と に な る だ ろ う。 加 え て、 «mur mur e» と い う 語 は、 オ ノ マ ト ペ と し て の ラ テ ン 語 «mur mur» を 語 源 と し て お り、 風 や 小 川、 木 の 葉 な ど 自 然 の 中 に 生 じ る 様 々 の 微 か な 音 を 象 る 機 能 を 備 え て い る。 即 ち こ の翻訳において、太陽の囁き、呟きの声は自然界の多様な物象が生み出す音を派生的に喚起する、或いはそれらを包含する表現と してあるだろう。それは︿お伽噺﹀としての原初的な世界の光景と言ってもよいかも知れない。   そ の よ う な 大 幅 な 詩 句 の 変 化 に 伴 っ て、 こ の 再 翻 訳 テ ク ス ト は 更 に 別 の 性 格 を 際 立 た せ る こ と に な る。 そ れ は、 «Sur laquelle brillaient en br uissant», «Br uissaient d ’un faible br uit» の詩句に顕著に認められる、 同一音[ br ]、 類音[ bl ]の反復と響き合いである。 第 三 連 の «F aible» と «ombr e» に ま で 連 な る こ う し た 詩 句 の 備 え る 音 色 効 果 は、 初 訳 か ら の 改 変 に 於 い て 際 立 つ に 至 っ た 特 徴 に 他

(22)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶

ならない。そしてそのような改訳テクストの性格が全面的に開示されるのは最終連に於いてである。末尾の三行詩節には、以下の

ように同一音や類音の反復に基づく極めて緊密な音色構造が認められる。

Quand à la fin ce papillon dispar

u, et quand était -ce, A u fond de la rivièr e jusqu

’alors sans eau,

L ’eau mur murante en mur murant coulait ⋮   [kãt] や [ã][ ɛ˜ ] 音 が 連 な り、 ま た 回 帰 し、 [ o ][ ɔ˜  ][ ɔ ] の 類 音 が 頻 り に 繰 り 返 さ れ る 豊 か な 音 色 の 流 れ の 中 で、 最 終 的 に «mur -murante en mur murant» と い う こ の 上 な く 音 楽 的 な 詩 句 が 現 れ る。 こ の 末 尾 の 表 現 は、 初 訳 で は 既 に 第 一 連 に 用 い ら れ、 ル フ ラ ン の形で冒頭と末尾の両連の呼応を作り出しているが、この改訳に於いては、多様な言葉の音色の流れ、響き合い、照応に包まれた テクストの音楽性を集約するように詩の末尾に現れて、その音楽的効果を存分に発揮するのである。原詩の表現を特徴付けるオノ マトペ﹁さらさらと﹂は既述の如くルフランとしても機能することによってその音楽性を形成する作用を果たしていたが、この④ のテクストは、 オノマトペの直接的な訳出は放棄した上で、 原詩の音楽性を強調、 増幅する性格を備えた翻訳として成立している。 そして同時に、本訳詩の性格を体現するかの如く極めて豊かな音楽性を伝える «L ’eau mur murante en mur murant coulait ⋮ » という 末 尾 の 一 行 が こ の 詩 の 展 開 の 中 で 担 う 意 味 に も 注 目 す る 必 要 が あ る。 既 に 述 べ た よ う に «mur mur er» の 名 詞 形 «mur mur e» が 前 半 二 連 で 繰 り 返 さ れ、 太 陽 の 発 す る 声、 音 を 明 ら か に 伝 え て い た。 従 っ て こ の 翻 訳 の 裡 に、 «un faible br uit» と し て 微 か に 響 い て い た «mur mur es» が 最 終 連 に 至 っ て 流 れ る 水 の せ せ ら ぎ と し て 顕 現 す る、 或 い は 太 陽 の «mur mur es» を 宿 し、 陽 光 を 内 包 す る も の と して豊かな水が流れ出すに至るという展開を読み取ることも可能となるだろう。 それは «à la fin» と語られるように、 然るべき帰結、 予兆された事態の到来を告げる光景として呈示されるが、但しそうした展開が何らかの合理的な要因や契機によって導かれている 訳 で は な い。 寧 ろ そ れ は、 こ の 詩 の 基 底 を な す

«Un conte de fées»

た る 始 原 的 自 然 の 世 界 の 秩 序 や 論 理 の 下 に 生 成 し た 事 態 に 他 な

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東北大学文学研究科研究年報   第六八号 らないだろう。そうした自然神話的な様相に彩られ、また言葉の音楽のこの上ない高まりに包まれる中で、末尾のイメージ、せせ らぎの音を豊かに響かせながら流れる水の映像が浮上するのである。   このような訳詩が原詩との大きな差異や隔たりを示していることは言うまでもない。しかし又、原詩とは別途の表現機構に於い て、 或 い は 原 詩 の 表 現 の 大 胆 な 織 り 直 し を と お し て、 ﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ の 備 え る 不 条 理 性 や 音 楽 性 へ の 対 応 を 実 現 し て い る こ と も確かに窺えるはずである。 五 Translating consists in r epr oducing in the r

eceptor language the closest natural equivalent of the sour

ce -language messa g ︶14 ︵ e.   翻訳の古典的規定としての等価性の原理は、右の発言に示されているように原文と翻訳との間のメッセージ、意味内容及び表現 の同一性をその中核に据えている。原文と等価の表現をとおして同一の意味内容を再現するものとしての翻訳︱︱そうした規定が 原文への忠実さを規範とした翻訳評価の根底を形成し、翻訳不可能性の認定も又それを前提になされることになる。しかし極めて 自明であるかに見えるその規定乃至は条件が、これまでなされてきた夥しい数の翻訳、とりわけ文学テクストの多様な翻訳実践に 対して、周到な、或いは有効な定義として機能しうるとは到底認め難い。定義上、翻訳が極度に困難と想定される文学テクストに 関しても様々の翻訳がなされてきた事実に、そうした古典的理念は充分に関与し得ないのである。   翻訳の定義の根底をなすそのような等価性の原理について再考を加えるために、本稿では中原中也の詩﹁一つのメルヘン﹂とそ の 翻 訳 を 事 例 と し て 取 り 上 げ て 考 察 を 行 っ て き た。 既 述 の 如 く﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ に 於 い て は、 ﹁ さ ら さ ら と ﹂ と い う オ ノ マ ト ペ が作中で繰り返され、その音が複数の意味を喚起することによって詩的世界の生成と展開が果たされており、それ故詩の末尾に至 る展開は不合理性や不条理性を色濃く示している。そのような﹁さらさら﹂の音色とその多義的な機能に等価的に対応しうる外国

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オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ 語の語彙を見出し、そして﹁一つのメルヘン﹂の詩的世界の十全な等価的再現を実現することは不可能と言う他あるまい。この詩 の翻訳を試みた五篇のテクストはそのことを明らかに証している。オノマトペが重要な機能を担うこうした詩の翻訳は、常に原文 に対する距離や歪曲、或いは欠損、欠落を孕み込むこととならざるを得ないのである。但しそのように等価性を実現し得ないこと を以て直ちにそうした詩の翻訳不可能性の証左乃至は根拠と見做すべきではなかろう。   これまで検討を重ねてきた一連の翻訳詩││それらがそもそも相互に全く異なる、多様なテクストとして成立していることは実 は驚くべき事実と言わなければならない。そしてそうした差異の裡に見出されるのは、 原詩に対する隔たりや欠損を前提としつつ、 テ ク ス ト の 表 現 全 体 を と お し て、 そ れ を 補 填 し、 或 い は 代 補 し、 更 に は 別 途 の 表 現 へ と 転 移、 変 換 す る 多 様 な 試 み に 他 な ら な い。 換言すればそれらは、翻訳不可能性の場そのものの中で、それぞれ個性的な仕方で、原詩との間に緩やかに対応や類縁の関係を敷 設 す る こ と を 試 み て い る の で あ る。 既 に 考 察 を 加 え た よ う に 五 篇 の 翻 訳 テ ク ス ト に は、 ﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ と 題 さ れ た 特 異 な 日 本 語詩の翻訳可能性に向けた意識的、 方法的な試みが個々に窺われて興味深いが、 とりわけ注目に値するのは①と④の翻訳であろう。   ジ ェ ー ム ズ・ カ ー カ ッ プ の 手 に な る 翻 訳 ① “Mär chen ” で は 現 在 時 制 の 文 体 が 採 用 さ れ、 原 詩 の﹁ さ ら さ ら と ﹂ は 脚 注 に よ る 釈 義 を 伴 う 形 で 音 訳 さ れ る。 同 時 に、 訳 出 に 際 し て «str eaming» や «glitters» «scatter ed» 他 の 原 詩 に は 不 在 の 表 現 を 周 到 に 折 り 込 む こ と に よ っ て、 こ の 翻 訳 テ ク ス ト の 中 で «Sarasarato, sarasarato » の 詩 句 を 軸 と し て 複 数 的 な モ チ ー フ が 浮 上 す る の で あ り、 そ れ ら の 相 関 と 変 移 を と お し て 訳 詩 の 末 尾 に 至 る 展 開 が 導 か れ る。 そ こ で は、 原 詩 の﹁ さ ら さ ら と ﹂ の オ ノ マ ト ペ が 担 う 多 義 的 機 能 が、 各 連 の 具 体 的 な 表 現 と の 関 わ り に 於 い て «sarasarato » の 詩 句 に 付 与 さ れ る 複 数 的 な 意 味 や イ メ ー ジ に よ っ て 代 替 さ れ て い る の で あ る。 そ れ は、 音 訳 の 詩 句 «sarasarato » が、 そ も そ も 外 国 語 圏 の 読 者 に と っ て は 意 味 の 空 白 化 し た 表 現 と し て あ る 故 に 可 能 と な っ た 訳出の方策と言ってよい。また末尾で流れ出す水は豊かな潤いをもたらす生命的モチーフを濃厚に宿し、この訳詩の創世神話的性 格 を 形 成 す る が、 そ れ は 原 詩 に 潜 在 す る 一 つ の 側 面 ︶15 ︵ を 際 立 た せ る も の で も あ ろ う。 一 方、 フ ラ ン ス 語 訳

“Un conte de fées

訳に改変を加えた④の再翻訳テクストの場合には、オノマトペ自体の訳出は放棄された上で、原詩の備える音楽性を一層増幅する

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東北大学文学研究科研究年報   第六八号 ているが、この訳詩は同一音や類音の反覆等、フランス語の音色効果を存分に発現させる。そしてそうした性格を集約するかの如 く、 末 尾 に 於 い て 流 れ 始 め る 水 は «L ’eau mur murante en mur murant coulait...» と い う こ の 上 な く 豊 か な 音 楽 性 を 湛 え た 表 現 に よ っ て 呈 示 さ れ る の で あ る。 併 せ て 本 翻 訳 テ ク ス ト の 大 き な 特 徴 を な す の は、 第 一 連 に 現 れ る «L es mur mur es du soleil» と い う 表 現 で あろう。原詩には全く見出し得ないこの詩句が伝える、 太陽の発する囁き、 呟きの声、 その微かな音が全体を貫くことによって、 “Un Conte de fées ” 自 然 神 話 的 な 様 相 に 彩 ら れ る の で あ り、 そ う し た 世 界 に 生 起 す る 出 来 事 と し て、 オ ノ マ ト ペ の 機 能 に よ っ て も た らされる原詩の不条理な展開の語り直し、再表現がなされているのである。   これらの翻訳は、厳密な等価性の原理を前提に据えるならば、原文との同一性の規範から明白に逸脱したテクストとして、翻訳 の名に値しないものとも見做されよう。しかしながら又そこでは、寧ろそうした原詩からの隔たりや歪曲をとおしてこそ、それぞ れに原詩の世界との同一化ならぬ近接、類縁化が試みられていることは紛れもない。それらの翻訳テクストは、原詩の言わば︿変 形﹀に於いて、等価性の原理から緩やかに解き放たれる形で、多層的な性格を備える原詩との或る側面に於ける対応の関係を作り 出しているのである。   原文と翻訳という二つのテクストの関係について、近年の翻訳論が周到な議論を重ねてきたことは周知のとおりである。例えば ジ ョ ン・ サ リ ス は、 ﹁ 翻 訳 が 生 み 出 す 或 る 種 の 不 可 避 的 な 歪 曲︵ a cer

tain inevitable distor

tion pr oduced by translation ︶﹂ を 前 提 と し た 上 で、 ﹁ 翻 訳 は も は や 意 味 を 再 現 す る も の、 つ ま り 或 る 言 語 で 表 現 さ れ た 同 一 の 意 味 を 別 の 言 語 で 表 現 す る も の と 想 定 す る こ と は出来なくなる。寧ろ翻訳は、 或る言語による別の言語の調整された変形 ︵ regulated transfor mation ︶ と見做されなければならない﹂ と述べつつ、そのような﹁不可避的な歪曲﹂を孕んだ﹁変形﹂としてのみ﹁或るテクストに於いて意味されたものは、別の言語の コ ン テ ク ス ト へ と 運 び 込 む こ と が 出 来 る ﹂ と 指 摘 し て い る ︶16 ︵ 。 こ う し た 見 解 は、 ﹁ 翻 訳 は、 そ れ が 由 来 す る 作 品 と は 全 く 別 の 異 本 で ある︵ L

es traductions sont des versions à par

t entièr

e de l

’œuvr

e dont elles dérivent

︶﹂と記すミカエル・ウスティノフの主 張 ︶17 ︵ と明ら かに通底していよう。またベンヤミン﹁翻訳者の使命﹂に注解を加えつつ自らの翻訳論を展開するアントワーヌ・ベルマンの規定 │ │﹁ 言 語 と 言 語 と の 間 に 如 何 な る 等 価 性 も 現 実 に は 存 在 し な い ﹂、 ﹁ 翻 訳 は 翻 訳 不 可 能 性 の 空 間︵ l’espace de l ’intraduisibilité ︶ に

(26)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ 於いて││その空間を消滅させることなしに││成就される﹂との認識を前提とした、 ﹁翻訳は原作の或る種の変形[変貌、変態] ︵ une cer taine métamorphose de l ’original ︶ で あ る ﹂ と い う 発 言 ︶18 ︵ も 同 様 の 脈 絡 に 位 置 付 け る こ と が 出 来 る。 こ れ ら 一 連 の 翻 訳 論 が 異 口同音に語り出しているのは、翻訳の古典的規範である等価性の原理の無効性の指摘であり、そして翻訳は原文と異なる、別のテ クストとして存在することの言明に他ならない。但し勿論両者は、等価的同一性ならぬ差異に於いて、或る密接な関係で結ばれて いる。ベルマンはこう記す。   こ こ で 父 親 と 子 供 の 間 に 作 り 出 さ れ る 関 係 の こ と を 考 え ず に は い ら れ な い。 こ の 関 係 の 本 質 は、 手 短 に 言 え ば、 ﹁ 私 の 血 肉 を 分 け た 子 供︵ chair de ma chair ︶﹂ は 同 時 に﹁ 別 の 身 体︵ autr e chair ︶﹂ で も あ る と い う 点 に あ る。 ベ ン ヤ ミ ン は ず っ と 後 の と こ ろ で 言 語 に 関 し て 類 似 性 な き 類 縁 性 0 0 0 0 0 0 0 0 ︵

parenté sans ressemblance

︶ に つ い て 語 る が、 そ れ は 無 意 味 な こ と で は な い。 ︵ 中 略 ︶ 生みの親と子との間で交わし合うもの、 それは 永続 0 0 ︵ perpétuation ︶である。私は父親として自分の息子の中に生き続ける。し かし同時に、この息子は根源的に別の存在である。私は︵息子の固有の存在に関する限り︶如何なる点でも関わりを持たない し、また逆に、息子も︵私の固有の存在に関する限り︶如何なる点でも関わらない。息子はただ存在することで私を永続させ るが︵これがまさしく唯一つの真の生の 永続 0 0 である︶ 、その存在はしかしながら、全く私の方を向いてはいない。   ベルマンは、右のように父親と子供の関係という巧みな比喩の下に、原文と翻訳の二つのテクストの関係を語り出している。そ れを、 ﹁あり得る最も大きな 親密さ 0 0 0 ︵生み出すこと︶とあり得る最も大きな 隔たり 0 0 0 ︵翻訳テクストは確かに生み出されたものだが、 原作に対して何の意味も持たない︶とで構築された関係︵ un rappor

t constitué par la majeur

e intimité possible (l ’engendr ement) et la majeur e distance

possible (le texte traduit, cer

tes engendré, ne signifie rien pour l

’œuvr e) ︶﹂として捉えるその見解は極めて示唆的であ るだろう。即ち翻訳とは、原文に対する差異や距離の中に於いて、原文との間に或る種の連続性、類縁性を生み出すこと││そう し た 関 係 を 新 た に 敷 設 し、 創 り 出 す︵ constituer ︶ 行 為 に 他 な ら な い の で あ る。 そ し て そ れ は、 先 に 見 た ア リ ュ ー に よ る 初 訳 と 再

(27)

東北大学文学研究科研究年報   第六八号 翻訳との関係に示されているように、常に一回的な行為としてなされることになるだろう。   右に参照したのは何れも翻訳全般に関わる理論の提起に他ならないが、それが、先に触れたようにその本質に於いて翻訳不可能 性が指摘されてきた詩歌の翻訳について再考する際にとりわけ貴重な発言であることは言うまでもな い ︶19 ︵ 。即ち本稿が検討してきた 五篇の﹁一つのメルヘン﹂翻訳は、それぞれに大きな歪曲や欠損を抱え込みながら、その﹁隔たり﹂を介して、原詩との間に﹁親 密な関係﹂を形成し、構築することを試みた、一回的で個別的な営為として捉えられる。そのように個々の翻訳が固有の角度から 関係化を試みる中で、 原詩の或る側面が強調され、 或いは増幅され、 更には原文の潜在的な性格や要素が顕在化することにもなる。 そのように二つの異質な言語の間│界面に於いて、翻訳不可能性のさなかでなされる、原文との間にその都度新たに或る側面での 類縁や呼応の関係を形成、敷設する試みの裡でこそ、翻訳の不可能性から可能性への通路が開かれることとなると考えられるので ある。 注 ︵ 1︶  

An Anthology of Haiku Ancient and Modern

, translated by Asatarô Miyamori

︵ Mar uzen Company Ltd., 1932 ︶. 訳者の Asatarô Miyamori ︵宮森麻太郎︶は、この 翻 訳 に 付 し た 短 い 注 解 に 於 い て、

«The chief merit of this verse consists in the extr

emely pleasing r

hythm of

notari

-notari

which cannot adequately be r

epr o-duced in a translation.» と述べている。 ︵ 2︶   HAI K U , translated by R

eginald Horace Blyth, vol.

2 -Spring ︵ The Hok useido Pr ess, 1950 ︶. なお引用は同書のペーパーバック版︵ Hok useido, 1981 ︶に拠る。 ︵ 3︶   Haïku , traduit par R oger Munier ︵ Fayar d, 1978 ︶ ︵ 4︶   Collected Haiku of Y osa Buson , translated by W . S. Mer win & T akak o L ento ︵ Copper Canyon Pr ess, 2013 ︶ ︵ 5︶   Paul V alér y, “P oésie et P ensée abstrait ”, P. V aléry ; Œuvres . tom. 1 ︵ Gallimar d, 1968 ︶ ︵ 6︶   小野正弘編﹃日本語オノマトペ辞典﹄ ︵小学館、平成一九 ・ 一〇︶ ︵ 7︶   注︵ 6︶に掲出の﹃日本語オノマトペ辞典﹄の解説による。 ︵ 8︶   そ れ は、 大 正 元 年 に 文 部 省 唱 歌 と し て﹃ 尋 常 小 学 校 唱 歌︵ 四 ︶﹄ に 収 録 さ れ、 人 口 に 膾 炙 し た﹁ 春 の 小 川 ﹂ に 用 い ら れ て い る │ │﹁ 春 の 小 川 は   さ ら さ ら流る﹂││ように、 ﹁さらさら﹂の最も一般的な用法と言えよう。

(28)

オノマトペの翻訳︵不︶可能性

中原中也﹁一つのメルヘン﹂と翻訳︵佐藤︶ ︵ 9︶   こ う し た 用 法 は 周 知 の 如 く 石 川 啄 木 の﹃ 一 握 の 砂 ﹄︵ 東 雲 堂 書 店、 明 治 四 三 ・ 一 二 ︶ 中 の 一 首﹁ い の ち な き 砂 の か な し さ よ / さ ら さ ら と / 握 れ ば 指 の あ ひ だより 落 つ﹂に於いて効果的に活かされている。 ︵ 10︶   この点に関しては、拙稿﹁中原中也の詩の可能性││﹁一つのメルヘン﹂の成立││﹂ ﹃文芸研究﹄一七七、平成二六 ・ 三︶も併せて参照されたい。 ︵ 11︶   な お﹃ 新 編 原 中 也 全 集 ﹄ 第 一 巻﹁ 解 題 篇 ﹂ に よ れ ば、 初 出 稿 で は 第 一 連 四 行 目 は﹁ 射 し て ゐ る 気 持 が し ま し た。 ﹂ と な っ て お り、 そ の 不 条 理 な 光 景 は あ くまでも感受のレヴェルの表現によって示されているが、現行テクストに於いて、そうした不条理性を緩和化する詩句は削除されたことにな る。 ︵ 12︶   こ の 点 に 関 し て は、 ﹁ ゆ あ ー ん   ゆ よ ー ん   ゆ や ゆ よ ん ﹂ と い う 特 異 な オ ノ マ ト ペ が 用 い ら れ た 中 也 の 詩﹁ サ ー カ ス ﹂ に つ い て 考 察 を 加 え た 拙 稿﹁ 翻 訳 された﹁サーカス﹂ ﹂︵ ﹃中原中也研究﹄第一六号、平成二三 ・ 八︶参照 ︵ 13︶   イヴ=マリ・アリュー、大槻鉄男訳﹃日本詩を読む﹄ ︵白水社、昭和五四 ・ 三︶所収 ︵ 14︶   Nida, E. and C. T aber

, The Theory and Practice of T

ranslation ︵ Brill, 1969 ︶ ︵ 15︶ 例 え ば 大 岡 昇 平 は﹃ 在 り し 日 の 歌︿ 中 原 中 也 の 死 ﹀﹄ ︵ 角 川 書 店、 昭 和 四 二 ・ 一 〇 ︶ に 於 い て、 ﹁ 一 つ の メ ル ヘ ン ﹂ の 世 界 を﹁ 異 教 的 な 天 地 創 造 神 話 ﹂ と 捉 えている。また吉田熈生も同様の見解を示している︵鑑賞日本現代文学﹃中原中也﹄ ︵角川書店、昭和五六 ・ 四︶ ︶。 ︵ 16︶   John Sallis, On T ranslation ︵ Indiana University Pr ess, 2002 ︶ ︵ 17︶   Michaël Oustinoff, L a traduction ︵ Pr esses Universitair es de F rance, 2003 ︶ ︵ 18︶   Antoine Ber man, L ’Âge de la traduction / «L a tâche du traducteur» de W

alter Benjamin, un commentaire

︵ Pr esses Universitair es de V incennes, 2008 ︶ ︵ 19︶   ロ マ ン・ ヤ コ ブ ソ ン は 詩 の 翻 訳 不 可 能 性 に 関 し て、 ﹁ 詩 は、 定 義 上、 翻 訳 不 可 能 で あ る。 一 つ の 詩 型 か ら 他 の 詩 型 へ の 一 言 語 内 で の 転 換[ 移 し 換 え ] ︵ transposition ︶ で あ れ、 ま た 一 つ の 言 語 か ら 他 の 言 語 へ の 転 換 で あ れ、 或 い は 最 後 に、 例 え ば 言 語 芸 術 か ら 音 楽、 舞 踏、 ま た は 絵 画 へ の、 一 つ の 記 号 体 系から他の記号体系への記号間の転換であれ、 可能なのは、 ただ創造的な転換︵ la transposition créatrice ︶だけである。 ﹂と述べている︵ R oman Jak obson, ES SAI S DE LI NGUI STIQUE GÉNÉRALE , traduit de l’anglais et préfacé par Nicolas R uwet. ︵ L es éditions de Minuit, 1963 ︶︶ 。本論がここで参照した一連の翻 訳論は、ヤコブソンの指摘する﹁創造的な転換︵転移︶ ﹂を、翻訳テクストの実態に沿って理論化したものとも言えよう。

参照

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