• 検索結果がありません。

数育精神の継承と高揚

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "数育精神の継承と高揚"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)1. と 高揚. 教育精神の継承 信州教育管見 松. 本. 賢. 目. 次. 治. 信州教育の誇り. Ⅰ 1. 信濃教育会. Ⅲ. 序. 1. 卓抜な指導者. 2. 月刊「店濃教育」. 3. 自主と協力. 歴史をになうもの. 2. 教育尊重の気風 4. 信州の学校. Ⅱ. 一本化不必要論 伝統と風土. Ⅳ. 1教育精神の醜限. 1. 風土と県民性. 2. 日々是修業. 2. 蓄梼と培養. 「任期制」. 3. 3. Ⅴ. 私淑と信蹟. 4. 伝統の発展 結. 語. 序 この小研究は,. 1962年11月,. 「信州教育の木蘭」なる主題の下に,私の所属する教育. 学教室が試みた研究旅行を機縁として生れた。一行は男女学生9名と私および鈴木講師で あった。. (ただし,本稿は,私個人のリポートである。). 改めていうまでもなく,信州はつとに教育県として知られ,全国各地から連日視察参観. 者が訪れる。おそらくここ数年来,その数はいっそうふえているのではないか。信州教育 といっても,それは何か特定の偉人や模範校があって,それを基準にしていうわけではな く,明治いらい90年の間に,おのずから形成されて来た特色ある傾向・伝統を指してい 2)子どもに打 1)教師の強い使命感,責任感・ う.のである.その特卑は何かというと, ち■とむ情熱,. 3)学校に対する社会の協力と支持. などであろう.このことはかなり多く. の人びとが認めている点であって,ひとはそこに「古き良き時代」の余光を見出すのであ る.それ故,他府県からの視察者,特に年輩層のものは,一種の感銘とともに郷愁を覚え. るのであるが,また若い教師たもの中には,時代おくれを強く指摘するものもあろう。信 州教育に対する共鳴も反感もそれぞれの立場あってのこととて一概には言えぬが,やはり 主観的印象批評が少くないのではあるまいか。信州人はよく,人を評して,. 「あれはほん. ものか。」という。誠実と自由を愛する信州人らしいことばである。またそこでは, のことは要するに人間の問題・教師の問題」と割切って,戦前,西田哲学の洗礼をうけた 教師は多い。哲学だけでなく,宗教,文学,社会科学に身を入れるものも少なくないので. ある。教育技術を必ずしも軽視するのでほないが,人間あっての技術だというのであり,. 「教育.

(2) 2. 松. 木. 賢. 治. いわゆる技術主義からは遠いのである。いってみれば,それは人格主義と名付けてよいも のであろうか。. さて,上に三つの特色をあげたが,それらの根抵をなすものは,何といっても,教師そ のひとが自己の職分について不断に反省し,自覚し,修練して行く姿勢に求めなくてはな るまい。そこに教師たることの自信と誇りも育てられて行くのである。そしてこのような 教師の姿勢は個々人の心がけの問題だけでほなしに,信州教師全体の深い連帯意識に支え. られ,先輩後進と同輩の間で,さながら日常呼吸する空気のように鯵透して行くのである. この研究では,そのような教育精神がどのようにしてうけつがれ,高められて行くか, をみようとした。教師の資質向上とそのための再教育を説くひとは多いが,通りいっぺん の講習会や研究集会に何程予算をかけ時間をかけても,効果は期待にほどとおいという声 もなくはない。浅薄な模倣がもたらすものは失敗以外にないが,しかし,信州教育の重要 な一面である教育精神の継親のしかたには,深く考えさせるものがあると思うo 上のような意図の下にまず「信州教育の誇り」(Ⅰ)において,教師その人の姿勢とこれ を支持する県民各層の態度を述べ,以下,こうした誇りを可能にしている条件と背景の主 要なものを身近なものから順にとりあげて検討してみたい。すなわち, こそ,毎日の教育活動に即して教師を修練する場所であり,つぎに,. 「信州の学校」(Ⅱ) 「信濃教育会」 (Ⅲ). の組織を通じて,信州教育全体がどのように太い柱で構築運営されるかをみる。最後に, もっとも基底的な地盤としての信州の「伝統と風土」. (Ⅳ)をとりあげ,如何に深く堅固. に板をおろしたものであるかを明らかにしようと試みた。 文字通りp r管見」にすぎないが,日本の教育のよき伝統を保持する信州教育について,若 干の見解を提出し,大方の御批正をのぞむ次第である。. Ⅰ信州教育の誇り 歴史をになうもの. 1. 信州教育の木蘭は,まず,教師の姿勢に求めなければならないであろう。それは一言に して,・歴史をになう老としての自覚というに尽きる。教育は子どもを通して未来を創造し て行く仕事であり,現在の情動の中に,全過去をふくむとともに,未来をもはらむのであ 'るo. うしろには数々の民族・人質の貴とい遺産,そして前には不可測の広大な展望。日々. の営みはそのような全体の部分であり断片にすぎぬとしても,それは大きな全体の生命が. 師打つところの部分であり断片である.教育の対象たる個々の子どももまた,さながら一 個の小宇宙(Mikrokosmos),しかも刻々に価値を増し行く小宇宙であり,未来の運命は それらのものの上にかかるのである。 教育が底知れぬほど壮大な事業の一部として把垣されるとき,教師が自らの資格を問い,. 器量の乏しさを憂えて,謙虚にならざるを得ないのは当然であるが,他面また,かかる使 命を与えられた老として乏しきに鞭打ちつつ修養につとめ,歩一歩着実な足取りを以てす すんで行くところに,おのずから何程かの自信と誇りを感ずるのであろう。謙虚であフて 同時に自信と誇りをもつとは矛盾のごとくにして実は矛盾でない。自信なき謙虚は実は卑.

(3) 教育栴神の継承と. 3. 高揚. 屈であり,謙虚を欠く自信は過信にすぎない。.この二つは教師の(すべての職業人のとい ってもよい)あるべき姿の両面にほかならないというべきであろう.三 やゝくして教師は,その職分を正しくつかみ,正しく遂行し得るために,つねに全体を志 向し,本質を追求することをつとめなければならない。月傭い仕事のように与えちれた部. 分だ桝こしたがい,それに満足しているわ桝こは行かないo世上,教師の小市民化,サラ リーマン化が言われているが,そのよ.うな立場では,与えられた仕事をせいぜい忠実に果 すにとどまって,深刻な悩み,不安もない代りに,真の教職への誇りや自信ももち得ない であろう。ところが,歴史をになうものの自覚に立つ教師は,全くちがう。信州の教師は. かって,哲学・宗教・文学・芸術など,に没頭し,その中で月己を全体の中に位置づけるこ とに努めた。戦後,条件は大-ん変化したにもかかわらず,そうした遺風はなお強く生き ていて,戦前派の年輩層はいうまでもなく,哉中・戦後派の教師たちも基本的にほ同一路 線の上にあるようである。 Lなお, I後に述べるように,信州の教師がしばしば,自ら求めて各地の学校から学校に動 くのも,根本は全体をつかむというはげしい欲求の表現とみられる。すすんで臭った条件. の中に次々に身を投げ入れつつ自己の精神を鍛え,深めて行くのであって;そうすること. が,安易になずみ勝な人間性を絶えずひきしめ,新鮮な情熱と気塊をもって子どもに打ち 込む.こととなるのである.. ・S.て,上に述べてきたのは,教師の精神の高さであった。当然のことながら,ここの先 生方は殆んど内職とは無線の人びとであるが,生活の方はどうなのか。農家出身が最も多 いといわれるが生家からの通勃という如きはまず例外,かつ偶然に属するから,俸給だけ の生活ということであって,決して楽ではない。ある校長は「若いときには,俸給が倍に なればよい,といつも患い,いまもそう思っている。思うだけで決してそうほなら,a.が 俸給と仕事は別だ。」と語った。. 「安いから仕事の方もほどほどに」といった観念は,-・ここ. では無縁のものである。. 恒産なければ恒心なし,という。信州教師のばあいは例外なのだろうか。. 「浪費と貧乏. がとなりあわせている」という消費ブームの大都会では,背伸びした生酒が教師の恒心を 蝕ばみ,時に窒息させているが,信州は,z生来質素な生活様式に慣れ,しかも乏しい中を 割いて研究のための支出を惜しまないという凪が固く板をおろしているようだ。要するに. 高い精神を支えるものは質素な生活様式であり,習慣である。しかも県民性はそれを苦に しないのである。 2. 教育尊重の気風. およそ教育県といわれるほどのところでは,学校や教師だけでなく,地域の住民一般が 熱心に教育を支持し協力するのがふつうであり,この点,信州は-つの典型であろう。後 にやや詳述するごとく,そこには早くも封建の世において好学の伝統が深く広い板をはっ. ており,維新後この道産の上に,学校関係者の熟むな努力と相まって,県民の敦育的関心 はますます高められたのであった。 村の老人も好んで小学校時代の恩師のことを語る。先生は大事なしごとをしてくれ七い.

(4) 松. ・1. 本. 賢. 治. るという観念はこの地方の住民の間に徹底していて,よい先生を出すことを郷党の誇りと する凪が強い。故長田新先生が諏訪中学を首席で卒業したとき,新聞でこれを知った村人 たちは祝いを述べに来て,こんどは長野に行くだろう,と言ったという.長野師範に行っ て小学校の先生になることを無上の名替としたことがよくわかる詣である1)0 信州でほ中華や高楼(旧制)の先生よりも小学校の先生の方が尊敬されたといわれ,そ の実例として,長田先生の語られるところは興味深い。すなわち,大正2年,京大文学部 の教授・学生の一行が信州旅行をして松本駅についたとき,歓迎の代表としてきたのは, 有名な松本中や松本高校の校長でなしに,小学校長であり,その夜の歓迎晩さん会であい さつを述べたのも同じ小学校長であった。. 「中学校長や高等学校長は下座に小さくなって. いた」,という乏). 小学榛教師が特に尊敬されたのは,当時の制度として,小学校だけがみなの就学した学 校であり,そこでは全科担任で深く人間と人間とのふれあいがなされたからであろう。. 「党生が来て住まってくれれば,離れ座敷でも奥座敷でも,喜んで提供することは珍らし くなかった。野菜にせよ,くだものにせよ,菓子にせよ,先生の家ではもらったものが使 いきれず,処分に困ったものだ」3'。いうまでもなく,当世風の下心ある贈物とは全然別の もの。先生は尊敬だけでなくこのように親しまれていたのである。. こんにちはしかし,たとえば長野や松本のような都市では,先生の住宅難が相当大きい 問題となっている。大部分の先生は他郡市の出身なので,かなり高額な住宅費を支払わな ければならない。さきに述べた質素な生活というものも,住宅・食糧・教育費などがかさ. むため,大いに脅やかされていることは否定できず,教組を通じて待遇改善の要求は強い のである。. 一般住民の教育的関心の一端を述べてきたが,白治体や教育委員会はどうか. まず,教育費について,公費負担の原則がよく貫かれている点注目をひく。しばしば他. 府県の市町村が予算を出ししぶり,. PTA-のしわよせを当然視する例は珍らしくなく,. 時に後者の負担の方が多いばあいさえある。この点,さして富裕であるはずのない信州の 市町村当局は,教育優先という住民の意思を体して,かなり高率の予算を計上するのであ る。つまり,. PTA会費は少額で済み,しかもPTA本来の活動に当てられるわけで,こ. れがほんとうであることはいうまでもない。それゆえまた,校長や先生たちはPTA幹部. の前に卑屈になったり鼻息をうかがう必要なく,貸借関係がない以上各々独立心をもって, それぞれの任務をつくすことができるわ桝こなる.公費といっても住民税だから,ふとこ ろは同じだという理屈もあろうが,すじみちのはっきりしている点如何にも信州らしい。. 教育委員会は,教員の人事権をもつことが法令で窪められている。ところで,信州でほ 校長教頭は別として,一般教員については,校長が人事をまかされており,その意義きわ めて大きい。なぜか。教育機関としての学校において職員構成の問題は最も基本的なもの。 同一の人については,ほぼ3年で異動するといわれ,そうだとすると,一つの学校の平均 三分の一に当る先生が毎年(学年末)異動することになる。わずか20-30人ほどの,j、さ な職場のこと,まして一人一人が相当独立性をもった職場のこととて,機械的人選ではう.

(5) 5. 教育精神の継承と高揚. まく行くはずがない。経営責任者(校長)にまかすことができればこの上ないわけである。 また,校長としても,自分の学校をよくするた軌. またいままで尽してくれた部下の将来. のために奔走する苦労は,これをよろこんで行なうのである。法にとらわれて教育の実情 に暗い役人が人事を一手ににぎるばあい,どのようなことになるか。信州はよく法を運用 して好成果をあげるものと評し得ようo II信州の学校 信州の学校は世間でいう学校差が殆んどない,といわれる。なぜか。その最大の秘密は,. 凡そどんな学校に奉職しても,校長以下先輩が一致して,これを立派な先生にするためあ らゆる協力を惜しまないからだ。学校のみならず,地域の人々は,先生を尊重し,期待を かけるからだ。このことほいわば長く,そしてゆるがぬ伝統であり,ふんいきである。こ の点,まず第一に,注目せねばならぬ. 一体,教師の資質向上のために,講習や講演を行なうことは必要ではあるが,その効果 があがるもあがらないも,結局は本人が平素どれだけの心組をもって仕事に打ち込んでい るかにかかる問題である.すぐれた体質は平素が肝心であって,ときどきの栄養物だ捌こ たよるわけに行かないのと一般であろうo l. 教育精神の開限. 信州の小・中学校の職員名簿をみると,旧制師範や信大教育学部など正規のコースを通っ. た人のほかに,いわゆる傍系出身者が大-ん多い(ことに中年層)のが目につくoいわゆ る「代用教員」をふり出しに,初めは当分のつもりで教えたが,そのうち非常な興味が生 じ,やがて資格をとって,それを一生の仕事と思い定めた人びとである。 正規コ-スのばあいは,師範または教育学部で一通りの基礎を学び,付属学校での教育 実習を経験することになるo付属ほ信州教育を典型的に代表するものの一つ(児童・生徒 の入学も完全抽せん制で行なう)で,ここでの実習ほ教育の何たるかを身を以で障らせる のであるo付属は長野(教育学部本校)と松本(同分校)にそれぞれあってiその先生方 は各郡市から適ばれたいわば代表,しかも両三年後には再び地方に転出するのであるo全 体的にみて水準の高い信州のこと,その中から選ばれるというだけで,どのような先生か の想像はつこう。先生方は受持の教生を自分たちの後進を育成するという意気込みを以て 研究指導する。教案の作製・授業の批評など,しばしば深夜におよぶとか。先生もさるこ とながら,その激しい訓練をよくうけとめ,これに立ち向って行く学生の根性も,流石で ある。. 付属で行なう基本実習のほかに,一般の公立校に委嘱して行う地方実習(iたほ研究旅 行)があり,この委嘱を受けた学校でほ,校長以下全職員がいとも丁重に教生を迎え,立 派な先生として待遇する。同時にしかし,教材や教育法などになると,後進育成の伝統を 発揮して徹底的な研究指導を行なうのであるo. 教育実習ほとにかくとしても,とにかく教育精神への開眼は,現場で,実際酒動の中で 行なわれるo これが先生の生晴の出発点であるQ.

(6) 6. 松. 本. 賢. 治. 日々是修行. r2. 敬白馴こ任食されて赴任し,一つの学級を受持ち,数十人の児童生徒の前に立つというこ. とは,考えてみれば大へんなことであるoいやおうな、しに,一時間一時間 のきぴしい仕事 が迫ってくるo このばあい,同学年またほ同教科を担当する先輩同僚の援助はこの上もな. い助をテセあろうoそうした磯会を与えるものを学年会・教科孫金一などとよんでい畠o 学校でほ何よりも子どもの指導が第一義だ。だから,子どもが放課後,クラブ活動や遊 叔運動をしている問は,教転結子どもと行動をともをこするoそこで,教酪が自分らだをナの 時間をもつのは,子どもの退校時以後,つまり5時頃以後となるo前述■の学年会・教科係 会をやれるのはそれからのことだ.. し、ま,岡谷小学校できいた一週間の割当はつぎの如きものである.月-厳科研究会.火 一児童会(子どもといっしよの)。永一職員会ほたほ読合せ会)o木一職員研修。金一学 年会.土-教育余・教組などの打合せ. これらほいずれも最低2時間を要するという。■話し好き,議論好きで,あまり時間を苦. にしない気質もあろう.しかも,教務とか庶務とか療建とかさまざまの校務ほ職員をこよっ て分担され,それに伴う壌務があり,また,何よりまず,当日の授業のあとしまつや明日 の準蓉があるo発生方にほ,もとより超教のある絃ずもなく,といって一般の公務員暮サ ラリ-マンのように残った仕事ほ明日というわ桝こも行かない。夜おそくまで,職員室・ 会読望め灯経済えることがない所以である*o 3. 「任. 期. 制」. ・学校全教員あげて位食感にをまりきる条件の-つぼ,人事に渋滞がなく,活発な新陳代謝 が行なわれることにあるo信州では一つの学校に5年, 10年勤続という例は皆無ときく.. 校長とv`、わず,一般教廟といわず,ふつう3年,長くて4年を区切りとして他に動くo学 磯の併かちいうと,全職員の平均1i3に当るものほ,毎学年末に入れかわるo. したがっ七. ほぼL3年を経過すると殆んど別の陣容になってしまうo をちわば不文韓の「任期溺」というわをナだが,この-ようなことが鷺鐘のこんにち依然行な. われているところ,信如の面目といえよう.他府県ではかつて小・中学校の人事権が地数 寄の享をこ渡っていらを、狭い範囲のたらいまわしをこなり,儲変改正で県教委一本とも、うこと にならても旧弊から脱却できずにいる例は決して少なLくない。もちろん-方では教師の人. 棒尊重,■生活権撰藩という立場へ(敦盛)も&'って,素人が生家鷺たは自宅からの遠聾を固 執すれば,それでもということば難かしい.この点,信州は全くちがうo通勤はできぬも のとほじめから覚悟ができているからだ。下宿・借家住いの覚悟があれば,場所ほ二義約 である.ジ'とらわれずた希望を申し肖ることができる.そこで;異動ほ全県一円,南から先 から,数千にのぼる先生たちが新任地に赴く.. 3月未払. おくるもの,迎えるもの,さま. ぎ恵の歓送避風景がくりひろげられるo 職員数30人といえば,信州では中以上の規模o一度に1. 10人の転出というのだからそ. *長野県公立中学校教員の勤務時間は,一日平均羊1時間45分に達するというo 長会の最近の調査結果によるo (松本市立丸の内*学校良二村和∴民). これは筒中学校.

(7) 7. 教育精神の継承と高揚 の中に老練者も新進気鋭もいて失うものは大きい。がその代りにいままでなかった新らし. い経験や知慧も期待できるというもの。新しい仲間が学校になじんでくるまでに何程かの 期間が必要だし,その間,他校での経験や見聞を加えて反省や批判の話しあいも行なわれ. よう。一年はそう長くない.春ほまたたく間にすぎ,秋から冬の夜長に研究は熱を帯びる ことであろうoその間,いろいろの行事がはさまって時間をとられ,再びいつしか学年末 を迎えることになるわけであろう。 およそ,小さい子ども相手の(教育という)仕事は,慣れるにしたがって気がゆるみ,一 T7ンネリズムに陥る危険がある.仕事の性質からも来るが,人間につきものの弱点だとも 30人ほどの小さなものだから,. いえる。ことに,学校という職場は,せいぜい20人,. 人事の風通しがわるいと,またたく間に空気が淀んでしまう。教育は,役人のように頻繁 に動いたのセは,責任のある仕事ができぬ。し功名手柄でなしに,あとあとを考えれば,一 律にきめるのほ如何なものか,という意見はあり得るoこの意見には一理も二理もあるが, しかしめどがあっての仕事は,・ないに勝るし,全体がそういう体制なら,無責任な個人プ. i,イが許される余地はほとんどあるまい。 激務であり,餐. っいでながら,世帯持の女教師がほとんどいないのも,特色の一つ*o 庭と両立しないと信ぜられているからだ。もちろん問題ほあろうが,少なくとも人事最大 一の悩みが救われていることは確かである。 4 私淑と信軽. 上述すべての背後に,校長の大きな存在があるととは当然であろう。実際それは筆舌に 尽せないほどのもので,それゆえわざとひかえておいたのだが,ここにあらためでとりあ げたいと思う6. v、うまでもなく校長柱学校の経営責任者である。そ・の先生方がたがいに相より相たすけ て日々修業にはげむとき,名実ともに先達となり,後進育成に努めるのは,信州校長最大 の職責である。校長こそほ,最も心身を労して修業を積み,よくその試練に耐えたもので あり,学問芸術など一道一芸に分け入りた先輩でもあるo信州の校長には人物識見に秀で たもめが格段に多いようである.世渡り上手ということばはここでは通用しない.世才だ けでつとまる校長とはまるで国柄がちがうのである.だから信州の校長は,よほどめこと がなければ学校を留守に出歩くことをしないoノ専ら外交を校長職と心得るようなことは如 何にしても理解し難いところだろう。ところが,年度末近い2月・ 3月になると,校長は にわかに畠守勝になる。いうまでもない占人事問題(ただし自分のことではない)のためだ. 校長の立場からすれば,かりに10人出すことは,代りに10人入れること,つまり20 人を手がけることだ。出す先生は,いままで学校のため,子どものために・つくしてくれ た先生であり,一人一人の希望をきいて,できるだけそれに添うよう,また将来がひらけ. るよう親身に相談にのり,関係方面と話しをつけるム迎える人については,新年度の経常 _〟...A.....「... _. _. . -.. _. .- .. ・. 、. ,. ■■丁こ. ・. 7oという.もちろん全県平均 %中学校は12 *教員総数の中で,女子が占める率払・小学校で25 だから,凹凸はあるが,それにしても少ないのは,殆んど帯解前の独身者に限られるからであろ う。 (松本市丸の内申学校二村校長).

(8) 8. 松. 本. 賢. 治. 方針,現在の職員構成の強弱を勘案して,よりよい編成を心がける. -、何分,ことは人事であるo必らずしも計画や予想が支障なく実現できるわけのものでな い。校長ほ自分のあしで,広い信州を歩きまわる。時に-一人をきめるにも,現地にとまり. こんで徹底的に話しあい,数日を要することがあるという。 、人間一人の運命にかかわる問題であるo人まかせだの,手続や電話だのというわをナに行. かないというのである。諏訪市のさる大校長は,. 「あしなすりこぎにして」と述べたがこ. の古風ないいまわしに経不}転義をこ繁盛がこもっていたのであるo. 部下を思う至情ここにいたる。白分がえ・らび,あるいはすでに在職している教師を,忠 沢をこ育て上をデること経,当然すぎるをまど当然の責落と感ぜられるo校長白身もそのようをこ して育てられてきたのであったo他方,教師の側でも,校長を信椀し,きびしい訓練を期 待する。校長と教員ほ単なる管理,被管理でほなく,あたたかく,かつきびしい人間関係 なのであり,同行の先輩後輩なのである。 およそよき師たらんほどのものほ,自らよき弟子でなくてはならないo私淑する師をも たぬ如き人にして,よくひとから私淑をうをナることはないのである.単に知識技能の伝達. を以て満足しない以上,教師の前には不断に導きの灯が灯っているべきものだと思う。学 問・芸宥がその灯であると同時に,毎日の実践や生き方人生寵を照らすの経いつも身近か. にいる校長先輩でありたいo信州の学校ほぞの意味で高く評価されるに低いすると考えるo III信濃教育金 将卓R一円の学校,わをナても7l、 *学校ほ,信殉教育のよき伝統を雛親し高落する第一の ・. 場であったo. さて,次は何か.私はこれをその先生方の組織する信濃教育余に見出す.信. 濃教育会を抜きにして借料教育を語ることほできないoそれはま-さしく信州教育の背骨, 頭脳なのであるo.. 教育会というものは,戦前,中央地方を問わず,どこにも存在していたo. しかし,敗戦 後,教組が続々結成されるや,たちまち席をゆずって幸肖えて待った。現在,市単位のもの は若干あるが,府県段階のものとしては,信濃教育会ただ一つ。しかも戦中戦後の困難に 常盤して,慧すます発展をつづu・,鼠妹と活動におも、てよくこれ書こ匹敵するも-のをみな. (明治19)年10月o い.一例を機関誌.「信濃教育」(月刊)にみよう。創刊は遠く1886 会の倉Ij立とともにをまじまり, 1963年7月現在で第920号に達するo慶戦前後,ないない 尽しで廃・休刊相つ■ぐ障勢にありながら,ただ一回の休刊もない。文字通り,会と共に歩 み,伝脚数賓の輝やく金字塔となっている. 1. 卓抜な指導者. 倍渡教育余の起源ほ,長野市(当時ほ町)の小学校訓導ら26人によって1884. (明治. 7凡 組織を改めて 会員を「全国」(県全体)に募ることとし,ここに信濃教育会が創設されたのである. 17年)に結成された長野教育議会に発する.ついで1886年(19年). あたかも飼設直後のL le月,長野蘭範校長として来任日韓き浅弼-が信濃教育会長に迎 えられた。実質上初代ともいうべき会長の座に,かかる偉材を迎え得たことは大いなる宰.

(9) 教育精神の継承と高揚 福であった。. 9. 「本会生誕の直後に於て先生の如き名会長を得たるは,肋ち本会の今日ある. を致せる所以のものにして,其の就任と共に鋭意会務をりん草せられ,外或は会員の増募 を謀り,或は本県当局並に本県出身在京先輩との連絡提携に力め,内或は会の組織を改め, 或は財政の基礎を輩むる等,本会の健全なる成長を遂くやる準備は全く浅同会長時代に旺胎 せり,夫の本会元賃金の如きも先生夢麻尽力の賜にして,先生の識と胆とに拠らざればお そらくは獲る能はぎりしものならん。」4)と。 補. 注. 技岡-は福島県二本松藩士。明治初年司法省明法寮に学び,明治6年以降,文部省出仕・広島師・ 東京女師教諭・東京府属・文部省普通学務局・和歌LU県学務課長を歴任,明治19年9月長野県学 「浅同氏は人と為り気骨稜々,気 務課長兼師範学校長となった。信濃教育会五十年史記者はいう。 を以て自ら勝ち窮を以て人を率ゐ,毅然として古式土の風格を具-,宏量達識能く大局に通じ其の 言行尽く至誠肺肝に出づ。叉漢文に得意にして詞藻に富み,平生古聖賢に親しむ。且つ仏蘭西語に 通じて麟訳書等あり。之に加ふるに師範学校長にして学務課長を兼ねたる特殊の地位は,枢要なる. 県教育棟関の三位一体をもたらし,本会の施設経輪行く処可ならざるは無きの情勢を創り,其の任 (信濃教育会在十年史・昭和10年, 期八ケ年の間に於て本会の基礎全く確立するに至れり。」 p・24). 信濃教育会はいらい今日まで約80年,その間風雪の幾度なるも,都度これを凌いでよ くその大をいたした所以の最大なるものは,卓抜な指導者に恵まれたことによるのであっ た。浅岡をはじめとして静々たる人材はあげて数うべからざるものがあるが,中でも大正. から昭和にかけて会を指導し,全国に一頭地を抜くにいたらしめた偉材は,佐藤寅太郎およ び守屋喜七の両人である。佐藤(明治44-大正7年副会長,大正7-昭和9年会長)は長野 師範卒業後郷里の校長を20年,ついで県視学・視学官・学務課長として10年,この間信 濃教育会副会長・会長に推された。識見器量の大,清節気骨など,よき信州人の代表と目 された。守屋(大正13-昭和9年専任幹事)は同じく長野師範を出て付属訓導.小学校長を 歴任,令名高いものありしが病気を得て退職。郷里諏訪湖畔に静養中,懇請せられて信濃 教育会の会務に携さわることとなった。守屋もまた大器,佐藤会長を助けてよく経論をふ るい,教育会館の建設・調査研究事業の振興など,功績甚だ大なるものがある。信濃教育 会はいつも教育界の尊敬をあつめている長老を会長に推し,会長を補佐する幹部もまた, すぐれた人材をあつめてきた。遠くは浅岡,近くは佐藤・守屋,この三人には古武士的風 格の共通なも・のがあるが,同時にまた,広く知識を求め遠く慮る理論・実際方面も卓抜と. いうべきである。保守と進歩は教育の本質に欠くべからざる両面だと私は考えるものだが, 本会の代表的人物はこの点信州教育の見事な象徴的存在ということができるであろう。 2. 月刊「信濃教育」. 「信濃教育」については若干すでに言及するところがあった。誌齢の長さもさることな がら,特筆に価いするのほその内容であり,高さである。形の上では一地方団体の磯関誌 にすぎぬが,充実した内容にいたっては,優に全国誌の水準を抜く。数ある商業教育雑誌 の如きは遠く足もとにもおよばないものがある。 この雑誌が質量ともに画期的改善を行ない,こんにちの声望を確立するにいたったのは,. 前記佐藤の副会長たりし大正3年の改革に端を発している。すなわち,頁数の増加,記事 の精選をはかり,論説・論評を加えるなど,中央と地方の連絡に資するとともに,信州教.

(10) 10. 松. 賢. 本. 治. 育の理想,目標の開明を使命としてかかげたのであり,そのため従来の編集方式を改めて, 専任の編集主任制を採用することとなった。しかして,その主任の顔ぶれをみよ.久保田 俊彦(筆名島木赤彦)はその2代目,大正6-9年在任。. 3代,西尾突,大正11-,14年。 4代,土屋文明,大正15-昭和3年.これら初期の編集主任が,その豊富なる学殖識見. を以て,いかに光彩ある誌面をつくり,読者を啓発指導したかは,想像にあまりがある。 のみならず,この期に確立された編集方針は,後長く継承されてこんにちにおよんでいる のである*。. つぎに,■この雑誌の刊行趣意,抱負などを明らかにしておこう。同誌創刊号(明治19 年10月)巻琴につぎのごとく記されている. 「(前略)借本会雑誌ヲ発行スルニ外面ノ若 者-種々月旦ヲ下シ,或-平凡ノ論説トカ,面白カラヌ雑報トカ,或-尋常一様ノ報告ト. カ云-ンガ,教育ノ事タル架空頃楼ノ奇趣向モアルべキナク,誰遇獲禽ノ妙手段モアルベ キナク,務メテ着実平穏,次第進歩ノ方向手段ヲトレバ,外評-間-ザルモノノ,若シ或 -其ノ不体裁不都合アルアランカ,新聞-彼ノ言訳ノ遁辞アレド,本誌-組織性質ヲ異ニ シ,其ノ関係鼓二止マラザレバ,其ノ言訳が言訳ニナラズシテ,会員全体ノ面目に係レリ。 何トナレバ,会則二明文アル如ク会員ノ論説・通信等ヲ採録スルモノ即チ会員ガ臓肺胸臆 ノ反射鏡ナレバナリ。故二会員皆熱心有力ノ教育家ナレバ,熱心有力ノ教育論説等集り至. り,会員皆理化・博物・文学若ク-農商・技芸家ナレバ,理化・博物・文学若ク-農商・ 技芸ノ論説等集り至り,以テ善美有益ナル好体裁ノモノヲ出シ,会員若シ勇往・清溌・忍耐・ 共同ノ気力乏シク,教授・学術・実業・実践二骨折ヲ嫌ヒ苦労ヲ厭-メ,淡冷・因循・疎. 漏・杜撰・萎廉・惰弱ノ論説等集1)至り,以テ満紙光彩ナク些益ナク,唾罵ヲ受ケズバ僧 眠ヲ招ク不体裁ノモノヲ出シ,会員ノ注文次第教育社会ノ写真美藩執レ共見ルヲ得ソトス。 且ツ夫レ諸学令実施後-5',教育社会ノ写真如何ナルモノヲ出スヤ,随分我社会ノ心力 一致二由テ見栄エアルモノヲモ作り出スべシo本誌-単二本会ノ盛大キ赴キ,・高論明説ノ 続々寄送アランヲ掌ム所ナリ6)。. 以上創刊の帝は,、磯関誌の性格依命を明らかにして余すと与ろカ亨ないoさて,_最近の同 誌を争れば,ご研究論文・教育時評・随想・詩歌俳句・創作・写真・カットなど,地方色を 生かすとともに,掲載論文・作品のいずれも格調高い入魂のものであり,投稿者平素の修. 養研讃をうかがわせるものがある。 3. 自主と協力. 信濃教育会の目的・事業は定款に明らかである**。その要点は「教育碍神を高捗」し, *. 「信濃教育」と信濃毎日新聞はいずれも地方誌(舵)であるにかかわらず,全国的に■高い声望を 有するのは,と<もに主筆が第一級的人物だという事実に負うものがある。もちろん,それととも に読者の「ベルが相当に高いということはそれにもまして重要な事実であるが。 *-*'社団法人信濃教育全党款 第一款 総則(抄) 第三条 本会は会員相互に協力して教育精神を高揚し長野県における教育の刷新とその充実を図 りもって日本文化の進展と世界平和に貢献することを目的とする 第四条 本斜ま前条の目的を達するために左の事業を行?3:ラ ∴▲ 会員の職能向上に関する事項 1教育の進歩改善に関する研究調査.

(11) 教育精神の継L承と. ll. 高揚. 「会員の職能向上」を期するにある。事業に関する紹介・論評は本稿の任務外であるが, ここでほこの会の組織の基本的と思われる若干の点にふれておきたいoその一つは,各郡 市教育会,そのこは教組と本会との関係についてである。. 信濃教育会は,その前身たる長野教育談会当時,単に長野の一地区団体にすぎなかった. そしてあたかもこの頃,信州他部でも同様趣旨の下にそれぞれ教育会がつくられつつあっ. たのである。それゆえ,醜治19年,汎信州組織としての信濃教育会創設をみるや,各郡 教育会との関係が当然問題とならざるを得ない。けだし,それらは各々特殊の地域事情と 背景をもつものであって,その統合ということはいうべくして行なうに困難なことは明ら 熱心に啓蒙したのと,浅 かであった。しかるに,信濃教育会幹部が漸次県内各地に転乱 岡校長(会長)の薫陶を受けた師範卒業生が各地に赴任,必要を説いたた軌. 時を経るに. したがい賛成を得るにいたった。すなわち,明治20年の北佐久を先頭に,■明治30年諏 訪を最後として,. ■全県組織が完成する.諏訪は最も長く応じなからたものであるが,しか. し他部も程度こそ異れ簡単であったのではない。信濃教育会に加盟するといっても,各郡 教育会は依然独立自主の団体たることを失うのではなく,ただ,信濃教育会の一部会とい う性格を加えたというに外ならない。自主独立を尊ぶ気風のあらわれがこのあたりにもみ られよう。. 「本会は本県内各郡市教育会各地区高等学校教育会畠よび大学教 (定款第五条) 育会(以下各教育会という)をもって組織しその会員を本会の会員とする」 現在の定款によれば,. とある。信濃教育会が自ら称して「連合体的単一体,単一体的連合体」という所以はここ. にある。ここでいう各教育会は,郡市教育会16、,東信高校,南信高校,大学教育会各1 計19である。 (1962年現在)0. 2. 講演講習会ならびに研究発表 教育学芸の研究に対する助成 二 学校教育の振興に関する事項 三 社会教育家庭教育の振興に関する事項 四 教育の社会的推進に関する事項 1教育施策に対する世論の喚起 2 教育と政治経済の速繋 3 教育に関係ある諸団体との提携 3. 五. 六 七 八 九. -○. 図書雑誌の編集発行に関する事項. 1雑誌「信濃教育」の発刊 2 教科用困苦の編集 3 教育学芸に関する国軍の編集 教育研究所の経営 教育資料の収集ならびに教育参考室・教育文庫の経営 郷土文化の研究調査に関する事項 学徒の研究助成に関する事項 教育功績者の表彰に関する事項. ∵一会貞ならびに学徒の厚生福祉に関する事項 一-二. その他本会ゐ自的を達するために必要な事項.

(12) 12. 松. 本. 賢.. 治. 4. 一本化不必要翰 日教組あたりの評価では長野県教鼠は「意識低調・Cクラス」の定評だといわれるoい. まだに前時代の遺物をのさばらせておくようでは諸にならないということであろう.たし かに,教組活動,ぞのイデオロギ-は,教育会とは異質のものがあるoだから教組を専ら 支持する立場から捻,宿殉ほ決して奮等生ではないにちがいないo 思うに,戦後わが国の教育学は「政治的教育学」でなければ「技術教育学」ということ になって,ほなほださかんな外見にもかかわらず,教育の本質を金棒としてとらえるとい. う依命からいうと,遺憾なものが多かったo後者ほ新教育の輸入という当面の必要にこた えてのものであり,前者絃‡日貴賓の教本欠縁を衝いて!その誤ちを再びくりかえさせない 意図に発したものであった。ところで,その政治的教育学だが,なるほど研究の意識態度 辛,またイデオロギー内容の相違ほ明らかだが,時局便乗の姿勢は蔵前と似たところがあ りほしないか。さらにまた,教育という仕事が政治と深いかかわりのあることほ今日誰の 眼にも明らかなことであり,政治的教育学ほ重要な分野に相違ないが,ぞれは決してすべ てで往ないo. この点,. BertrandRu-ssel. (1872-)のつぎのことぼほ至言であろう.. Ejく,. 「教師というものほ,国家や教会よりもその子どもをいっそう愛すべきものである.さも なけれぼ,かれをま理恵の教添でないマ)o」. そこで,教師とその団体は,相互に密接な関連ほあるが,本質的には別箇の二つの要求 をもつことになるoすなわち,白らの磯畿をいっそう高めるという内に宛う要求とそのた. めに必要な条件の獲得という外に向うものとである.前者は教育会,後者は教組の本来の 課題ということができようo ところで,衆際ふつうの状態をみると,戦前ほ教育会だけが あり,戦後は教組だをナなので,どちらも上の二重課題をいっしよに背負う形となっているo 止むを得ないといえばそれまでながら,どうしても重点はどちらか一方に片より勝で,骨 を折るわりをこ結果をまおもしろくないことが多いようであるo信輔方式はこの点からいうと, 賢明といえようo. もっとも両者の・---本化諭読はかなり長くくりかえされ,時に白熱した時. 期-もあるというが,贋態釣上と待遇改善ぼ残念上混困すべからずとして,一応論争をこ終止 符が打たれたといわれる。. 「元来,鼠績団体とも、うものの漁終は,目的が規約や条文をこ窓とめられて結成される以 前,つまり発生当時の時代的要求によって決定されるものであるo教育余も教組も,それ. ぞれの異った要求日的によって生窓れたoそれはひとりの教藩の多面性の二面であるo外 に射しで瞭りを感じている間は,内面生酒はうすれ,内面に心が強く向いている時は,外. のことを忘れカミちになるのは,人間の心としてやむを得ない涜動である.三つの組毅がひ とりの教師の両面を代表して各々その磯能を働かせ,互に調和を保ちながら伸展すること により,自分がより高くより広くより完全に生長すると考える私ほ,信教教組の二本建ほ, 信州教育をことってたいせつなことであると考えるo」8) おそらく-本化が仮に実現していたとすれば,教師の意識や行動の結集統一という大き な拳71点があり得たであろうoそれをま教組の運動のた漆最大のカをこ帝連ないのであるBだが, 結集統一といっても,問題は形の上だけに止まっていいわけのものでない.教組幹部の指.

(13) 教育精神の継承と高揚. 13. 揮下に全員の統制がよくとれるというだけでは,戦時中のわが国民のあり方とえらぶとこ. ろはない。教師の集団はどこまでも教師の集団である。そ・の教師の生命である教育のしご とでは軌-と強制は禁物なのだ。時にその必要があることは認めるとしても,決して望ま しいものとはいえぬ.教組の強さも弱さも問題はそのあたりから出ているのであろうo. ・-〟. 本化必ずしも理想でない所以である。. 一本化によって,会員の二重負担(経済的・時間的・労力的など)を軽減できるという 議論もあろう。がこれは全く別箇の問題である。そして信州教師のばあいカネとヒマほ, 単に手段にすぎず,それよりも目的依命の何たるかが重要とされることは,すでにみたと おりである。 ⅠⅤ 伝統と∼風土. r信濃の国」の歌軌「信濃の国は十州に境連ぬる国にして,そびゆる山はいや高く流る 「古来山河の秀で る川はいや遺し」にはじまり,郷土の誇る風土と人物をおりこみつつ, たる国は偉人のあるならい」に結ぶ。そ・のことばどおり,信州は中世以来,文武,特に文 にかけて,多くの人材を世に送った。いま,信濃教育会編集「信濃先人略伝」(大正7年) をみると,あげられた55名中,武人には源義仲,村上義光,真田幸村ら,文人には関山 国師慧玄,太宰春台,小林一茶,佐久間象山らの名がみえる. 住民の気質・性格と風土の間に深い関係のあることはいうまでもなく,信州人といえば,. 誠実・勤勉・理論塾など定評ある所だが,この気質を培養したものは歴史と伝統であり, 相まって信州を有数の文教県たらしめたのであるo一体,信州は名だたる山国であるが, 幸いに京・大阪と江戸を結ぶ中山道がこの国を対角線状に通りぬけ,これによって東西文 化はこの高原国に早くから移入された。もちろん,中山道はその意義において東海道にお よばないが,しかし東海道沿線で信州とちがい種々好条件に恵まれながら,平地のため文 化が素通りしたところも少なくないことを思うと,きびしい自然的条件必らずしも不利と ばかりはいえないようである。. われわれはすでに,信州教育の何たるか,それを支えるものは何かを,ある程度明らか にしてきた。それらはいずれも,単に教育だけでなく,信州人一般の気質・性格とこの地. に蓄積培養された文化的土壌を根抵としているのである。そこで最後に,これらの点につ いて,一通りの概観を試みることとしたい。 1. 風土と県民性. 信州の面積は13,631km乞北海道を別格として,岩手,福島,に次ぐわが国第3位の大 県だが,人口は僅か200万,しかも年々他に流出の致があるといわれる。大別して北信 と南信,それぞれ若干の平,盆地,渓谷などに人が住んでいるが,もちろん山岳地帯がは るかに大きい面積を占める。 南北に長く,地形も複雑なので,気象気供地味など地域によりかなりの相違があるとは いえ,それも比較的のこと,大体において恵まれたところとはいえぬ。すなわち,交通は,. 鉄道開通以前,県外県内を問わず河川以外は峠(総数約500という)によるほかなかった。.

(14) 14. 松. 本. 賢J. ・漁. 全般的に高冷地で,厳琴の季節長‥く,筑摩川沿岸の如き雨量少なく,・信越国境方面は積雪 多いなど, ′風土的条件はきびしいo. 当然,このような風土ほ住民を忍耐強く;.Lかつ勤勉なものとした。また,手足だけでな. _. く,.頭をはたらかせて,不利を有利に転換するくふうをなさしめた。たとえば雨盈や水利 に恵まれぬところでは稲作の代りをこ養蚕や果樹栽培,また永山死地・高原地帯など綻キャ ベツ,.白菜など高原野菜というふうに。 さて,こうした聴解と森閑孫と捻患えぬが,江戸時代の宿弊‡絃11の小藩が並立,競合 (10万石),松本(6万石),上田 していたのであったo大きい順にあげると,松代(真田) (5方3千石),高遠∈3方3千石),高島(3万石),飯山(2万石),以下,竜岡,飯田, 小繍,岩村田,須坂いずれも1万石台にすぎぬ。かかる歴史は,地形と相供って,信州人 の魚をナじ魂や独立心や自由愛好の精神を培ったのでほあるまいかo 須坂特外様で,他の9藩ほ譜代大名であった。). (11藩のうち,飯田・. さらにまた,信州文化敷に占める中山道*の意義は大きいoそれから分岐する脇街道に 革ま北国街道∴(追分・小諸・上田・善光寺・柏原),灘国西街道(洗馬・松本・善光寺),節 那街道(伊那谷を下り飯田まで,. ),三州・遠州街道(飯田から南行),糸魚川街道(松本. ・飽田・東町を経て糸魚川まで)などがあるo特に中山道ほ東西の知識人が宿弊けこ入り, また信州人が東西に遊ぶにほ必ず通ったもので,経済のみならず,文化発展の大勤泳であ ったoー要するをこ,倍郷も 慕街道としての*山道をもつことによって,京浜と江戸の中間 に位置し,双方の文化を吸収できる有利な条件を恵まれた。そしてこの条件を信州人は決 して見逃さなかったということができるo. 2.蓄積と培養(近世)9) 生活程度と文化がある程度比例することほ鼓しも窪めるところであるが,徳川時代に入 って,ようやく生情の安定と向上が生まれ,文化もすすんできたo いo. 信州もこの例をこもれな. しかし何分にも,その初期は戦乱の低を去ること遠からず,政権の基礎固めの時期で. もあるから産業や文化にほ濠だ辛がおよばないo元禄時代(1688-1704)に入ると澄は容 平を駆歌し,産業,特に商業が栄え,ようやく学芸もさかんになりはじめる.だがこの頃 の文化的*心経まだ京医で,露藩の熊襲もあり,希舛経まだその圏外をこあるoただ文化を のものではないが,後年それと関係の深い養蚕がこのころ上田を中心におこってきたこと が注目されるo. 侶州の文運は,江戸中期(18世紀)すなわち享保(1716-1736)から明和(1764-1772). 襲永(1772-1781)年間にはじまるといわれるoわが国で蘭学がおこり,心学が施行し, 藩学,寺子騒が盛んになりだしたのも,また京阪と江戸を中心とする学芸が請地方に発展 しだしたのもこの頃のことであるo逆にいうと,これら大消費都市の括溌な需要に応え *. 中山通は寮山道ともいい,古代からひらかれた国道であるが,殊に江戸時代産業および文化の勃 興紅伴ない,とみに重要性を妻日えた.宿弼内紅26の宿駅があるo 主なるものをあげれぼ,軽薄 択・沓掛・・追分・宕村田・和田・下諏訪・塩尻・洗馬・奈良井・薮原・福島・上松・三戸野・馬 寵など。.

(15) 教育精神の継承. 15. と 高揚. で地方の生産が促がされ,商揺動にのって中央文化が地方に遅出することとなったのであ そしてヱの傾向は,. るo. 18世紀末から19世紀初頭,すなわち寛政(1789-1801),文. 化(1804-1818),文政(1818-1830)など,いわゆる徳川文化の慣熟期には高潮に達す る。信州のばあいも例外でない。そこでほ,武士や僧侶だけでなく,-. 農商の庶民層に文化. が広く板をはってくるoそれによって後年の信州教育の基盤は蓄積培養されるのである。 地勢に高低ある如■く,.文化にも地域差がある。土屋弼太郎氏によれば,信州の文化的地 域には,次の諸原因が数えられる.. 1政治の中心地で文化的にすぐれた人々が多く集まっていたこと(藩庁所在地) 2. 宿駅のように交通に恵まれ,各種文化人の来往がはげしかったこと. 3. 有力な寺社の所在地で,僧侶神官などの文化的影響をうけたこと. 4. その地方に文化的の豪家の存在したこと. 5. あるすぐれた文化人の住んでいたこと10). 個々の要因の主なものは上の如くだろうが,実際シ耳関連複合していることが多い。たと えば諏訪のように,諏訪神社あり,高島藩庁あり,中山道と甲州街道の分岐点でもあると いうごとき。が,とにかく,上のような地域は,中央地方から知識人の訪れ,滞在するこ. とも多く,またその土地の人で諸国,中央に出るものも多く,これらの影響が付近一帯に およんだことは察せられる。後年,このような地域,たとえば藩庁のあった松代,松本, 高遠などから,多くの人材がでていることをみても,明らかであろう。 以下土屋先生のまとめられた御研究によって,信州近世文化をかんたんに概観しておく。 藩学. 信州11藩はいずれも藩士子弟のための藩学を有していた。創立年代はまちまち. で松本の崇教館(寛政5年1793).は早い方,松代の文武学校(嘉永5年1852)や高遠の 進徳館(万延元年1860)はおそい方だが,おそければおそいなりに洋学を取入れるなど 多彩なカリキュラムを採用している。もちろん中心は儒学であるが,寛政異学の禁以後で あるにもかかわらず,必ずしも朱子学だけではない。たとえば松代,高遠は明らかに狙裸 学だから,朱子学の大義名分論と租裸学の経世実用論がならび行なわれたわけになる。 さて,これらの藩学,たとえば上田,諏訪などの藩学で養成された武士の中から,維新 後の学制改革により生まれた小学校の教師が出たということはきわめて重要である。なぜ ならば身分のみならず,人物識見において世の尊敬をうけていた武士は,新学校に大いな. る信用と権威を与えることとなったからである。私は信州教師の原型を武士に見出し得る と考えるものだが,理由の一つはこの辺の事情にもあるのである。 心学. 石田梅厳(1685-1744)を祖とする心学は,その穀後興隆期に入り,信州は,辛. 島堵庵門下の中村習輔(戸倉の人)を中心に普及するにいたったo信州一円に12の講舎 を数え,.大きい講舎になると数千の社友をもつものがあった。盛況知るべきである。ただ. し流行期は案外短かく,後世への影響も「あまり見るべきものがない」といわれるが,庶・ 民の修学修養の素地を培った功績は些小でなかったと思われる。 和歌・国学. 0. 国学の諸流,すなわち春満・真測・宜長・篤胤を祖と,するものほ何rLも信. 州に入っているが,特に影響の大きいのは,篤胤の平田学である.この学派は篤胤穀後全.

(16) 松. 16. 本. 賢. 治. 国の門人総数3745人(弘化元年-明治9年),うち信州在住者627人に達する。しかも, 627人中,武士はわずか71人,残りはすべて庶民層で,地域は伊那,次いで諏訪の順に 多い.これらの地方はすぐれた指導者が多数いたことによるのであるo 俳詣. 儒学の主たる対象杜武士であるが俳諸や心学や国学などは庶民の間に広範な影響. を与えたものであり,ことに俳諸は一頭地を抜くものがあるo 信州の俳人で最も知られているのは特異な作風をもつ小林一茶(1763-1827)でこの人 は北信の柏原の農民の出である。. 14才にして江戸に出,俳人として世に出たが50にし. て帰郷するまでしばしば郷里にあしをとどめ,北信一帯に多くの門弟を得た。 加余白雄(1738-1791)は中央俳壇屈指の人物で,一茶の先輩に当る人。上田藩士の家に生 まれ,信州にも天姥ほじめ多数の門人があり,その影響甚だ大きく,深いものがある。伊 那には医師の中村伯先(1756-1820). ,飯田には蕉雨,何板,諏訪には素菓,正阿あり,その他. いずれの地方にもーかどの宗匠がいて,その周囲には無数の有名無名の俳人がいたのであ る.これら宗匠は,一茶らを例外としてみな地方の素封家名士である.生活が裕福であっ たところから,諸国を行脚して見聞をひろめ,諸国からの句友の来訪もしげかった。特に 重要なことは,これら宗匠の影響で多くの農民の間に俳諸が広まったことである。かれら は,農作業に,歳時記をたずさえ,句帖をひらくなど,文に親しみ想を練ることもしばし. ばあったに相違ない。そのようにして農民文化は着るしく開発普及されたであろう。 寺子屋. 信州の寺子屋が全国的にみて高度の普及を遂げていたことは周知のとおりで,. 日本教育史賃料によれば全国第一位となっている*。この数字にはすでに幾多の疑義があ. るが,とにかく大いに普及していたことはまちがいないoそのことは俳諸が広汎な庶民層 に食いこんでいたことによってもうら書きされよう。 さて,興味探いのは,信州の寺子屋師匠は武士が少なく,農民が最多で,ついで僧侶の 順となっている点である。農民といっても名主級の余裕のある人と思われるが,とにかく かれらは私塾や寺社で学問をしたものであろうし,また殆んどのものが俳諸に親しんだよ. うである。すなわち,寺子屋の師匠もまた,子どもや父兄から,尊敬され慕われる存在な のであった。. 明治初年の新学制によって小学が急速に設置されたとき,従来の寺子尿が母胎となった ことは想像に難くない。明治9年の文部省年報によれば長野県の就学率63 阪の各58 3. %,東京・大. %をしのいで全国首位。もって前代の遺産を思うべきである。. 伝統の発展(明治以降). 明治以降の信州教育,ことに基本精神についてはすでに述べた。ここでは,その欠けた. 点を補いつつ,主要な展開を追ってみよう。 開智学校の創設. 松本は筑摩県庁の所在地,時の横合(知事)は教育知事の名でよばれ. た永山盛輝(薩藩士)。永山は明治5年の学制頒布いらい,教育の必要を力説,管下を巡 *全国寺子屋総数15,560のうち,信州は1,341 (全体の8.5%)。ただし, 日本教育史資料の示 す上の数字は必ずしも正確でないことは広く知られている,調査方法が十分でなく,精粗まちま ちであり,のみならず調査もれの国が9つもある。 (土屋,近世信濃文化史, 165ペ←ジ).

(17) 17. 教育精神の継承と高揚. 遊して学校設置方を督励するとともに,模範的学校の建設を意図して開智学校を開校した (明治6年5月6日)。その教師には高遠藩士はじめ諸方から人材を礼を以てむかえ,新校 舎ほ開成学校(東大の前身)を範として壮麗なものをつくった(明治9年5月)1lo開智学 校は松本市内最古の学校で,現探恵高,莫須々ケ丘高,県立松本幼椎園,市内各小学校な ど,すべて起源をこの学校に発している。称して「信州教育の源流」とする,ゆえなしと しないのである。. 永山の熱心な督励によって,南信各地の小学建設(したが,'て寺子屋廃業)はきわめて 迅速に行なわれたo北信とくらべてその速度の差は明瞭であるoただし,当時の教育目的 や理念は,永山をはじめ,単純な立身出世主義で,. 「コヤシをかついで一生を終るか,り. っばな官員になるか,それは勉強次第できまる」といった程度のものであったo 初期の指導者 初期の信州教育は幸運に恵まれていたoその一つは,卓越した指導者・た とえば当代の新知識能勢栄,ついで浅岡-(いずれも師範学校長)さらに渡辺敏(長野女学校 長で浅岡の実兄)の如き,何れも県外人ながら・よく信州教育の根源を培ったのであるoそ のこは,開国いらい,生糸がわが主要輸出品となったた軌養蚕製糸の発達を来し・経済力を 蓄積し得たことである。この余裕が信州教育のかげの力となったことは大きいものがある。 師範学校. 信州の師範学校はすこぶる重要視されたo能勢・浅岡ら名校長に礎をおかれ. たこの学校は,土地柄とて,優秀な生徒が門にあつまるのを例としたo島木赤彦,高野辰之, 太田水稔らはいずれも師範卒業だけで中央に名をなしたものであるが・有名無名を問わず・ この学校卒業者の多くは信州各地の小学校教員となって,信州教育の伝統をきずいた人び. この学校に同窓会がなく,卒業生が他の出身者とともに信濃教育会に大. とである.なあ. 同団結していることは注目に値いする。 白樺運動. 明治末から師範付属を中心として教科研究・児童研究がさかんとなったが,. 一方これと同時に,根本を教師自身に求めて哲学・宗教・政治などを深く研究する動きも (明治43-大正12)とそれによる白樺運動が 生じてきた。あたかもこの頃,雑誌「白樺」 ぉこり,信州教育界に多大の影響を与えた。理由は,在来の国家主義形式主義にあき足ら ず,白樺の理想主義・人格主義に教育の本質を見出し得たことによるのであろうo すなわち, 「白樺の精神の中核は自己を生かすという点にあり・ --子どもの教育をと ぉして自己を生かす,つまり白己を生かすことによって子どもを生かすというよ・う・に解 釈」したのであった12,。そうだとすれば,白樺運動は,信州教育の木蘭を明確な自覚にも たらしたものとして意義深い。子どもをよくすることが第一義であるが,そのた桝こは先 生の自己確立が必要,先生自身が,まず勉強せねばならない,というのであるo. 川井訓導事件*. 内容は国定教科書無視を理由として自由教育を弾圧したものo川井訊. ・大正13年9月5日,文部省樋口視学委員,長野県畑山学務課長一行が松本女節付小の授業を視 (1)川井をま副教材たる森 察,四年担任川井清一郎訓導の修身教授がやり玉にあがったo理由は, (2)先般通達した副教 鴎外の「護持院ケ原の仇討」の説話に終始して,国定教科書を無視したo 科書使用注意に違反する。の2点であった○川井訓導はそのため休職を命ぜられ,付小教員の問 では総辞職強硬論でもめた。この事件は,権力による不当弾圧として,県内はもとより・全国的 にも大きな波紋をよび,結局県知事,学務首脳部の更送にまで進んで収まった。. (参晩伝田精爾,歴史はくり返すか,. 「信濃教育」第912号,. p・43-49).

(18) 松. 18. 賢. 本. 治. 導の所属した付罵fl、学校をま倍卵白由教育の変更な拠点として当局がかねて艶をつをナていた といわれるo. この事件は,川井の休戦および首席謬!!導(伝田精商)の依願適職という犠牲. を料したが,他方権力の弾圧にあって教育者および県民の自覚を拝めさせ,姿勢を療立番 何州教育史上貴蕊な一段階を画しているo. せた息. 昭和8年2月4日発現の第-次検挙にほじ慧り閏年5月初句まで訊きつづ ニ・四事件 き第二次,第三次があり,終局2市11郡から, 138名の教員が検挙された.いわゆる 「不祥事件」 「赤色教員事件」として知られる*o. 革件の遠因は昭和5年6B,春蚕価格が暴落し,農村が窮乏のどん底にたたきこまれた ことをこ経じ鷺るo町村財政捻忽ち魚鱗をこ芦畠り, /l、学教員俸給寄籍寮請l各〉,学級滅,高給教 員排斥問題など,学校対町村の紛争捻またたく間をこ各地をこ沙ろがった。 「哲学研究創をつくり(昭和3年) これよりさき,諏訪永明か学校の青年教練たちは, 西田・三木哲学から社会恩怒をこすすんでいたが14',この悲惨な事態は研究な実践をこ飛渡さ せることとなるoあたか屯この執. 凍京の「全協教労」. り賛同するもの多く,昭和6年から7年をこかけて,. 「新興教育同盟」のよびかけがあ. 「新教」長野変乱「教労」長野支部の. 祷成がな登れ,ここに結集されたのであったo この運動をこ開係した教師たちをま,手どもへの愛鰐と教師としての使命感を人-倍をこもり ていたのであるoかれらほ真実の教育を行なうた軌. 教科番を批判的に扱うことにカを汝. む,だBその観点絃,子どもや父兄!つまわ被圧迫老の立場を尊重し,既成秩序,笈怒韓力 額uをこ立つ教育体儲をこ抵抗しようとする。蒸衆の教育は階級闘争の現実音こ持艮をそらす特発わ れるとみたのであるoだからかれらは俸給の強機番付や学級整理といった-時を糊塗する 方法をこ経費成せず,問題の観を深くさぐって考えるカを阜える教育をすすめようとしたの であるo. 事件発生をみるや,先輩同僚は屯ちろん,子ど亀や父兄もまた,尊敬し倍転する発生を 救うため,献身的努力を惜しまなかった。ただ,はげしいファッショの嵐の中で,そのよ うな誠意も努力も報われなかったかの印象を与えるが,寅難と自癖を乗物て止澄ぬ反骨の 矯神ほ底に流れて今日に及んでいるのであろう. 境*・戦後. 二書鍔事件の後,拭もなく白轟捻戦争時代をこÅわ,放畿後新教育を遇える。. *本事件の概況は次のとおり8 くl)関係学校数 窯補校 小学校 58 (2)関係数員数. 15. 実補校 4 1. 中. 2. 挙枚 12 1. 計. 65. .∵26S. 女. 116. f・,202. 小学校 男. 中等学校. 5. i31 5 13 (3)関係数員被疑審賓別 教労組合員 64 新教同盟薦 36 計138 影響下 33 その他 5 (4)関係数長の開放処分 送属僚られぎる潜55 送局せられたる潜83 く起訴操密着54 起訴せられたる者29)計1^38 (倍湊教育金玉十年史, p.凍06 f.) 計.

(19) 19. 高揚. 教育精神の継承と. ・それは教育界にとって大なる試練の日々であった。ことに戦争末期,信州にほ東京などか ら多数の疎開児童が入ったはずであり,軍需工場などの疎開もあり,山国への影響もまた -大きかったのである。ここではすべて省略する。 Ⅴ. 結. 語. 最初に述べた意図が,果して所期どおりにすすんだか否か,いささか心許ないものがあ. る.一地方の教育とはいえ,その圏外老,しかも賃料も不充分のこととて,満足にほど遠 -いとしてもこれは止むを得まい。他月を期するばかりであるo あるいは全体として,観察があまい,という批評もあろう。が筆者としては,重要な点 -てこついて,甚だしく誤まっていないつもりである.およそ,この種の主題をえらぶという ことは,対象に特別の興味をおぼえ,共感を禁じ得ないものがあるからであり,何よりも ・まずその長所莫点に注目することになるのほ白然であろう。ただ長所をうらがえせば直ち ・に欠点となるという点は,はっきり認識しておかねばならぬと思うo すなわち・信州教育も,.従来往々にしてそうであっように,現在一つの曲り角にさしかか _つているという事実ほ否めないようである。その二,三をあげて結びとしたい。. s郡哲学会は昭和22年以来,毎年哲学者K氏を講師に招いて講習会をつづけ,. 37年. ・には滞15通年記念講演会を開いた。これに出た人の諸によると,参加者は殆んど年輩の 先生ばかり,青年層は皆無といっていいほどだったということであるo 雑誌「信濃教育」は会費外負担であるが,発行部数は約2,500,会員総数の2割に満た ない.一般に教育雑誌は団体購入が多く,内容も質もとかくの批判があるが,しかし中に. -ほ,例外というべきものがないではない。. 「信濃教育」ほその数少ない例外の一つである. が灯台もとくらしのたとえにもれず,一般の商業誌なみに扱われている頓向がありほしな ■いか。. この憤向と関連して思い合せられるのは,山国の信州人になくもないと思われる権威主. 義・事大主義が,マスコミの力によって助長されてはいないかどうかの疑問である。 .んものか」というまともな問い方も,表面のきれいごとや宣伝力の前には,ともするとま どわされ易い。マスコミのカラクリを見破って,真実のすがたをつかみとることほ,まこ とに容易ならぬ困難事というべきだ.理想主義・人格主義はそれ自体大切な考え方である ・が,あしもとをさらわれぬよう心したいものである.. しばしばくりかえした如く,かっての教育信州には,養蚕製糸業という裏付けがあって, 「信州教育」は失なわれてしまったとい 2・4事件以後, ヱれが一つの基盤をなしていた. ・う批評もあるが,とにかく経済力の弱さは一つの問題たるを失なわない.その意味からい うと,その後の信州教育は,往時の余光にのって進んだというところもなくはない。金持 よりも貧乏人の方が教育熱心という説もあるから,あながちマイナスとばかりほいえぬけ れども,今後はどうなるか。第二次産業革命の波はすでにこの山国にもおしよせている。 ・かつての製糸王国諏訪地方は,その遺産の継東者として,精密横械工業のめざましい進出 二がある.また観光産業資本は,資源豊かでしかも手頃な距離にある信州を,恐らく遠から. 「ほ.

(20) 20. 松. 本. 賢. 治. ぬうちに総なめにする気配もみえる。. 以上,粗雑ないい方であるが,曲り角の徴供の二・三をあげてみた。いったい,長所美 点というものは,いつまでも長所美点として益をもたらすとは限らない。進化論が教える ところによれば,どんな生物もその長所によって栄え,またその長所のゆえに滅びたとい う。信州教育がその類い稀な個性を保持しつつ,現代の潮流の中で,ますます真価を発揮 して行くた捌こは,如何すべきであろうか。これほもはや筆者ではなしに,信州白体が問 われている問題である。. 戦国時代の武将の手になるという人国記には,信州武士を評し て, 「武士之風俗天下一. 也」としている.その武士を原型とする信州教師もまた,最高のランク付捌こ値いする素 質をもつものと倍ぜられる。とすれば,こんにちの問題の如きほ,はたから徒らに気をも むことではあるまい。かえって,よけいなことを考えないで,そちらの方をしっかりやれ, と叱られることであろう。. 最後に筆者は,以下の方々の御芳名を,感謝の念を以て,記録しておきたい。いずれも 研究旅行中お世話になり,その御意見御観察はきわめて有益であったのであるo 久. 保. 義. 幸(岡谷市岡谷小学校長). 新. 井. 芳. 実(松本市開智小学校長). 村. 和. 小. 出. 一(松本市丸の内申学校長) 武(松本美須々丘高校長). 竹. 内. 硬(信大教育学部教授). 竹. 島. 高見沢. 惰. -. 領一郎. (同 上) (同 上). 松. 岡. 弘. 児. 玉. 竹千代. (同. 主事). 田. 中. 忠. (同. 専任幹事). 長. 島. 亀之助. (同. 編集主任). 告. (信濃教育会・会長). (敬称略).

(21) 教育精神の継承と高揚. 21. 注. 1)長田新,わが国のペスタロッチー運動と信州出身の教育者(pg),信濃教育第919号(昭和38年 6月)所収 2)長田新,同上 3)長田新,同上 15ぺ-ジ. 4)信濃教育会,信濃教育会五十年史,昭和10,` 5). 「諸学令」とは,帽サトⅠ教育」創刊号(明治19年10月)の発行に先立つこと半年,文部大臣 森有礼により制定公布をみた次の教育法令を指している.帝国大学令(明治19,4),小学校令. (明治19.4.),中学校令(明治19.4・)師範学校令(明治19・4・) 47ペ-ジ以下. 6)信濃教育会,同上, 7). Russet,. Bertrand・,. On. Education,. 1957・. p・. 45・. 8)黒岩常監信教と教組のあり方,信濃教育第882号(昭和35年5月)所収 9)本節(14-16pp)の内容は土屋弼太郎,近世信濃文化史,昭和38年,に負うところが大きいo 10)土屋,前掲書,. 312ページ. ll)開智学校本館は住時のもの,現在重要文化財に指定されている。木造二階建寄模造,中央に八 角塔屋がある。建坪511・9m2・. 12)座談会「信州白樺運動の意義」,信濃教育第918号(昭和38年5月)所収o 13)町村当局が学校に対し,俸給寄付などを要請し,学校側の拒否にあうや,児童を同盟休校させ るところも生じたo(信濃教育会五十年史,. 402ページ)。思うにこれは一曲の町村ボスの暗躍に. ょるものであり,必らずしも町村民の真意に出たものではないであろう。 (昭和35年)所収o. 14)藤原晃,長野の運動について。日本教育運動史II.

(22) 22. 松. Where. How. and. 本. is the. Report. the. on. ProfessionalSpirit. Succeeded. Eneollraged?. and A. 治. 賢. Education. in Shinshu,. Japan. By MATSUMOTO. Kenji This. is. from the research that weof the products journey to Shinshu 1962・ The in Sbinsbu, we believe, is a typical one education prethe better tradition serving and developing education. of the Japanese Shinshu or Sbinano is another favorite name Prefecture. It is situated of the Nagano part Main lsland, and famed for the Japanese the central of the Japanese Alps, about Its people Lake, also are etc・ the Suwa for industriousness, their noted virtuousness and high evaluation of education. has many there ( I ) The education among fundacharacteristics the most which teacber's be his the mental reverence for. will perhaps pride of profession and people's the. report. The. teacher.. of history.. His. conversed.. The. Tbe丘rst. of this. assist. most. at. about leader. main teachers. his. choose. bow. evening,. conference The scbool・. of education・ they. self・consciousness. and. or. is to. comes丘rst,. and. Every. severe・. being. duty. or. mission. Where. (Ⅱ). is believed. teacher. no. but. man,. salary. follows.. salary historical. a. contributor. This. order. is that. mission. bearer. or. shall we. which. be. never. call. the. spirit.. professional. can. one. in November・. tried. in. is such important. a spirit succeeded is the scbool・ The. the when 5 o'oclock・ is, of. pupil has It takes. staff as he The human. hours. His. the. likes,. professional this fact proves. and. between. relation. at. its prlnCipal・. course,. encouraglng. encouraged?. work of the teacher home, teachers begin. gone two. and. least,. they. so. important. most. is considerably their. prlnCipal. and. or. role\ be・. Moreover. spirit and ability. his highcreditgiven teacher. seminarylate at・. remain duty. by. the board.. is generally. good. and,. respect. (Ill). eac血otber. Next he will. Shinano. founded. 1886・. ones,. oldest dily under Moriya. eminent. at. leaders. EducationAssociation Conquering. among. especially memorable. have had in past education. shu's fore it is called it's symbol. " Now, Sbinano the monthly it, numberingNo・. publishedby broadly content scholars. as. as evaluated Akabiko Sbimagi,. direct. 920. at. of. Minoru. all. ". first rank. Nishio. and. It is one mentioned. of theit has continued togrow stea-1 Torataro Sato Kishichi and. achievements connection. (meaning. July, 1963. the. Asaoka,. the. indirect. or. Kyoiku. one. several. Hajime. whom Almost. are. be crises,. the. It is. or. to. education a. local. of the. merits. this in. association,. Sbinshu). maga2:ine,. ones. in thisfield・. Bunmei. Tsucbiya. but. has as. Famous were. Sbill. there--. once. been. for poets. the. or. its chief_. editors.. (rV). Lastly,. wegive. its culturalheritage and bered that its excellent. a to some glance main characteristics of the Shinshu's during Age the Meiji. It shall be the Edo and after now status basis as then has a wide and and profound. people: remem-. such..

(23)

参照

関連したドキュメント

The edges terminating in a correspond to the generators, i.e., the south-west cor- ners of the respective Ferrers diagram, whereas the edges originating in a correspond to the

H ernández , Positive and free boundary solutions to singular nonlinear elliptic problems with absorption; An overview and open problems, in: Proceedings of the Variational

The only thing left to observe that (−) ∨ is a functor from the ordinary category of cartesian (respectively, cocartesian) fibrations to the ordinary category of cocartesian

Keywords: Convex order ; Fréchet distribution ; Median ; Mittag-Leffler distribution ; Mittag- Leffler function ; Stable distribution ; Stochastic order.. AMS MSC 2010: Primary 60E05

W ang , Global bifurcation and exact multiplicity of positive solu- tions for a positone problem with cubic nonlinearity and their applications Trans.. H uang , Classification

For example, a maximal embedded collection of tori in an irreducible manifold is complete as each of the component manifolds is indecomposable (any additional surface would have to

It is suggested by our method that most of the quadratic algebras for all St¨ ackel equivalence classes of 3D second order quantum superintegrable systems on conformally flat

Kilbas; Conditions of the existence of a classical solution of a Cauchy type problem for the diffusion equation with the Riemann-Liouville partial derivative, Differential Equations,