「テクノクラート」が語る「開発独裁」下のイラン
石油化学産業の歴史 (特集 世界の資源外交 -- 日
本の戦後史と資源外交)
著者
ケイワン アブドリ
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
211
ページ
36-41
発行年
2013-04
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00003730
近代化してその経済力を工業国 のレベルにまで引き上げるという 夢をイラン人が抱くようになった のは、 かれこれ一五〇年前に遡る。 しかし支配エリートが工業化とい う国家目標を掲げて、その実現に 向けすべての物的・人的資源を総 動員しようとした期間というの は、一九三〇年代および一九六〇 から一九七〇年代にかけての極め て限られた期間であった。この二 つの限られた期間こそが、国王を 中心とした経済開発最優先の政治 システム 、いわゆる ﹁開発独裁﹂ がイランで確立した時期であっ た。 ﹁開発独裁﹂体制はイラン経済 を豹変させ、研究者達はこの時代 に高い関心を示し多くの研究成果 を発表してきた。一方、一九七九 年の革命によって﹁開発独裁﹂体 制に終止符が打たれて以降は当時 の内部資料もあまり公開されてお らず、この時代の政策決定過程に 関しては不明な点が数多く残る 。 現在この資料不足の問題を部分的 に補っているのは政策決定当事者 のインタビュー記録を出版してい る﹁オーラル・ヒストリー﹂プロ ジェクトの文献である。そのなか でも﹁イラン研究財団﹂が予算企 画庁やNIOC︵イラン国営石油 会社︶ 、NPC ︵イラン国営石油 化学会社︶などの幹部とのインタ ビューを纏め、一九九五年以降に 刊行した ﹁イラン発展と開発シ リーズ ︵一九四一∼七九年︶ ﹂は 特に重要である。 本稿はこのシリーズのなか、日 本と最も深い関わりのあるNPC 会長 ﹁バーゲル ・モストーフィ ︵ Baqer Mostowfi ︶﹂とのインタ ビューを纏めた﹁イランの石油化 学産業 始まりから革命前夜ま で﹂をレビューし、解説するもの である。
●生い立ちとキャリア
バーゲル・モストーフィはイラ ンの経済近代化に大きく貢献した テクノクラートの第一世代にみる 典型的な人物であるといえる。彼 は一九一八年のガジャール朝末 期、貴族階級︵アーヤーン︶の一 家に生まれ、二度の留学を経て高 級官僚のポストに就き、キャリア を通してテクノクラートとして過 ごした。パーレビー朝時代にガー ジャール朝時代のアーヤーンの一 部が衰退していくなかで 、モス トーフィ家はその社会的地位を保 持していた。この点は次のような 記述から窺うことができよう。 ﹁陛 下は皇太子時代アゼルバイジャン 地方に旅行された際に知事の公邸 で滞在されていたため私の家族と 知り合いでした。アゼルバイジャ ン知事の職は、カージャール朝時 代から皇太子が国政統治を訓練す る場となってきました。私の父は 知事時代にイラン皇太子のもてな しを拝命していました﹂ 。 彼自身は一九三四年にアング ロ・イラニアン石油会社︵ AIO C︶による留学試験に合格し、一 九三五年の夏からバーミンガム大 学で石油エンジニアリングを専攻 し勉強した。 卒業後は一旦帰国し、 一九四四年に ﹁ブリティッシュ ・ カウンシル﹂の奨学金を得て再び イギリスに渡り 、インペリアル ・ カレッジで研究を行った。 一九四八年に新設された﹁イラ ン石油株式会社﹂の取締役に選ば れて以降はキャリアを通じて石油 産業関連の仕事に従事した。一九 五三年に同社の社長に就任、一九 五八年に ﹁イラン石油株式会社﹂ がNIOCに吸収されるまでこの ポストに留まった 。﹁イラン石油 株式会社﹂はイランの石油産業の 発展に大きく貢献したとまではい い難いが、モストーフィは石油会 社をほとんどゼロから立ち上げ 、 ﹁後にNIOCで重要な職務を担 うようになった人物の多くはここ から出発しました﹂と本人が述べ﹁
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日本の戦後史と資源外交
るように特に人的ネットワークを 拡大した。また他方で油田開発で 生じた油井の暴噴という大きなト ラブルを現場で経験している。 モストーフィは一九五七年にN IOC の幹部となる 。﹁ 三八歳で 取締役会のメンバーになりまし た。私は最年少でした。取締役会 のなかで三八年以上勤続していた 者も二 、三人いました﹂ 。それで も当時の取締役会の他のメンバー や会長と比べれば石油産業および 石油ビジネスにおけるモストー フィの専門知識と経験は際立って いた。本書でも名前が挙がってい るエンテザームやエグバールなど のNIOCの歴代会長は著名な政 治家だったが、石油産業はおろか 企業経営の経験もない人たちだっ た。彼は若いNIOCの幹部とし て 、コンソーシアム ⑴ との間で拗 れていた業務引継ぎ問題に関する 交渉を指揮して実績を残した。 モストーフィのキャリアの初期 はイランを席捲した ﹁石油国有化﹂ 運動の最盛期に当たっており、こ の時期における彼の政治とのかか わり方はその立場の一端を明らか にしているといえよう。モストー フィはナショナリストの国民戦線 やトゥーデ︵共産︶党を支持する 同世代の高学歴インテリ層の多く とは一線を画しながら、実体験か らもまた専門的な見地からもAI OCに対するイランの立場を支持 していた。 ﹁︵一九四〇年代初期の アバダーンのAIOC施設の︶就 労環境は現在南アフリカのアパル トヘイトについてきかれる状況と 似たものでした。イギリス人社員 はイラン人を二流市民のように 扱っていました。特に戦争中にイ ギリス軍がイランに侵入してきて 以降、かれらの態度はさらに悪化 しました。私はこのような状況が 耐えられませんでした﹂ 。 また一九四九年にAIOC代表 のガスとイラン財務相代表のゴル シャイヤンが合意した一九三三年 協定の修正協定については、以下 のように述べる 。﹁協定内容は私 を震撼させました。数日しか残っ てなかった国会会期の間にどうに かして誰か国会議員をみつけてこ の協定の弊害を国会で述べてもら わなければならないと思いまし た。あの時代、世界的にも石油協 定は転換期を迎えていました。メ キシコでは石油が国有化されまし た。ベネズエラ政府は利益折半の 協定を権益をもつ企業に呑ませて いました。サウジアラビアでさえ も一九四九年と一九五〇年に利益 折半の原則を認めさせていまし た。しかしイランの我々は途につ いたばかりでした。私はイランが 必ずより良い条件を引き出さなけ ればならないと考えていました 。 しかしガス︱ゴルシャイヤン協定 は国の現状に合わず、国会に提出 されるべきものではありませんで した。残念ながらこの条約は提出 され、私は協定に反対する少数派 議員と協力することに決めまし た﹂ 。 一方石油産業の国有化に関して は、彼は当時としては極めて珍し く慎重な見解を持っていた 。﹁ ラ ズムアラー中将は首相でした。彼 はイラン石油株式会社からも意見 を求めました。我々は報告書を用 意し首相に送りました。報告書で は、石油カルテルが石油販売市場 を独占しており、石油産業を国有 化すれば原油輸出とアバダーン製 油所の製品販売がいずれ問題に直 面し、石油生産が落ち込み国内消 費量と石油収入も減少する確率が 高い、と纏めてありました﹂ 。 石油国有化運動を指導したモ サッデグ政権が転覆された後に 、 イランとコンソーシアムとの間に 結ばれた契約にも彼は一役買っ た 。﹁コンソーシアムとの交渉が 終結し、閣僚会議がコンソーシア ムとの契約を審議 ・採択した後 、 政府がその法案を国会に提出しよ うとしたとき、当時の財務大臣で あったアミーニー博士は私に顧問 への就任を打診してきました。私 にメディア対策および一般人から の質疑・提案の対応を引き受ける よう要請したのです。私は若手の 部下の協力を得て、国会に提出さ れる予定だった契約の内容の要点 を纏めた文書をつくり、ラジオか ら放送するようにしました。その 際に質問を募集したところ毎日の よ う に い ろ い ろ な 質 問 が 届 き 、 我々はラジオを通じて対応しまし た。その結果条約の内容が一般に より理解されるようになり、我々 の活動は国会に提出された法案の 審議の際、政府の立場を強化する ことに貢献しました﹂ 。
●国王との関係
一九六〇年の白色革命を経て 、 国王を中心とするイラン版の﹁開 発独裁﹂体制は全盛期を迎える 。 国王は外交と軍事政策を独占し 、 エネルギー政策において強い影響 力を保持していた。しかし経済政 策の立案と実施に関しては、予算「テクノクラート」が語る「開発独裁」下のイラン石油化学産業の歴史
。モス ることは分かっていました﹂その 後モストーフィは国王に直談判で きるほど親密な関係を築いて行く ことになる 。﹁石油埋蔵の可能性 がある地域を調査するためにイラ ン石油株式会社は地図をつくろう としていましたが、国軍の地理局 に戦中にアメリカが撮った航空写 真が存在していることが判明しま した。そこでその写真を渡してく れるように圧力をかけると同時に ︵国王にも︶申し上げ 、結局了解 を得て写真を提供してもらいまし た 。︵中略︶彼は写真入手の重要 性を理解してくれていました。そ こで拝謁を申し入れ、受け入れら れました﹂ 。 その後 ﹁ イラン石油株式会社﹂ の社長としてコム地方での油田発 見に貢献すると﹁陛下は以前から 私に特別に親切にしてくださって いましたが、ご恩情はコムで石油 を発見したことでますます増えま した。この貢献に対して私は陛下 から三級の王冠勲章を与えられま した 。︵中略︶その後さらに上級 の勲章も頂き、最後には石油発見 と石油化学産業創立の功で肩帯付 きの一級王立勲章も頂きました﹂ 。 他方、彼は他のテクノクラート たちとも独自のネットワークを築 いていた。当時のテクノクラート たちの代表的な人物であったア リーナギー・アーリーハーニーに ついて、 ﹁かれは元々サヴァク︵国 家情報治安機構︶で研究活動をし ていました。ある日、当時治安機 構の長官だったパークラワン中将 が電話をかけてきて 、﹃ うちに一 流な研究者がいるのだが、ここの 仕事が彼の器には小さすぎるから NIOCに移ったほうが良いと考 えている﹄といいました。私も彼 のことを歓迎しました。彼は移っ てきて、その後まもなくして大臣 になりました﹂と述べている。 また次の記述からは予算企画庁 長官との親密な関係も窺える。 ﹁あ る日アウフィヤ企画庁長官から電 話連絡があり、昼食に誘われまし た。昼食のあと﹃君をイランの石 油化学産業︵NPC︶のボスにす ることが仕組まれている。陛下が このプロジェクトのとき君のこと について仰ったことを、だれより も先に知らせてあげようと思って ね。陛下はこのプロジェクトに大 変な関心を持たれているんだよ 。 多くの人がこのポストを狙ってい るが、私は誰よりも君が適任だと 理解している。君は打診されたら 受けるだろう、と︵国王に︶示唆 しているので断らないようによろ しく頼むよ、といわれました﹂ 。 ただ彼は政治家たちとはそりが 合わなかったようであり、彼らに 対する評価も一般に辛口である 。 一三年間も宰相を務めたホヴェイ ダー首相について﹁私はホヴェイ ダー氏の素顔をみたことあったの で困りました。大変優れた能力を 持ち合わせている人間だったとい えません。ホヴェイダーは良い人 で、知識が深く、合格点をあげて も良い人物でした。しかし同時に 一三年の間に首相職に留まるため にあらゆる手段を駆使していまし た 。﹂と述べて中庸な評価を下す が、後任のアムーゼガール首相に 関しては﹁彼にはしばしば困らさ れていました 。︵中略︶アムーズ ガール氏は自分が誰よりも深い知 識をもっているという妄想にとら われて、化けの皮が剥がれる可能 性があると感じると、手段を選ば ずにそれを阻止しようとしていま した。 ﹂と評価が厳しい。
●
石油化学産業の発展と日本
に対する期待
モストーフィは紛れもなくイラ ンの﹁石油化学産業の父﹂の名に 値する実績を残している。イランの経済発展にとって石化産業がも つ潜在力を初めて主張したのはこ の人物であり、それは決して偶然 の産物ではない。そのきっかけと なったのは大量な随伴ガスの燃焼 するイラン油田開発の現場の当時 の事情である 。﹁イランの石油産 業に携わることがある人は、イラ ンのガスが有効に利用されること もなく燃やされるのをみて何かを しなければならないと自然と考え るようになっていました。私は国 の経済の持続的な発展という視点 に立って石油とガスを開発しなけ ればならないと信じていました 。 私は非生産部門を担当するNIO Cの役員として、またコンソーシ アムのOEPCの役員として︵石 油産業の︶現在と将来についてた くさんの報告書を作成し、そのな かで石油化学産業の重要性と燃や されているガスの利用の必要性を 度々主張していました﹂ 。 モストーフィと認識を共有する テクノクラートが増え、彼の積極 的な働きかけもあって、予算企画 庁の当時の第三次五カ年計画︵一 九六三∼六七年︶に石化事業建設 への予算配分が明記された。 一方、 モストーフィは石化産業の発展を 当時主流であった保護主義産業政 策ではなく、外資を積極的に受け 入れて外国企業と提携を通じて海 外市場のシェア獲得を目指す方法 を採用すべきであると考えてい た。しかも石化事業は﹁大規模で なければなりません。世界市場に 参入する石油化学企業にとっては 生産を大規模に行い生産費を抑制 することが死活的な問題です。そ うしないと多大の損失が余儀なく されます。場合によってガスや石 油の費用をゼロにしても損失が出 ます。工場の建設費が高くて減価 償却のコストの負担が嵩むうえ 、 生産量が少ないと生産費も増加し て製品価格はだれも買ってくれな いほど高くなります﹂とも述べ 、 生産コストと価格の問題について 危機意識を持っていたことが窺わ れる。 彼は外国企業と合弁会社の設立 を可能にするために石油化学産業 の開発法案を作成した 。﹁外国籍 の石油化学企業と提携できるよう な法案を国会に提出し、可決して もらいました 。︵ NPCが︶NI OCの傘下企業だったので国会か ら許可を得られなければなりませ んでした。NIOCは国営企業で あるために自由に外国企業をイラ ンに連れてきて合弁を組むことが できなかったのです。しかしこの 法案によってそれが可能になりま した﹂ 。 当初提携すべき企業の選定にお いてNPCの選択肢は非常に限ら れていたが、当時の欧米諸国との 良好な外交 ・経済関係を背景に 、 適切な合弁相手をみつけることは 比較的容易であったといえよう 。 最終的にNPCは一九六〇年代後 半、複数の石化事業を稼働するこ とに成功する。その間NPCの経 営陣は会社の基礎体力を強化して 新しい段階での事業に着手する体 制を整えた。彼らは本気で石化産 業を基幹産業に昇格させようとし ており、石油収入がいずれ減少す る 時 の た め に 備 え よ う と し た 。 ﹁もっと大きい企業 、もしくは世 界一の企業を追い求めることにし ました。なぜなら︵中略︶我々は 石化産業とガスでイラン国民の糧 を賄わなければならなかったから です﹂ しかし、大規模なコンビナート の建設を目指すNPCの開発戦略 は欧米企業の思惑とは合致しな かった 。その理由についてモス トーフィは明確な回答を避けてい るが、欧米企業にとって事業の規 模が大きすぎたか、あるいはリス クが高すぎたことが要因であった と推測できる。
●日本との協力
IJPC
大規模な石化事業の建設に向 け、日本との協力を得てIJPC を設立したことはモストーフィの キャリアの最大の成果であったと いっても間違いないだろう。本人 もそれを自負している 。﹁ある外 国企業の社長は、私に﹃国に対し てのあなたの最大の貢献は日本人 を連れてきたことだ﹄といってく れました。これはとても重要な成 果です﹂ 。 イランと日本の経済的協力関係 においてIJPCは極めて象徴的 な存在であった。これを可能なら しめたのは、一九六〇年代の両国 の経済的結びつきの強化と双方の 戦略的利害の一致であったといえ よう。 例えばエネルギー分野に限って いえば、一九六〇年代後半でコン ソーシアムとの契約から一〇年間 が経ち 、イランの国力は高まり 、 国際石油産業の構造も変化してい た。そうした状況の変化を背景と して、徐々にイラン側とコンソー シアムとの間での対立が表面化す「テクノクラート」が語る「開発独裁」下のイラン石油化学産業の歴史
。﹁日本はイランで原 、︵日本側 。 。︵中略︶それぞれの 何を報告したのか、 我々 ︵中略︶ て、次エンジニアが来て、その次 製造者が来て、四度目経営者が来 て、常に話合っていました。こち らは困惑でしたよ、 混乱しました。 ︵中略︶しかし彼らは同時に大変 立派な人たちでしたし、私は彼ら との仕事を楽しみました 。結局 、 我々は世界で規模の最も大きい企 業である日本の六社と合弁をつく りました。三井物産がそのトップ でした﹂その間両国政府がNPC と日本企業団との交渉を後押しし たのかどうかについては本書では 言及がなされてないが、石化事業 に対する国王の特別な思い入れを 鑑みると必ず何らかの働きがあっ たものと推測できる。 一方、モストーフィは﹁我々の 市場は大きかったし、膨大で安定 している資源をもっていたため 、 バーゲニングパワーを持っていま した﹂と有利な立場で交渉を進め たという認識を示している。一九 七一年にNPCと日本の企業連合 の間の協定が締結され、同年末に はイラン議会を通過した 。モス トーフィはその内容にかなり満足 し、イラン側の要求が反映された 内容になったという 。﹁日本側は 外貨立て借入の一部を調達するこ とになっていました。しかしそれ よりも重要なのは、 技術者の派遣、 必要な訓練、そして製品の輸出販 売の部分でした。つまり、イラン が求めていたのは技術の取得、石 化産業の設立と定着化のための製 品の生産、無駄に燃やされていた 石油採掘随伴ガスの使用、将来に おける石油と国の膨大なガス資源 の効率的な使用、そして最終的に 国内需要を満たしたうえで輸出収 入源にもなる石化製品の生産でし た﹂ 。 事業建設は比較的順調に進んだ ものの、特に一九七六年以降イラ ン政府が財源不足に直面すると 、 モストーフィは自身で資金の調達 に奔走するようになった 。﹁事業 計画書に予算案を付録し企画庁に 提出すると、首相は真っ先に﹃政 府がこの資金を拠出できるために は陛下に軍事予算の削減を頼み込 むしかない﹄といっていました 。 ホヴェイダー首相の一番の返答は 常にこうでした。 ︵中略︶ ︵しかし︶ 政府はあまり公にしなかったもの の、実はできる限りの支援をして くれていました﹂実際のところ 、 後に当時の予算企画庁長官マジー ディーが明かしたように、IJP Cをはじめとする石化事業は国王 のお気に入りのプロジェクトで あったため 、その予算も ﹁聖域﹂ とみなされ、各事業の予算の執行 を監督する﹁予算企画庁﹂を介さ ずに拠出されていたのである。 一九七七年に首相が交代し、イ ンフレ抑制を優先したアムーゼ ガール新首相は緊縮財政政策を採 用した。当然IJPC建設予算を 含むNPCの予算も削られた。そ れでも﹁一九七七年と一九七八年 に政治面と資金面で発生した諸問 題にも関わらず、プロジェクトは 大体予定どおりに進んでいまし た﹂これで一九七八年に完了する はずだった同プロジェクトの建設 は革命運動に直面し、結局革命の 成就までに完了することはなかっ た 。﹁革命のとき 、作業の八五% が完了し、毎月二・五%の作業が 進んでいました 。 五 、 六カ月後 、 一九七九年中には始動することに なっていました。しかし夏は大変 熱いし、冬場は工場をもっと良い 状態で稼働できるので開業を冬ま で遅らせることに決めたのです﹂ しかし結局財政難によって生じた この時の遅れはプロジェクトの命 取りとなる 。﹁六カ月の遅れは大 惨事をもたらすこともあります 。 経済省による反対はまさにこのよ うな事態を惹き起しました。財務
相が我々を少し待たせただけで 、 革命の半年前に完成する予定だっ たプロジェクトは結局終わらず 、 何千万ドルの資本とそこに投じら れた労働は水泡に帰してしまった のです﹂ 。 ここで興味深いことは 、 モス トーフィが遅れの理由を指摘する とき、事業建設費が予定より大き く嵩んだことや財政難をもたらし た経済失政という構造的要因では なく、政府の責任を強調している 点である 。﹁政府や関係大臣はそ れ︵予算拠出︶を先延ばししたい ときにあの手この手を使うことが できます。 ︵政府の︶ 支出が減れば、 ︵NPC の︶予算も減ります 。大 臣の個人的な事情で事業を遅らせ たこともありました。特に相手が 日本人であれば一層、問題の解決 を頼まれて喜びを感じる大臣もい ましたから﹂ 。 彼が過剰ともいうべきほどIJ PCの事業に期待をかけていたこ とは次の発言からも理解できる 。 ﹁このプロジェクトはイランを後 進国のグループから脱出させるこ とができたと思います。生活水準 をより高い水準へと引き上げる可 能性がありました。このことに疑 問の余地はありません﹂ 。だから こそ未完に終わったこの事業の運 命を嘆かざるをえないのであろ う 。﹁二〇年経った今でもこの時 の惨事のことを思い出すと寝られ なくなるほど悲しくなります﹂ 。 モストーフィはNPCを離任し てからもIJPCのことを気にか け、日本側とのコンタクトを続け ていた。入院のとき見舞いに訪ね てきた八尋三井物産社長から﹁何 をすべきか﹂と聞かれ、 ﹁革命後、 機械のメインテナンスが疎かにな ると懸念しています。機械を錆び させてはいけません。モスボーリ ングをするように﹂と助言してい る。そして後に同社長から﹁心配 しないで 、世界最高基準のモス ボーリングを施した﹂というメッ セージを受け取っているという 。 彼はまた革命政権の対応にも強い 不満を示している 。﹁日本人に退 去を命じなければ、イランの石化 産業は今よりもずっと発達し、 ︵I JPCは︶国の経済にとってとて も重要な要因として残っていたは ずだと思っています﹂ 。 彼は退任前には、IJPC後の イラン石化産業の発展にむけて 様々な計画を構想していたようで ある 。﹁ 別のプロジェクトの建設 が始められるよう、革命の二年前 にはフランス、ドイツ、イギリス の団体と交渉していました。しか し日本と競合するかたちではな く、他の製品を日本以外の市場に 輸出することを目指していまし た 。﹂そして三井物産だけではな く三菱商事とも関係を構築し、日 本との協力の拡大を準備してい た 。﹁三菱商事とは 、 三井物産に 比べて規模の小さいプロジェクト で合弁を組みました 。︵中略︶私 は三菱商事が参加するよう意図的 に主張しました。三井物産は自ら のチームを連れてきました。私は 後で三井物産だけと仕事している といわれないように、三菱商事と はまず小規模なプロジェクトで組 みました。その後、発展させるつ もりでしたが﹂ 。 こうした計画がついに日の目を みなかったことは彼の嘆きをさぞ や増幅させたに違いない 。モス トーフィは革命が成就する数カ月 前に国を離れ、その後二度帰国す ることなく、二〇〇二年にロンド ンで最期を迎えた。