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南琉球新石器時代の諸問題: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

南琉球新石器時代の諸問題

Author(s)

岸本, 義彦

Citation

史料編集室紀要(25): 41-54

Issue Date

2000-03-16

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/7941

Rights

沖縄県教育委員会

(2)

史料編集室紀要 第25号 (2000)

南 琉 球 新 石 器 時 代 の 諸 問 題

岸本 義彦★

1.は じめに

九州 の南 に連 なる島々は、琉球列 島 とも称 され、九州か ら台湾の間に北か ら薩南諸島、 トカラ列 島、奄美諸 島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島で構成 され、大小 の島か ら成 っ ている。 これ らの島峡 は古来 よ り南島 と呼 ばれ、特有の文化 と歴史 を構築 して きた。南 島考古学 の先駆者 のひ と りで もある国分直-氏 は、先史文化の特徴や相違か ら南 島 を三文化圏に区 分 した。すなわち、九州の文化 をス トレー トに受 け継 いだ薩南諸島 と トカラ列島の一部 を 北部文化 圏、九州の文化 の影響 を受 けつつ も独 自の文化 を形成 した奄美諸 島 と沖縄諸島 を 中部文化 圏、九州の文化影響 を受 けず、南方か らの伝播 で独特の文化 を築いた宮古諸島 ・ 八重 山諸 島を南部文化圏 とした。氏 の説 は多 くの研 究者 に支持 され、南 島の先史時代 を考 えてい くうえで重要 な提言 となっている。 本稿 ではこれ ら三文化圏の うち南都文化 圏 を対象 に、 これ までの研 究成果 を踏 まえた う えで、内包 してい る問題点 を整理す る。 なお、表題 の 「南琉球」 は安里嗣淳氏が提起 した 編年案 で用いている宮古 ・八重山諸 島の地域的呼称 で、沖縄 ・奄美諸 島の 「北琉球」 に対 応 してい る。 ここでは、用語や編年 に関す るこ とについて、基本的 に氏 の編年案 を用 い る。

2.

研 究略史

南琉球 における考古学的調査研 究 は比較的古 く、明治時代 まで遡 る与とがで きる。本格 的 な発掘 調査 は1904年 (明治

3

7)

の鳥居 龍蔵氏 に よって行 われた川平貝塚 を噂矢 とす る が、それ以前 に も考古学 に関す る調査が実施 されている

。1

8

8

9

年 (明治

2

2

)

の田代安定氏 や

1

8

9

3

年 (明治

2

6)

の笹森儀助氏の調査 がそれで、両氏 とも民俗学的な調査 を中心 として いるが、 曲玉や陶器椀、壷 などの資料 を紹介 している

川平貝塚 を調査 した鳥居氏は出土 した土器 の特徴 か ら 「外耳土器」 とい う名称 を始めて与 え、八重山 と台湾の文化 的関係 を 強調 した。 しか し、注 目すべ きこの見解 は

、1

9

2

3

年 (大正

1

4)

に覆ることになる。 南方 と関わ りがあ るとしていた八重山の土器文化 は弥生文化の影響 を受 け、人種 も北方

*

きしもと よしひこ (史料編集室)

(3)

.41-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 系であると考察 した。 その背景には当時の学会で主流 を占めていた人種論 にあった ことが うかが える。 南琉球ではその後 、終戦.(1945年)の頃まで約50年間、調査研 究が途絶 え る。戦後の調査研 究は1954年 (昭和29)の波照間島下田原貝塚の調査が最初である。金関 丈夫 。国分直- 。多和 田真淳民 らが中心 となって行 われた調査は、その後 の南琉球考古学 研 究 は もとよ り、沖縄 の考古学研 究に弾み をつける重要なもの となった。 多和 田氏は1959 午 (昭和34) に 『琉球列島の貝塚分布 と編年の概要』 を発表 し、その中で南琉球の編年に ついて次の よ うに論 じてい る。仲間第二貝塚 と下 田原貝塚は出土す る土器や石器の特徴か ら類縁関係 にあることが うかがえ、八重 山では最古の遺跡であるとし、仲間第-貝塚はこ れ らよ り時代 が幾分新 しい ものである と考察 された。根拠のひ とつに同貝塚か ら出土 した 鉄製船釘 をあげてい る。 また、川平貝塚の土器 は陶磁器 を伴 うことか ら、下 田原貝塚の土 器 の発展型 式 として捉 えてい る。

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与那国町

ウゲル浜遺跡

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フ 与那国島 下田

大泊浜貝塚

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J 波照間島

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20 km 図 1.南琉 球新石暑那寺代主要遺跡分布 (⑳新石器時代前期、圏新石器時代後期) -4

(4)

2-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 1959年 (昭和34)に行 われ た早稲 田大 学 学 術 調 査 団 に よ る総 合 調 査 は、その後 の研 究 に大 きな影響 を与 えた。特 に編 年 に関す る研 究 は早稲 田編年 とも呼 ばれ 、長 い間支持 され て きた。 また、遺 物 の詳細 な分 析 を とお して南琉球 の文化 系統 に も言及 し、南琉球の考古 学研 究 に展 望 と課 題 を兄いだ した功績 は大 な る ものが ある。 文化源 流 をめ ぐる問題 も活発 に論 じられ るよ うにな り、金 関氏や 国分 民 らに よ って 多 くの 見 解 が 示 され た。 また、1959年 (昭和34)、高宮康 衛 氏 に よって鳩 間 島 中森 貝塚 の調査 が行 われ 、出土遣 物 の詳細 な分析 か ら貝塚 の形成期 間や社会構 造 に関す る研究方法 を提示 された。 1972年 (昭 和47) の復 帰 を契機 に、沖縄 では大規模 開発 工事 に伴 う 発 掘調査 が増加 し、か けが えの ない 遺 跡 と引 き換 え に 新 知 見 が 相 次 い だ。 南琉球 で も例 に もれず 、発 掘調 表 1,安里嗣淳氏による隔年 「南琉球圏 (宮古 ・八重山)の新石器時代の編年」 石器の技術段階 新 石 器 時 代 時 期 区 分 前 期 後 期 遺 跡 の 立 地 土台地や、確屈などの赤土台地海岸に近 い低地石灰岩地帯の赤 海岸に近 い砂地に多い に多い 貝 殻 や 軟 骨 比較的少盈 貝殻が多丑で、貝塚を形成す ることが多 い 焼石、焼石遺構 不明 (焼石を伴 う例はあり) 焼石顎著 、一部遺跡で大鹿の遺構 石 器 半磨製 .局部磨製が多い 半磨製 .局部磨製が目立つ 比較的偏平で、小型が多い 前期に比較 して研磨面やや拡大、向o方角片刃石斧まれに伴 うていねいな仕上げ、大型化の傾 土 器 下田原式土器 無土器 共 伴 遺 物 スイソガイ突起部加工品、サメ スイソガイ突起部加工品、サメ (在 来 品 ) 歯製品 歯製品、月盤、員斧 (では大豊出土) 一部退跡 時代を示す共伴 玉梓口緑の白磁碗 遺物 (外来品) 須恵器滑石製石娼開元通賓 (賃銭) 遺 跡 の 例 与那国島 未発見 * 与那国島 トウデル浜遺跡 波照間島 下田原貝塚 波照間島 大泊浜貝塚 西 表 島 仲間第二貝塚 西 表 島 仲間第-貝塚南風見貝塚 石 垣 島 大田原遺跡 石 垣 島 崎枝 .赤碕月塚 フ-ネ過珠 名義貝塚、神田貝塚 安里嗣淳 (1993)より 査 が各地で行われた。その中で も1978年 (昭和53)に実施 された石垣島の神 田貝塚 。大 田 原遺跡 の発掘調査 において、 これ までの定説 を覆す大 きな発見があった。それは、早稲 田 編 年 の Ⅰ期 に属す る神 田貝塚 とⅡ期 に属す る大 田原遺跡 の層序 が逆転す る状況が認 め ら れ 、時期的に Ⅱ期の大 田原遺跡が古 くなることが判明 した。 さらに、1981年 (昭和59)の 波照間島下田原 貝塚 と大泊浜貝塚の調査で も同様 な結果が得 られ 、 これ まで古 くみ られて いた無土器遺跡が新 しく位置づ け られ ることが動か し難 い事実 となった。 このことに よっ て南琉球の考古学的編年の見直 しが余儀 な くされ、事項で述べ るよ うに、高宮虞衛氏や金 武正紀氏、安里嗣淳 氏、大塔永亘氏 らに よって各々編年案が提起 されている。 地元在住 の研 究者 である大慣氏は精力的に調査研究 を進 め、多 くの遺跡 を発見す る と同 時 に、採集遺物 の詳細 な分析 を行い、関連資料の追跡調査 で南琉球の各島々はもとよ り、 遠 くは台湾 ・フィ リピン ・東南アジアまでフィール ドを広 げて調査 を行 ってい る。 さらに 文化財保護 にも情熱 を傾 け、遺跡 の保存運動 に力 を注いで こられ た。氏は これまでの集大 成 として、1999年 (平成11) には大著 『八重 山の考古学』 を刊行 した。 同書 には氏が30年

(5)

_43-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 近 く研 究 を続 けた成果 を網羅 してお り、 これ か らの南琉球考古学研 究 に大 き く寄与す るこ とにな ると思われ る。

3.近年の編年研 究

前項で も述べた よ うに、早稲 田編年 の Ⅰ期 とⅡ期 が逆転す るこ とが判 明 した ことで、編 年 の見直 しが余儀 な くされ た。 ここでは、近年の編年研 究 を整理 し、い くつ かの問題 点 を 述べ るこ とにす る。 表2.金武正紀氏による八重山の考古学編年 絹 年 土 器 石斧 .月斧 陶磁器 .閑元通貨 立地 .石垣 主 な適跡 先 皮 時 下 田原期 Hl4

c

C339(参5∼780±60±9考)55 下 田原式土器 石斧 無 し 砂丘後 背 の微高地 下 田原仲間第二大 田原 細土器期 (参 考) 無 し 石斧 開元通賀 砂丘 仲間第一 代 1142

c

世紀前 半l77∼0±70 貝斧 中国陶磁器 (僅 かに出土徳之 島 カムイ窯須恵器北宋末)が 大 泊浜崎枝赤碕 歴 ( 新里村期 l2Ltt手己 新里村式土器 石斧僅か 中 国 陶 磁 器 (北 宋 末∼ 南 丘陵上 や平 新里村東 ? 13世紀 ビロースク式土器 栄 )が少畳 出土 野石垣無 し のビロースク2.3層 原 中森期 13世紀 中森式土器 無 し 中 国 陶 磁 器 (元∼ 明 ) が 石垣が登場 鳩問 中森′′ ヽ史時ー 17世紀∼ 大量 出土 新里村西 パ ナ リ期 17世紀 パ ナ リ娩 無 し 湧 田 .壷 屋 陶 器 や八 重 山 近世の 廃村 新城 島 金武正紀 (1994)より 編年の逆転 を決 定づ けた大 田原遺跡 と神 田貝塚 の調査担 当者 であ る金武正紀氏は、その 後 の波照間島下 田原 貝塚 と大泊浜貝塚 の調査で も同様 の成果が得 られ たのをきっか けに、 独 自の編年 案 を提 示 した。 表2に示 したのがそれ で、基本 的 には先史時代 を二期 に区分 し、早稲 田編年 の Ⅱ期 を 「下 田原 期 」、 I期 を 「無土器 期」 とし、前者 を古 く位 置づ けて い る。 シャコガイ製 貝斧 の研 究を精力的 に進 めてい る安里嗣淳氏 も表1に示 した編年案 を 提示 してい る。氏 は宮古 ・八重 山の地理的位置関係 を考慮 し、沖縄 。奄 美諸 島を 「北琉球 圏」、宮古 ・^重 山諸 島 を 「南琉 球圏」 として捉 えてい るo 南琉球圏 の新石器 時代 を、遺 跡 の立地や遺構 の あ り方 、遺物組 成 の相違 な どに よって、 「前期」 と 「後期 」 に区分 して _44 _

(6)

史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) い る。高宮贋衛氏 は先史時代 を文化期 の呼称 で区分 し、表

3

に示 した ように、下田原貝塚 文化 (有土器文化) と仲 間第一貝塚文化 (無土器文化) に分 けた編年案 を提示 してい る。 表3.高宮巌衛氏による八重山地方の考古隔年 鮭 ′一、 梶 ) 史 時 代 先 仲間第-貝塚文化 (名蔵貝塚文化 (且斧)石斧) 史 時 下 田 よ 蛸 l (仲間第二式土器) , 代 下田原貝塚文化 帝簡第二二百琢文花 高官贋衛 (1996)より 地元在住 の研 究者 であ る大 横永 亘氏 は

、3

0

年近 くに も及ぶ研 究成果 によ り、 表4に示 した編年案 を提示 している。そ れ に よる と、新 石器 時代 を有 土器 時代 (赤色土器時代) と無土器時代 に区分 し ている。 上記四者 によって、それぞれ南琉球の 先史時代 (新石器時代)の編年案が提示 されてお り、いずれ も大 き く二期 に区分 していることが共通 した点である。 ところが、用語の使 い方 にそれぞれの 特徴 と思惑が出てお り、今後の統一 した 編年構築 に支障 を きた している。 ここで各氏の編年案 について問題点 を検討 してみたい。 金武氏 は下 田原期 と無土器期 に区分 しているが、前者 は貝塚名 を冠 し、後者 は文化事象 の 用語 を用いているo これは用語の意味 に一貫性が な く、検討 を要す る問題 と考 える。安里 氏 の場合 は前期 と後期 に区分 してお り、一見安当の ように思 われるが、氏の考 えである文 化 の連続性 を考慮 してのネー ミングである。果た して集団 としての文化が連続 していたの か とい うことは、結論が出ていない現在では仮説 として捉 え、将来的に実証 され ることに なれば、その編年 は共通認識の もとに成立す ると考 え られる。高宮氏の案 は時期 を文化 と い う用語 に し、それぞれの文化期 を代表す る遺跡名 を冠 して下田原貝塚文化 と仲 間第-負 塚文化 と命名 してい る。 また、副題 として前者 を有土器文化、後者 を無土器文化 としてお り、土器 を有 してい るか、有 していないか とい う大 きな文化 内容の異 な りに着 目した点 は 金武氏 や大演氏 と同様 の見解である。氏 は安里氏 とは異 な り、文化的連続性 がな く、別集 団 による文化 と考 えてい ることか ら、あえて時期 的 な意味 を持つ用語 を使用 していない。 先述 した ように、文化 的連続性が確認 されていない現在では、文化 (期) とい う用語 を用 いた方が最 も妥 当ではないか と考 える。大横氏の案 は思惑的 には高宮氏のそれ と一緒であ るが、用語 の点 で異 なる。 さらに赤色土器時代 を第一期 、無土器時代 を第二期 としてお り、 どち らかに統 一 したほ うが望 まれ る。 以上、筆者 な りに感 じた点 を述べ たが、そ もそ も南琉球の新石器時代 は文化的内容 は も とよ り、不 明な点が多 く、今後の調査 ・研究 を待 つ ところが大 きい。 これか らはさらに議 論 を深 めて統一 した編年 を確立す る必要がある。

(7)

-45-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 表4.大演永亘氏による宮古 ・八重 山先史時代 の編年 ftL:_定 咋 代 絹 年 海面 遺 跡 の 内 容 主 な 過 跡 釈 石器時 代 先史時代i器雛?#;時 期第 海海 退-海海 進海 進海 退 ①.海進退 岸低地砂丘の奥、洪積台地 や平 地 、 石垣島 石灰岩の風化層 の赤土上に立地 して 大田原遺跡 いるo 7-ネ遺跡 ②.土器は混和材 と して石英か長石を用 平地原遺跡 い、ほとん どが無紋土器であ るが、 ヒウツタ題跡 過跡により爪形文、指頭圧痕文、沈 西表島 線文、山形押型文等 の有紋土器が致 仲間第二貝塚 点採集 されるo 与耶良原過跡 ③.石斧のほ とんどが緑色片岩を使用 し 波照間島 半磨製石斧である○ 下田原貝塚 ・3260下田原貝塚年前頃 i ④.過跡ごとに貝塚形成 の有無、共伴適 与那国島 物に著 しい違いがあるo トウグル浜遺跡 ⑤.食料残淳の貝殻が少ないこと o 多良間鳥の添通過跡 2700年前 ・2520咋前頃

?

千 無 土 器 時 代 罪 ①.河口や湧水のある海岸低地砂丘 に立 宮古島 浦底過跡 地 しているo 浦底遺跡 ・2名蔵貝200q:.塚群柄.頃 ②.明瞭な貝塚を形成 しているO3.土器が全 く確認されないo土器に代 石垣島長問底遺跡 2000咋約 ・1540年前頃 わ つて、調理に用い られた多宜の砂 岩 'の が される 0 ④.石斧 も刃郡や胴部の-部を研磨す るl 西表島碕枝赤碕貝塚群 ・ 420年AD 材を用い、両面を広 ぐ磨いているo ・ 620iFAD 石斧の製作技法は進歩 し、 カヌーを 仲間第-貝塚 船ill3貝塚 製作するのに絹い られた可能性のあ 船浦貝塚 1500咋荊 製石斧 船 のイカ リだと田われる石るシャコガイ製貝斧や柱状 ノ ミ型磨 上原月塚 ・1250年前頃 期 錘等が発見されるoヽ ー ′l三`ヽ 小浜島 仲間邦-貝塚 ⑤.銭貨 「開元通賓」 (621年初鋳)が発 波照間島ウリンダ貝塚 1200年前 石垣島 :時枝赤碕貝塚33見されるo 枚 ・ 945年前頃 吹通川河口貝塚 1嘉良獄貝塚群1枚枚 名戯貝

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西表島 :仲間第-貝塚3枚 ・ 940咋荊頃 (臥 波照間島.大泊浜貝塚の第四層か ら 神n1貝塚 滑石製石鍋 (長崎県西彼杵半島産) 大泊東貝塚 ・1010EJAD のカムイヤキ 、 船捕員1l26世紀頃世紀頃塚 鳩反 り碗、褐軸陶器、鉄聖等が出土陶器)、中国製の白磁玉緑桶 .白磁 したo 金 石 併 用 時 原史時代 代 前時スク ①.海岸砂丘、 島々を取 り巻 く裾礁の割 石痩島 れ目が-望で きる洪積世 .石灰岩の 石底山遺跡 丘陵 .平地、洞穴等に立地 しているo 山原貝塚 期 級 期 ②.12世紀頃、北か らの渡米者の積極的 ビロースク溝跡 な南島経営により、 中国 との密貿易 川 の して る 0 ③.交易に依 って中国製の多数の貿易陶 名蔵 シタダル海底 敬器 (白磁、青砥、染付、褐紬陶器) 等が もたらされた○ 西表島遺跡 ㊨. これ らの遺跡 は武士の家 .武士の崖 平西貝塚 敷 .武士の山、大和基、元村等 とも 与那良適跡 、ばれ、大 p が 世の 、 や基地 鳩問 といわれている 0 1390年 -宮古 .八重山、初めて沖縄島 与那国島 大償永亘 (1999)より -46 _

(8)

史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000)

4.

南琉球新石器時代 の文化内容

ここでは安里氏の編年案 を参考 に、新石器時代の文化内容 について考 えてみたい。 前期 と後期の文化内容で最 も大 きな相違 となっていることは、周知の ように、前期 は土 器の使用があ り、後期 は土器 を持 たない とい うことである。 日本や北琉球 (沖縄 ・奄美諸 良)の新石器時代 は土器縮年 を主体 に時間的な変遷がたどれるのに対 し、南琉球は編年 に 最 も有効 な土器 を欠いている点がネ ックになっている。そ もそ も有土器か ら無土器へ とい う歴史展 開があ りえるか とい うことであるが、これ までの事例か らポ リネシアなどの島々 では現実 にあったことが知 られている。ただ、いかなる理由で土器 を持 たな くなるのか良 く判 っていない。南琉球の場合は有土器文化 と無土器文化の集団が まった く別の ものであ ることが考 え られているが、 まだ実証 されていない。 遺跡のあ り方 (立地) についてみると、前期の遺跡は砂丘後方の石灰岩台地や微高地の 縁辺部 に形成 されている例が多 く、それに対 して後期の遺跡 は砂丘上 に形成 されているこ とが多いことより、それが一般的な特徴 と考 えられている。 ところが、最近 の調査で前期 の遺跡が砂丘地に形成 されている (多良間添道遺跡 ・ピュウツタ遺跡) ことが確認 され、 前記 した遺跡立地の特徴 は一般的なもの とは言えな くなっている(写真1,2,3)0 図 1に主要遺跡の分布 を示 したが、前期 と後期 の遺跡が近接 した場所 に形成 されている 特徴が認め られる。そのことについては以前か ら注 目され、土器の出土 しない後期の遺跡 は土器 を有す る前期遺跡のキャンプサイ トもしくは船造 りの作業場ではないか とい う見解 があった。現在では明 らかに時期の異 なる遺跡であることが判明 している。 遺物の組成 についてみると、前期の遺跡では 「下田原式土器」 と呼ばれる鍋形の土器 を 有 し、数 は少 ないが爪形文や沈線文 などの有文土器 も認め られる(写真4)。石器では部分 磨製の石斧 を主体 に、たた き石 ・す り石 などがある。他 にはイノシシの骨 を利用 した骨錐 やサ メ歯製品などの骨製品、スイジガイ製利器 などの月製品がある(図2)。 ただ、土器 と 石器 は各遺跡 に共通 した遺物であるのに対 し、骨製品 と月製品は遺跡 によって出土状況が 異 なる。その ことが何 を意味するのか、現時点では良 く判 っていないが、土器の状況か ら 時期差があるもの と考 えられる。すなわち、有文土器の見 られる遺跡では骨 ・月製品がほ とん ど出土 しないのに対 し、無文土器主体の遺跡 において骨 ・月製品が出土する傾向にあ り、前者が時期的に古 くなる可能性がある。 後期 の遺跡では、土器 を全 く持 たない ことが大 きな特徴である。石器 は前期 と同様 に部 分磨製の石斧 を主体 に、たた き石や石錘 な どがある(図3)。石斧では横 断面が方形 をなす 全面磨製の片刃石斧が認め られ、前期の石斧 にみ られない特徴で、 この時期 のメルクマー ルをなす もの と考え られる。 また、大型 シャコガイの蝶番部 を用いた貝斧 もこの時期 の大 きな特徴 である。貝製品は他 にスイジガイ製利器やイモガイの殻頂部 を利用 した貝 円盤 (シェルデ ィスク) などがある(写真5)。骨製品は前期ほどではないが、骨錐 など若干認め られる。前期 にもみ られるスイジガイ製利器 は北琉球の新石器時代 にも普遍 的に存在 し、

(9)

_47-史料 編集室紀 要 第25号 (2000) その こ とか ら南北琉球の交流があったことを証明す る遺物であると考 える研究者 もいる。 遺構 については発掘調査 の事例が少 な く判然 としないが、後期 に属す る宮古島の浦底遺 跡や多 良間島の西高嶺遺跡では集石炉 (アースオーブ ン)が多数検 出 されている。土器 を 有 きない ことか ら石蒸 し調理が基本であった ことが うかが える。前期 に属す る波照間島の 下 田原貝塚 では住居跡 と考 え られ る石敷 き遺構が検出 されている。

5.

文化論 について

本項では研究者 によって説が分 かれてい る南琉球新石器時代 の文化論 について述べ る。 まず、前期 と後期 の文化が連続 している とす る 「文化一元論」 を唱 えてい る安里氏の考 え は、石斧の形態的特徴 や月製品の一部 (ス イジガイ製利器 な ど) に、両時期 に共通す る要 素がみ られることか ら、一連の文化 とみなす ことがで きる としている。それに対 して、前 期 と後期 は別文化 である とす る 「文化二元論」 を提唱 してい る高宮氏や金武氏、大演氏 ら は、その内容 に若干の相違がみ られるが、概 ね、次 の ような説 を示 してい る。下田原式土 器 を用 いていた前期 の人々が何 らかの要因で南琉球か ら姿 を消 し、その後 に新 たな文化 を 携 えた後期の人々が移 り住 んだ と考 え、その理 由 として、前期 と後期 の間の時間的なブラ ンクが大 きい こと、両時期 の文化 的内容が異 なることなどが挙 げ られ る。 ただ、両方の説 も決定的な証拠が な く、いずれ も仮説の域 を出ていない。今後 は、両時 期 の文化 的内容 をは じめ とした詳細 な分析 ・比較検討 を行 う必要がある。 また、未だに確 認 されていない墓域 (人骨) を見つけ、南琉球新石器時代 人の人類学的調査研 究 を行 うこ とによって、両時期 の人たちの関係が明 らか になると考 える。

6.

文化源流 について

ここでは南琉球 の考古学で最 も大 きな課題 ともいえる文化源流 について考 えてみたい。 北琉球の先史文化 は、九州か ら視達距離の間にある島々 を経 由 して持 ち込 まれたことが こ れ までの研究 によって知 られている。 ところが、南琉球の最 も北側 に位置す る宮古 島 と北 琉球の沖縄 島の間は約300km も隔て られてお り (宮古凹地)、先史時代 における文化的交 流の痕跡 をほ とん ど兄 いだす ことがで きない。それでは、南琉球の先史文化 は どこか ら伝 播 したのであろ うか。今 までの研 究成果か ら、漠然 と南方か らの伝播 といわれている。そ の ことは誰 しも認 め る ところであるが、具体 的に地域 を指す ことがで きないのが現状であ る。近年、安里氏 や大損氏が遣物 の比較検討 を中心 に精力 的な調査研 究 を行 ってお り、そ の出 自について も言及 している。具体 的 には、安里氏 はシャコガイ製月斧 をとお して フィ リピンとの関わ りを追求 し、大横氏 は下 田原式土器 を中心 に台湾の東南部お よびフィリピ ンな どとの資料比較 を行 っている。 この ように、南琉球の文化源流 についての研究が進め られてお り、近い将来 にそれ らの問題が解 明 される と思 われ る。

(10)

-48-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000)

7.

おわ りに 以上 、南琉球新 石器時代 の諸 問題 について、 これ までの研 究成果 を もとに述べ て きた が、最後 にこれか らの研究課題 と方針 について、筆者 な りの考 えをまとめることにす る。 現在 、南琉球 で知 られてい る最古の土器 は 「下 田原式土器」で、放射性年代 測定 の結 果、約3500年 ない し3700年前の ものであるとされてい る。 この時期 の北琉球 では 「伊波式 土器」 や 「荻堂式土器」 な どが知 られてお り、縄文時代後期 に比定 されている。北琉球 に おいては、 さらに古 い土器 も確認 されてお り、南琉球 で も下 田原式土器 より古い土器が発 見 され る可能性があ る。当該土器の出 自を考 える うえで も、下田原以前 の遺跡 を見つける ことが重要課題 となってい る。 下田原式土器 はこれ まで20ヶ所近い遺跡で確認 されてお り、量的に もかな りの ものがあ る。器形 や文様 、 その他 の特徴 にバ リエ ーシ ョンがみ られ る。 これ まで当該土器 につい て、い くつかの分類 は行 われてい るが、その後 の詳細 な分析が なされててお らず、様相が 掴 めていない。最近、石垣 島の ピュウツタ遺跡の調査 において、白砂 の間層 を挟 んで2枚 の文化層 が良好 な状 態で確認 されている。調査報告書 によると、下位 の文化層 か ら幅広 の 沈線文 を施 した土器が出土 してお り、他 に例 を見 ない新資料 となってい る。上位 の文化層 は無文の土器 が主体 をな していることか ら、下 田原式土器 のなかで も有文資料が時間的 に 古 くなることが判 って きた。有文資料 は石垣 島の大 田原遺跡ヤ フーネ遺跡、西表 島の仲 間 第二貝塚 、多 良間島の添道遺跡 などで も確認 されてお り、文様 の種類 も沈線文 ・爪形文 ・ 刺突文 な どが見 られ る。 この ように、土器 に時間幅があることがわか って きたことか ら、 今後 は よ り詳細 な分析 と研 究 によって、各遺跡の同時性 ・時間差 などの比較検討が可能 に なる と思 われ る。 石斧 については、 その形態的特徴か ら東南 アジアのホア どこアン文化 ・バ クソニアン文 化 との関わ りが考 え られて きた。 ところが、時期 的 に一致 をみない ことか ら、近年では新 たな源流 を求めて研 究が行 われている。特 に高宮氏の研究 は、前期 ・後期 の石斧 を形態的 特徴 お よび製作技法 の観点か ら詳細 な分類 を行 い、両時期 の関連性や出 自な どについて追 求 してい る。今後 の研究 に大 きな一石 を投 じる もの と思 われる。 シャコガイ製貝斧 については、古 くか らフィリピンとの関連性があることを国分直-氏 や高 山純氏 らが指摘 していた。安里氏 は宮古 島の浦底遺跡 の発掘調査 を契機 に研 究 を進 め

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年 にはフ ィリピン国立博物館 のス タッフと共 にバ ロボク岩陰遺跡の発掘調査 を行 っている。同遺跡 はパ ラワ ン島 ドユ ヨン遺跡 と並 んで月斧が出土 してい ることで知 られて いる。 また、氏 はバ ロボク岩陰遺跡の調査成果 を踏 まえて、貝斧の出現 までの過程 を次 の ように考察 してい る。 「剥片石器文化 の時期 に、素材 を月 に求めて (材質転換)製作 した剥片月器が現れ、そ の発展形式 として打 製月斧が発生 した。そ こに磨製石斧が渡来 し、その研磨技法が導入 さ れて磨製の貝斧が出現 した。」

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9-史料編集室紀要 第25号 (2000) さ らに、南 琉球 の月斧 は単 に磨 製石斧 か らの材 質転換 に よる ものでは な く、当初 か らシ ャコガ イ を素材 に した もので、 ひ とつ の文化 と して成 立 す る ものであ る と指摘 してい る。 この ように、安里 氏 の卓越 した見解 は、 これ か らの南琉 球 の新 石器時代 文 化 を考 えてい く うえで重 要 な手 が か りになるであ ろ う。 前項 で も述べ た よ うに、南琉球新石器 時代 の前期 と後期 につ いて、その文化 が連 続 した ものであ る とい う文化 一元論 と、全 く別 の文化 に よって発生 した とい う文 化二元論 が唱 え られてい る。現段 階で はその どち らとも言 え ない状 況 で、今後 の大 きな研 究課題 とな って い る。 また、文化 源流 につい て も、南琉球 の地理 的位 置 か ら台湾 ・東南 ア ジア ・フ ィリピ ンな どにそ の系 譜 が求 め られ るこ とは、多 くの研 究者 の一致 した意見 であ る。 これか らは 双 方 の資料検 討 を詳細 に行 い、 よ り具体 的 な源流地域 を見極 め る必要が あ る。 最 後 に、 と りとめの ない文 章 にな ったが 、南琉球新 石器時代 の課題 と研 究 の方 向性 につ い て筆者 な りに ま とめ たつ も りであ る。読者 の忌博 の ない意見 をいただ くこ とが で きれ ば 幸 いで あ る。 参考文献 画分直一 軒南島先史時代の研究』慶友社,1972 多和 田真淳 「琉球列島の貝塚分布 と編年の概念

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『南島考古』第15号.沖縄 考古学会,1996 高宮贋衛 「南島考古雑録 (刀)

作中縄国際大学文学部紀要』(社会学科編)第20巻第2号,1996 白木原和美 「琉球弧 と南シナ海

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『史料編集室紀要』第21号沖縄県史料編集室,1996 岸本義彦 「フィリピンの考古資料- ダビラ遺跡 ・サ ンタマ リア貝塚 ・マガピット月塚

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『文化課 紀要』沖縄県教育庁文化課,1999 島袋綾野 ・阿利直治 『名蔵貝塚 ほか発掘調査報告-名歳月壕 ・ピュウツタ遺跡発掘調査報告書

-』

石垣市教育委員会,1997 _50_

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史 料 編 集 室 紀 要 第 25号 (2000) 図2.南琉球新石器 時代 前期 の遺物 [波照間島下田原貝塚] -51-R U ・ Q 、 し 「ト .・ ・ 門 u v 人間 矧 剛 闇 V

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史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000)

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図 3.南琉球新石器 時代後期 の遺物

[トウグル浜遺跡 (1- 8)、名蔵 貝塚群 (9-12)、船越 貝塚 (13- 14)]

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-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000)

写 真 1. 台地 に形成 された前期 の遺跡 (大田原遺跡)

写 真 2.砂丘 に形成 された前期 の遺跡 (ピュウツタ遺跡)

写真3.砂丘 と微 高地 に近接す る遺跡 (下田原貝塚 ・大泊浜貝塚)

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_53-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 復元 された土器 巾広沈線文 を施す土器 爪形文 を施す土器 ち ょうつがい部利用の貝斧 放射肋部利用の貝斧 サメ歯有孔製品 写真4.石垣 島 ピュ ウツタ遺跡 の下 田原式土器 写真5.宮古島浦底遺跡の出土遺物 _54 _

図 3. 南琉球新石器 時代後期 の遺物

参照

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