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デジタル映画論 : クリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』

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デジタル映画論 : クリント・イーストウッド『ア

メリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』

著者

柴田 健志

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

85

ページ

85-98

発行年

2018-02-28

URL

http://hdl.handle.net/10232/00029989

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八五 あ る。 そ れ も か な り 忠 実 に 実 話 を た ど っ て い る。 『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パー』は元米海軍特殊部隊SEALの狙撃手クリス・カイル(故人)の 著書(カイル 2015 )、『ハドソン川の奇跡』はUSエアウェイズ機長チェ ス リ ー・ サ レ ン バ ー ガ ー の 著 書( サ レ ン バ ー ガ ー 2011 ) に も と づ い て いる。今回とりあげるのはこの二作品だが、実話物という点では「フラ ンキー・ヴァリ&フォーシーズンズ」の物語である『ジャージー・ボー イズ』も同じである。   『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 も『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 も 傑 作 だ が、 映 画史的にはそれ以上の意味をもっている。実話の映画化という従来から 存在するジャンルが、デジタル撮影という技術によって進化させられた からである。   実話の映画化はしばしば嘘っぽくみえてしまう。それがこのジャンル の最大の弱点であろう。実話にもとづいているはずなのにリアリティー がない。まったくのフィクションの方がリアルなのである。どうしてそ う な っ て し ま う の か。 答 え は そ れ が ま さ に 実 話 に も と づ く か ら で あ る。 映画では主人公を役者が演じる。また、ロケで撮影できない場合はセッ トを組む。つまり、それらは本物ではない。映画とはもともとそういう ものなのに、それが実話にもとづいて作られている場合には、映画の物 語は実話のたんなる再現にすぎないものになってしまうのである。現実 に起こったことにどこまで似ているかがリアリティーの基準になり、映 画によって構築される独自のリアリティーを作り出すことはきわめてむ ずかしくなるであろう。もともとフィクションである小説の映画化など とはハードルの高さが違うのである。   『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 に も『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 に も 同 じ 危 険

  

デジタル映画論

   

クリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』

      

『ハドソン川の奇跡』

  

  

  

 

  

 

デジタル撮影

  つ い 最 近 ま で 映 画 は フ ィ ル ム で 撮 影 さ れ フ ィ ル ム で 上 映 さ れ て い た。 ところが、21世紀に入ると、デジタル上映が普及しはじめた。最初の うちはフィルムで撮影した作品をデジタル化して上映していた。ところ が、 い ま や 撮 影 そ の も の が デ ジ タ ル で お こ な わ れ る よ う に な っ て い る。 映画はすでにデジタルイメージ化されているのである。イーストウッド の よ う な 映 画 作 家 も『 ジ ャ ー ジ ー・ ボ ー イ ズ 』( 2 0 1 4) か ら デ ジ タ ル撮影に切り替えている。続く『アメリカン・スナイパー』 (2014) も『ハドソン川の奇跡』 (2016)もデジタル撮影である。   では、フィルムで撮影された映画とデジタルで撮影された映画はいっ たい何が違うのであろうか。 『許されざる者』 (1992) や 『スペース ・ カ ウ ボ ー イ 』( 2 0 0 0) は ま だ フ ィ ル ム で 撮 影 さ れ て い る。 こ れ ら の 作品と『アメリカン・スナイパー』や『ハドソン川の奇跡』のようなデ ジ タ ル 撮 影 の 作 品 を く ら べ て み て す ぐ 気 が つ く こ と が あ る。 『 ア メ リ カ ン・スナイパー』も『ハドソン川の奇跡』も実話にもとづいているので

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柴    田    健    志 八六 るサレンバーガー機長はそんなレベルのリアリティーではない。副機長 ジェフ ・ スカイルズを演じたアーロン ・ エッカートも本人そっくり。 また、 三人の客室乗務員シェイラ・デイル、ドナ・デント、ドリーン・ウェル シュを演じた女優たちも本人にそっくりなのである。しかしくり返して いえば、 彼らの演技には 「似ている」 という以上のリアリティーがあった。   2009年1月15日、サレンバーガー機長の1549便は午後3時 25分56秒、ラガーディア空港を離陸した。   3時27分10秒、バードストライクが発生。カナダガンの群れがエ ンジンに突っ込んだのだ。この事故によってエンジンは2基とも停止し てしまう。   3時27分32秒、 機長は管制官へ緊急遭難信号を送る。 「メイデイ! メイデイ!メイデイ!」 。     3時28分5秒、管制官パトリック・ヘンリーはラガーディア空港へ 引き返す提案をする。しかし、サレンバーガー機長はそれが不可能であ ると判断。 「できない」 。これを受け、管制官パトリックはテターボロ空 港への着陸を提案。   3時29分31秒「カクタス1529、テターボロの滑走路01に下 りられる」 。「できない」 。「了解。テターボロのどの滑走路にしたい?」 。 「ハドソン川に下りる」 。   3 時 2 9 分 3 1 秒、 今 度 は ニ ュ ー ア ー ク 空 港 へ の 着 陸 が 提 案 さ れ る。 しかし1549便はニューアーク空港へは向かわなかった。   3時30分38秒、1549便はハドソン川に不時着水。離陸からわ ずか5分後だ。   不時着水後の脱出は映画の見どころである。 ハドソン川の水温は2度。 があった。ところが、これらの作品には実話の映画化につきものの嘘っ ぽさがない。逆にきわめてリアルである。どうしてこういうことができ た の で あ ろ う か。 イ ー ス ト ウ ッ ド の 才 能 と い う だ け で は 説 明 で き な い。 イーストウッドの才能と同じくらい、これらがデジタル撮影によって作 られたという事実が重要なのである。

  

  『ハドソン川の奇跡』

  『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 で サ レ ン バ ー ガ ー 機 長 を 演 じ た の は ト ム・ ハ ン クスである。トム・ハンクスが髪も口髭も真っ白に染めて演じているの は、サレンバーガー機長本人が白髪だから。写真で見ると、この映画の な か の ト ム・ ハ ン ク ス は サ レ ン バ ー ガ ー 機 長 に よ く 似 て い る。 し か し、 トム・ハンクスの演技がリアルなのはトム・ハンクスがサレンバーガー 機長本人に似ているからなのではない。現実の存在に似ていることがリ アリティーの規準だとすれば、この作品が実際にもっているほどのリア リティーは到底生み出されなかったであろう。むしろ、本物に似ている ことは、実話物の嘘っぽさの原因になっている。いくら似ていても本物 にくらべればリアルではないのだから。   それではどうして『ハドソン川の奇跡』には嘘っぽさがないのか。ト ム・ハンクスの演技力だけでは説明できないであろう。物語がまったく の フ ィ ク シ ョ ン な ら 演 技 力 で 人 物 を 表 現 で き る。 し か し、 こ の 場 合 に は本人がいる。いくら演技をしても結局は「似ている」という以上のリ アリティーは生み出すことができないはずである。トム・ハンクスによ

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デジタル映画論 八七 月11日の出来事はそういう日常のなかで起こった。事実を伝えられる 前に映像が届いてしまう。機長が何よりもまず家族に電話をするのは当 然だが、この現実を踏まえると意味が多少異なってくる。家族に無用の 心配をかけまいと意図しているのである。こういう場面から機長の人柄 が読みとられる。イーストウッドの演出も繊細である。   しかし、もっと重要なのは、2001年9月11日の航空機テロの記 憶が、飛行場に引き返すという選択肢をあらかじめ遮断したのかもしれ ないという自問自答がそこで示されている点であろう。高層ビルに旅客 機が突っ込むという映像が先入観となって正しい判断を狂わせたのかも しれない・・・。   しかし、事故調査委員会での聴聞をとおして、結局は機長の判断が正 しかったことが証明される。ほっとするエンディングである。   ところで、この作品の驚くべきリアリティーはそれがデジタル撮影さ れたという事実と無関係には理解できないはずである。イーストウッド の演出もトム ・ ハンクスの演技も最高のものだという点を考慮した上で、 やはりそれ以外の要素が必要なのである。   映画は現実に存在するものを撮影する。これはフィルムの場合もデジ タルの場合もかわらない。しかし、撮影されたイメージの性質が違って く る。 フ ィ ル ム の 場 合 は 光 学 作 用 に よ っ て 存 在 す る も の の イ メ ー ジ が 複製されるので、イメージという点にかんしては現実に存在するものと まったく同じものが保存される。もちろん、 生身のトム ・ ハンクスと違っ てフィルムに保存されたのはトム・ハンクスという存在の視覚的側面だ けである。しかし、視覚的側面だけに限れば、現実に眼で見るトム・ハ ンクスと映画のなかのトム・ハンクスはまったく同一である。 事故を知った通勤用の高速フェリー「トーマス・ジェファーソン号」が 着水から3分55秒後に救助に到着。民間の船舶が瞬く間に集まってく る。ニューヨーク市警察のヘリコプターが飛ぶ。こうして乗客155名 と乗員5名全員が生き延びた。まさしく「奇跡」である。   事故から脱出までの模様はサレンバーガー機長の著書に克明に記され ている。しかし映画はその後、著書からは省かれている事故調査委員会 の聴聞会までの模様を中心に展開される。 自分の判断は正しかったのか。 不時着水を敢行すれば乗客を危険に晒し高価な旅客機を廃棄することに なるのは分かっている。やはり引き返すべきではなかったのか。この自 問 自 答 は 台 詞 で は 伝 え に く い。 心 の な か の 出 来 事 な の だ か ら。 し か し、 トム・ハンクスの演技はその内面的な経験を観客に伝えている。観客は 自分が経験しなかった旅客機の事故だけでなく、事故の責任をめぐって サレンバーガー機長に降りかかった出来事までも見ることになる。ここ が重要である。   もし引き返していたら旅客機が空港に到達する前に高層ビルのなかに 突っ込んだかもしれない。この想念を映画は映像化している。もちろん CGを使った映像である。映画はこの架空のシーンからはじまって観客 の度肝を抜く。事故の一部始終が描かれるのは、映画のなかではその後 である。無事全員を旅客機から脱出させた後、サレンバーガー機長はす ぐに自宅にいる夫人に電話で連絡をとる。テレビでニュースを見る前に 本当の状況を伝えておかねばと考えたのである。しかし、その状況がな かなか伝わらない。自宅はカリフォルニア州なのだ。   1991年の湾岸戦争以来、遠く離れた地域の出来事がメディアをと おしてリアルタイムで知られるということが日常化する。2001年9

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柴    田    健    志 八八 ヴィスコンティ等の作品を熱心に論じたが( Bazin 2002 :287-309 )、デ ・ シ ー カ の『 自 転 車 泥 棒 』( 1 9 4 8) 、 ヴ ィ ス コ ン テ ィ の『 揺 れ る 大 地 』 (1948) 、いずれも出演者はすべて素人だった。   このようなフィルム撮影の特性は実話物には明らかにマイナスに作用 してくる。本人以上にリアルな人物は存在しないのだから。誰が演じて も本人のリアリティーには到達できないであろう。しかし、デジタル撮 影では事情が違ってくる。デジタル技術とは現実に存在するものについ ての視覚情報を「ピクセル」とよばれる単位に分解することによって電 子情報化して保存する技術だと説明できる。この技術の本質は現実には 連続的なイメージを分割して保存し、それらを合成することによって視 覚 イ メ ー ジ を 再 現 す る こ と に あ る。 『 フ ォ レ ス ト・ ガ ン プ 』( 1 9 9 4) ではトム ・ ハンクスの演じるフォレスト ・ ガンプがケネディ大統領やジョ ン・レノンと対話するシーンがあるがもちろんフィクションである。そ れが実際の映像のようにリアルなのはデジタル技術が使われているから である。それらのシーンはケネディ大統領やジョン・レノンの映像資料 をデジタル化した上で、 トム ・ ハンクスの映像に合わせて変形処理(モー フィング)されたものである。フィルムの映像のままではそんなふうに 変 形 さ せ る こ と は で き な い。 「 ピ ク セ ル 」 に 分 解 さ れ て い る か ら そ う い う変形が可能なのである。   デジタル撮影されることによって、 イメージは現実から切り離される。 デジタル撮影され「ピクセル」に分割されたトム・ハンクスは現実に存 在するトム・ハンクスと同一性をもたない。また、再現されたトム・ハ ンクスのイメージがサレンバーガー機長本人に似ることもできない。現 実の存在を見るときのイメージとまったく性質の違った要素に分解され   この認識がアンドレ ・ バザンの映画論の骨格だった。バザンは 「イメー ジ は 実 物 そ の も の で あ る 」( Bazin 2002 :14 ) と ま で い っ て い る。 バ ザ ンはこの認識をもとにして映画におけるリアリズムとは何かを追求して いった。この認識の本質は、フィルムが現実に存在するものをそのまま 保存するという点にある。当たり前のことにきこえるかもしれない。し かし、この認識は映画を根本から破壊しかねないものなのである。   例えば 『ダーティハリー』 (1971) でイーストウッドはハリー ・ キャ ラハン刑事を演じた。観客はハリー・キャラハン刑事が黒人に銃を突き つけて有名な「俺を楽しませてみろよ」という台詞をはくシーン、シリ アル・キラーの「サソリ」をスタジアムに追いつめて狙撃するシーンを 見てハリー・キャラハンという刑事の存在にリアリティーを感じる。し かし、それがイーストウッドであることを承知している。観客はイース トウッドをハリー・キャラハンとして見ているだけなのである。この約 束事がなくなったら映画は成立しない。しかし、この約束事は観客が映 画を見ているあいだじゅう脅かされている。なぜなら 『ダーティハリー』 はフィルムで撮影されているからである。フィルムは現実に存在するも のをそのまま保存する。だから観客が見ているのはハリー・キャラハン で は な く ハ リ ー・ キ ャ ラ ハ ン を 演 じ て い る イ ー ス ト ウ ッ ド な の で あ る。 ハリー・キャラハンなど本当はどこにも存在しない。極端にいえば、こ の映画は映画俳優という仕事をしているイーストウッドという役者の現 場ドキュメンタリーである。映画というフィクションはこの点に眼をつ むることによってかろうじて成立している。したがって、有名なスター ではなく誰だか分からない素人が演じた方が映画のリアリティーは増す という論理になる。バザンは初期のヴィットリオ ・ デ ・ シーカ、ルキノ ・

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デジタル映画論 八九 れが『ハドソン川の奇跡』を成功に導いた。デジタル映像というテクノ ロジーによって実話物というジャンルは従来の再現物語を超えるものに なった。

  

  『アメリカン・スナイパー』

  イラク戦争で合計160人以上を殺したといわれる元米海軍特殊部隊 SEALの狙撃手クリス・カイルは、2014年に『アメリカン・スナ イパー』の撮影が開始された時点ですでに故人となっている。2013 年2月5日、クリス・カイルと友人のチャド・リトルフィールドは、テ キ サ ス 州 に あ る リ ゾ ー ト 施 設「 ラ フ ク リ ー ク・ ロ ッ ジ 」 内 で、 エ デ ィ・ レ イ・ ル ー ス に よ っ て 射 殺 さ れ た か ら で あ る。 『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 と はこの点が違っている。映画でブラッドリー・クーパーがクリス・カイ ルを演じているとき、 本人はすでにこの世にいない。ブラッドリー ・ クー パーは、生前のクリス・カイルを演じる事によってクリス・カイルをこ の世に甦らせるという重い役目を背負ったことになる。   写 真 を 見 る と 分 か る が、 こ の 映 画 の た め に 体 重 を 増 や し た と い う ブ ラ ッ ド リ ー・ ク ー パ ー は ク リ ス・ カ イ ル 本 人 に た い へ ん よ く 似 て い る。 というより、 どちらが本人なのかほとんど見分けがつかないほどである。 東部出身のブラッドリー ・ クーパーはテキサス訛も練習した。 また、 タヤ ・ カイル夫人を演じたシエナ・ミラーも、写真で見る限りは夫人本人と区 別がつかない。メーキャップ技術の高さが確認できるところだが、この 作品がデジタル撮影されたという点も重要である。 てしまっているからである。それはむしろ人工的に作り出されたイメー ジに近いものになる。現実に存在するものにどれだけ似ているかという こ と は も う リ ア リ テ ィ ー の 規 準 に は な ら な い わ け で あ る。 観 客 が ス ク リーンに見出すのはトム・ハンクスでもなく、サレンバーガー機長本人 に 似 た 人 物 で も な い。 で は、 『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 と い う 作 品 に 登 場 す るサレンバーガー機長とはいったい誰なのか。サレンバーガー機長本人 とは別の、もうひとりのサレンバーガー機長である。それは映画の外の 現実といっさいかかわりなく、映画のなかだけに存在する人物としてリ アリティーをもつ。そのリアリティーは純粋にイーストウッドの演出と トム・ハンクスの演技によって作り出されるリアリティーである。   この点を映画のなかで確認することができる。というのは、エンディ ング・ロールでは本物のサレンバーガー機長と当時のクルー、乗客たち の記念会合を撮影した場面が使用されているからである。観客はここで 奇妙な感覚にとらえられる。いま見終わった映画に出ていたトム・ハン クス演じるサレンバーガー機長とそっくりの(じつは逆でトム・ハンク スがそっくりにメイクしている)本物のサレンバーガー機長を見て、こ の人が本物で映画のサレンバーガー機長はそれに似せた偽物だと感じた 観 客 は い な か っ た は ず で あ る。 そ う 感 じ て も よ さ そ う な も の な の だ が。 後に出てきた方が本物だということは頭では理解しても、直観的にはそ うではない。奇妙なことに、観客はまったく別の二人の機長を認めてい たはずである。   『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 は か つ て 現 実 に 起 こ っ た「 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 」 の 再 現 物 語 で は な い。 現 実 の「 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 」 と ま っ た く 同 等 の、 もうひとつの「ハドソン川の奇跡」なのである(原題は『サリー』 )。そ

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柴    田    健    志 九〇 たい何が起こるのかを提示しようとしているからである。   映画では、 2003年の派遣に続いて2004年のファルージャ派遣、 2006年のラマディ派遣、2008年のバグダッド、サドルシティ派 遣の様子が順に描かれ、そのあいだに家族との生活の様子が描かれると いう構成になっている。つまり、クリス・カイルが経験したとおりに物 語が展開している。   クリス・カイルは戦場においてではなくむしろ自宅に戻ったときに心 身 の 不 調 に 苦 し む。 い わ ゆ る「 P T S D( 心 的 外 傷 後 ス ト レ ス 障 害 )」 である。恐ろしいことに、戦場にいるときではなく日常生活に戻ったと きに血圧と脈拍が異常に上昇するという。そういう心身の不調がタヤ夫 人との絶え間のない口論のシーンの積み重ねによって見事に描き出され ている。   SEALの隊員は離婚率が90パーセントだという話がある。長期間 家に戻ってこないということだけが原因ではあるまい。家族のほうが精 神的なストレスに耐えられないのであろう。ある日、タヤ夫人は「特殊 部隊」を乗せたヘリがイラク国境付近で撃墜されたというニュースを見 る。その日、電話を入れるといっていたクリスから電話がかからなかっ た。その深夜、やっとかかってきた電話をとって夫人は泣き出してしま う。心労でくたくたになっていたのだ。それ以後、夫人はニュースを見 なくなったという。このエピソードは映画には描かれていないが、想像 しただけで陰鬱な気分になってしまうエピソードである。   映画では、SEALをやめるか離婚かの二者択一から口論がはじまる シーンがある。すごくリアルである。夫婦の諍いは、 ジャン=リュック ・ ゴダールの『軽蔑』 (1963) 、イングマール・ベルイマンの『ある結   実話物という点にかんしていえばロバート ・ デ ・ ニーロの先例がある。 デ ・ ニーロは 『レイジング ・ ブル』 (1980) で実在のボクサーであるジェ イク・ラモッタを演じた。ボクサー時代のラモッタを演じる時には体重 を絞り、また引退後のラモッタを演じる時には下腹がシャツからはみ出 すまで体重を増やした。しかし、観客が見たのはそうやって役になりき るロバート・デ・ニーロ本人だった。この映画はフィルムで撮影されて いる。   同 じ よ う に、 『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 が フ ィ ル ム で 撮 影 さ れ て い たとしたら、観客が見るのはクリス ・ カイルにそっくりのブラッドリー ・ クーパーでしかないはずである。ところが、デジタル撮影されたブラッ ドリー・クーパーの映像はもはやブラッドリー・クーパー自身の存在か ら切り離され、文字どおりクリス・カイルをこの世に甦らせている。こ の映画のリアリティーはこの点に由来していると考えられるのである。   観 客 は ク リ ス・ カ イ ル が 狙 撃 手 と し て 経 験 し た こ と を ブ ラ ッ ド リ ー・ クーパーという分身をとおして見せられる。スクリーンに映っているの は、もちろんブラッドリー・クーパー演じるクリス・カイルが映像のな かで経験していることなのだが、それはクリス・カイル本人が経験した ことのたんなる再現という次元を超えている。   クリス・カイルは合計4回イラクで戦っている。2003年の派遣で はじめて殺したのは米兵に手榴弾を投げようとした民間人 (しかも女性) だ っ た。 ク リ ス・ カ イ ル の 自 伝 は こ の エ ピ ソ ー ド か ら 始 ま っ て い る が、 映画も同じである。このシーンは映画の主題を暗示する重要なシーンで ある。というのも、イーストウッドはこの作品で、人間を射殺するとい う過酷な任務にあたった人間が日常生活に戻ったとき、その人間にいっ

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デジタル映画論 九一 つの生なのだから。

  

 

デジタル・リアリティー

  以 上 の 考 察 か ら す る と、 イ ー ス ト ウ ッ ド は 実 話 を 題 材 に し た フ ィ ク ションを作り上げたということになるのであろうか。それはちょっと違 う。 『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 で も『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 で も、 本 当 は何があったのかということにイーストウッドの関心が向けられている ように感じられるからである。死刑囚にインタビューしたことをきっか けに殺人事件の真相に関心を抱いて独自に調査を始める『トゥルー・ク ラ イ ム 』( 1 9 9 9) の 新 聞 記 者( イ ー ス ト ウ ッ ド 自 身 が 演 じ て い る ) と同じように。観客の関心も本当は何があったのかという点にひきつけ られていく。ようするに、これらは実話をもとに自由に着想された物語 ではないし、またそういうふうに見られていない。映画を作る側でもそ れを見る側でも、関心の焦点は真理である。以上の考察の趣旨をこの点 からもういちど語り直す必要がある。   真理の物語とは事実に一致する物語である。事実を歪曲せずにありの ままに語ることが真理の条件である。フィクションには通常この条件が 課されていない。だからフィクションについてそれが真理かどうかを問 題にするひとはいない。物語の辻褄が合っていればいいのである。しか し、 歴 史 を 題 材 に し た 作 品 で は 真 理 と い う 論 点 を 避 け る こ と は で き な い。本来なら、過去にかんする真理は歴史の本をとおして学ばれるもの で あ る。 し か し、 「 今 日 の 映 画 は 過 去 に つ い て 語 る 権 利 を こ れ ま で よ り 婚の風景』 (1974) 、 ウディ ・ アレンの『夫たち、 妻たち』 (1992) 等の作品では最高にリアルに描かれている。彼らは夫婦の諍いのエキス パートだからである。しかし、 『アメリカン ・ スナイパー』 のイーストウッ ドもけっして彼らにひけをとっていない。   映画のラスト・シーンは、ようやくSEALを退役したクリス・カイ ルが、家族とともに心身不調の克服に向かって一歩踏み出すところで終 わ る。 ・・・ か に 見 え た。 二 人 の 子 供 と 明 る く 会 話 し た 後 で、 一 人 で 車 に乗って外出するカットで映画は終わるが、クリス・カイルが向かった のは「ラフクリーク・ロッジ」だった。その後に何が起こったかについ て短いサブタイトルが出る。クリス・カイルがすでに亡くなっているこ とを知っている観客に対してこれ以上の説明は必要ないであろう。   映 画 が 終 わ る と 同 時 に、 甦 っ た ク リ ス・ カ イ ル の 生 命 も 終 わ る。 『 ア メリカン・スナイパー』は映像によって死者を甦らせる映画である。そ の た め に は、 映 像 に よ っ て 構 築 さ れ た 世 界 が 現 実 の 世 界 の 再 現 物 語 で あ っ て は な ら な い。 死 者 を 甦 ら せ る に は、 映 画 が 現 実 の 再 現 で は な く、 現 実 の 生 と は 別 の も う ひ と つ の 生 を 表 現 し な け れ ば な ら な い。 そ れ は フィルム撮影によっては実現できない。映像をその対象から切り離して しまうデジタル撮影によってのみ、死者の再生が可能なのである。   『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 と 同 様、 エ ン デ ィ ン グ・ ロ ー ル で は 実 際 の 出 来 事が写し出される。テキサス州の「カウボーイズ・スタジアム」で行な われたクリス・カイルの追悼式の模様を記録した映像である。スタジア ムに向かう国道の脇には合衆国の国旗を掲げ最敬礼で葬列を見送る人々 が見える。それは現実のクリス・カイルの葬儀であると同時にいま映画 のなかに甦ったクリス・カイルの葬儀でもある。これらは同じ人間の二

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柴    田    健    志 九二 求めている。ところが、今まさに語られている物語が事実に一致するか どうかを客観的に確かめることはできない。現在の人間には資料や遺跡 からこの一致を推測することしかできない。近い過去であれば、遺品や 生き残りの証言が推測の有効な手がかりになる。実際、ホロコーストが 真理であることを証明する最も強力な証拠は生き残った人々の証言だっ た。スピルバーグの 『シンドラーのリスト』 (1993) のエンディング ・ ロールにもシンドラーに助けられたユダヤ人たちが出てくる。それがこ の物語に信憑性を与えている。   『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 や『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 で 語 ら れ る の は きわめて近い過去の事実である。クリス・カイルを除けば関係者はほぼ 存命でありインタビューも可能である。事実、トム・ハンクスはサレン バーガー機長を演じるにあたって本人から長時間話をきいている。しか し、じつはここに落とし穴がある。本当に何が起こったかはそれに立ち 会った人間でなければ知ることはできない。いくら詳しい報告も結局は 伝聞である。しかし、その出来事があまりに近い過去である場合、何が 起こったかを客観的に知ることができるという錯覚が生じてしまう。歴 史が取扱うような遠い過去であれば、人間は物語が真理かどうかに対し て慎重になる。ところが昨日の出来事に対してそれと同じ慎重さを持つ ことは人間には難しい。   何が起こったかを客観的に知ることができたという前提にたってしま えば、あとはそれをいかに忠実に再現するかだけが問題になる。本物に 似ていることが重要になるわけである。こうして再現物語という発想が 成立する。しかし、本物に似ていることは映画のリアリティーにとって は 致 命 的 で あ る。 本 物 以 上 に リ ア ル な 存 在 は い な い の だ か ら。 だ か ら、 も 強 く 要 求 し て い る か に 見 え る 」( Burgoyne 2003 :223 )。 た し か に そ う だ。 『 タ イ タ ニ ッ ク 』( 1 9 9 7) の よ う な エ ン タ ー テ イ メ ン ト で す ら、 そのストーリーが事実と一致しているかどうかは見ていて気になる。ま して政治的な出来事であればなおさらそれが重要になるはずである。オ リバー・ストーンの作品を語るときにはつねにこの論点に立ち返る必要 がある。 『プラトーン』 (1986)ではベトナム戦争という事実が、 『J F K 』( 1 9 9 1) で は ケ ネ デ ィ 暗 殺 と い う 事 実 が、 真 理 と い う 論 点 か ら問題にされる。いや、誰よりもオリバー・ストーン自身がそれを争点 に し て 映 画 を 撮 っ て い る の で あ る。 「 こ の 映 画( 『 J F K 』) は ケ ネ デ ィ 大統領を殺すための共謀についての映画であるだけでなく、われわれが 自 分 た ち の 最 近 の 歴 史 を ど う 見 る か に つ い て の 映 画 な の で す 」( Toplin & Stone 2000 :53 )。   『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 や『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 は 普 通 の 意 味 で は歴史とはいえないかもしれない。しかし、これらの作品が実話物であ る以上、 歴史物と同じ論点が問題になるはずである。では、 『アメリカン ・ スナイパー』や『ハドソン川の奇跡』は事実に一致する物語なのであろ うか。 この問いかけに対して簡単に答えることはできない。 というのは、 一致するかどうかを誰も確かめることができないからである。なぜ確か めることができないのか。クリス・カイルが従軍したイラク戦争も、サ レンバーガー機長が敢行したハドソン川への不時着水もすでに過去の出 来事でありもう存在してしない。したがって、物語が事実に一致するか どうかを客観的に確かめることはじつは不可能なのである。この点は歴 史にはつねにつきまとっている原理的な問題である。歴史を知ろうとす るひとは、過去に何が起こったかに関心をもっている。つまり、真理を

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デジタル映画論 九三 映 画 館 の 客 席 か ら 見 る こ と が で き る よ う に な る。 「 イ ー ス ト ウ ッ ド の 奇 跡」というべきであろう。この「奇跡」を可能にした技術がデジタル撮 影だった。デジタル撮影によってブラッドリー・クーパーやトム・ハン クスの映像は現実のブラッドリー・クーパーやトム・ハンクスから切り 離されてたんなるイメージとなった。観客が出会うのはクリス・カイル や サ レ ン バ ー ガ ー 機 長 に 似 た 役 者 で は な く、 イ メ ー ジ の な か に し か 存 在しないもうひとりのクリス・カイルであり、もうひとりのサレンバー ガー機長なのである。現実との類似によって成立する再現物語のリアリ ティーとはまったく種類の違うリアリティーがここに生まれた。それを 「 デ ジ タ ル・ リ ア リ テ ィ ー」 と 呼 ぶ こ と が で き そ う で あ る。 で は、 こ の 新しいリアリティーはそれを見る観客にとっていったいどんなふうに経 験されるのであろうか。

  

 

記憶の創作

  ある出来事を実際に経験したひとはそれについて個人的な記憶をもっ ている。逆に、人間は自分が経験しなかったことを記憶して想起するこ とはできない。しかし、イーストウッドの二作品を見ることの意味をよ く考えてみるためには、記憶と想起にかんするこのような通念を疑って みる必要がある。そのために、個人的な記憶とは別次元の記憶を視野に 入れてみなければならない。国民的記憶という次元である。多くの人間 が実際には経験しなかった出来事についての記憶を共有している。それ が国民的記憶である。従来の歴史学では、個人的な記憶と歴史が対立関 再 現 物 語 に よ っ て 映 画 が 真 の リ ア リ テ ィ ー に 到 達 す る こ と は で き な い。 どんなリアルな映画よりも現実の方がリアルなのだから。   『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 や『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 の リ ア リ テ ィ ー はこういう二級のリアリティーではない。むしろニュース映像が写し出 す現実よりリアルである。では、これらの作品は現実の出来事に対して どんな関係に立っているのであろうか。映画が現実の出来事に似ている ためには現実の出来事を客観的に知る必要がある。もちろんそれは不可 能なことである。しかし、イーストウッドはまったくのフィクションを 撮 っ た の で は な い。 こ れ ら の 作 品 は あ く ま で 現 実 に 起 こ っ た こ と の 物 語である。ただし、現実に起こったことを再現する物語ではなく、現実 に起こったことをもういちど起こすことで成立する物語なのである。過 去に何が起こったか外から見ている限りそれを本当に知ることはできな い。それなら、それを内からもういちどたどり直すしかない。すぐれた 歴史家が歴史を語るときには、資料を緻密に駆使した上でこのような高 度 に 精 神 的 な 作 業 が お こ な わ れ て い る は ず で あ る。 映 画 作 家 ク リ ン ト・ イーストウッドも歴史家と同じ作業をやっている。 だからリアルである。 クリス・カイルを演じたブラッドリー・クーパーも、サレンバーガー機 長を演じたトム ・ ハンクスも、本人そっくりにメイクしている。しかし、 これらは本物に似るためのメイクではない。むしろブラッドリー・クー パーやトム・ハンクスが彼ら自身でなくなるためのメイクである。彼ら の仕事はクリス・カイルやサレンバーガー機長が生きた生を近似的に再 現するのではなく、それらと同等の生をもう一度生き直すことにあった からである。   こうして、当事者以外には誰も経験することのできなかった出来事が

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柴    田    健    志 九四 ア リ テ ィ ー ズ 』( 1 9 8 9) の よ う な 作 品 が ベ ト ナ ム 戦 争 に つ い て の 国 民的記憶を形成してきたと論じている。ドキュメントとフィクションは 本質的に区別されていない。国民的記憶の形成の過程ではこれらを厳格 に区別することには意味がないからである。さらに事態を複雑にするの は、ドキュメントがフィクションに取り込まれる場合である。ザプルー ダ ー・ フ ィ ル ム は『 J F K 』 で く り 返 し 引 用 さ れ た。 ま た、 ロ ド ニ ー・ キ ン グ の ビ デ オ も ス パ イ ク・ リ ー の『 マ ル コ ム X 』( 1 9 9 2) に 使 用 されている。ドキュメントとフィクションの境界が曖昧になっている。   ということは、国民的記憶がつねに歴史を忠実に反映しているとは限 らないということになるであろう。しかし、それはどんな記憶について もいえることである。言い換えれば「記憶がどの程度までオリジナルな 経 験 に「 忠 実 」 で あ る か は 確 定 し 難 い 」( Sturken 1997 :7 と い う こ と になる。なぜなら、経験したことは想起できるが、その逆はかならずし も成り立たないからである。ようするに、想起できるから間違いなく経 験したのだとはいえない。人間は自分が経験しなかったことの記憶を創 作し、それを真理とみなしていることがありうる。フロイトのいう「想 起の捏造」 (フロイト 2010 :346 ) である。わざと 「捏造」 するのではく、 それが「捏造」であることに本人が気づいていないという点が重要であ る。   この点は現代の心理学ではすでに実証されている。誤記憶にかんする 研究は1970年代までさかのぼることができる。例えば、この分野の 第一人者であるエリザベス・ロフタスの有名な実験がある。ワシントン 大学の学生150人からなる被験者は自動車事故のビデオテープを見せ られ、それについて質問を受けるが、質問にはビデオの内容に一致しな 係に置かれてきた。しかし、個人的な記憶でも歴史でもない第三の記憶 が注目されている。その典型的なものが国民的記憶である。歴史が真理 を語るものとみなされているのと対照的に、国民的記憶はかならずしも 真理であるとは限らない。そういう曖昧な記憶が形成される過程を明ら かにすることが歴史学のひとつのトレンドとなっている。   この研究トレンドにおいて表象メディアの役割が重要な研究対象にな るのは当然である。例えば、マリタ・スターケンは、テレビや映画のイ メージがアメリカ人の国民的記憶を形成する重要なテクノロジーとして 機能しているという点に着目し、チャレンジャー号の爆発のニュース映 像、1992年のロサンゼルス暴動のきっかけとなった警官によるロド ニー・キング殴打事件が撮影されたビデオ映像等がいかにして集団的な 記 憶 を 形 成 し た か を 分 析 し て い る。 こ の 著 作 が 書 か れ た の は 9 ・ 1 1 以 前だからいわゆる「同時多発テロ」の映像は言及されていない。   これらの分析の出発点になっている出来事がある。いうまでもなくケ ネディ暗殺である。ケネディ暗殺という出来事は、たまたま遊説を見物 に き た 民 間 人 で あ る ザ プ ル ー ダ ー 氏 の 8 ミ リ で 撮 影 さ れ た。 ケ ネ デ ィ 暗 殺 と い え ば、 誰 も が こ の フ ィ ル ム 映 像( 通 称 ザ プ ル ー ダ ー・ フ ィ ル ム)のことを考えるであろう。というより、このフィルム映像なしにケ ネ デ ィ 暗 殺 を 考 え る こ と は お そ ら く 誰 に も で き な い。 こ の 意 味 で「 ザ プ ル ー ダ ー・ フ ィ ル ム は ケ ネ デ ィ 暗 殺 と い う 出 来 事 そ の も の に な っ た 」 ( Sturken 1997 :29 )。 こ れ が 表 象 メ デ ィ ア に よ っ て 国 民 的 記 憶 が 生 み 出 される過程のモデルである。   こ れ ら は 現 実 に 起 き た こ と が 撮 影 さ れ た 映 像 で あ る。 し か し な が ら、 スターケンはまったく同じ視点から 『プラトーン』 (1986) や『カジュ

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デジタル映画論 九五 さ れ て い る。 映 画 を 見 る と い う こ と が こ の よ う な 過 程 の モ デ ル で あ る。 しかし、自分が経験していないことがどうして自分の記憶の一部になっ てしまうのであろうか。たしかに、普通に考えればこんなことは起こり えない。この疑問に答えるのが映画というモデルである。   映画を見るということは、情動(アフェクト)をともなった身体レベ ルの経験である。ランズバーグもこの点を重視している。映画は現実そ のものではなくその間接的な表象である。しかし、この表象には現実と 共 通 す る 点 が あ る。 映 画 は 身 体 的 な 経 験 で あ る と い う 点 で あ る。 「 あ る 出来事を実際に生きるという経験とその出来事の間接的な表象を経験す ることのあいだには、明白で質的な違いがある。しかしながら、ひとが 間接的な表象に触れたときには身体が反応している。間接的な表象でさ え、それが眼の前にあれば身体が動かされ、触れられ、アフェクトされ る。間接的な表象の経験そのものは生きられている。すなわちそれはリ アルな経験なのだ」 ( Landsberg 2015 :21-22 )。   ランズバーグの主張を敷衍すればだいたい次のようなことになる。自 分が経験したことはイメージとして想起される。しかも、トラウマにな るような怖い経験は情動(アフェクト)をともなって想起される。見る という経験はたんなる視覚経験ではなく身体レベルの経験でもあるのだ から。映画を見るということもまた身体レベルでの経験である。だから 映画を見るときには本物を見るときと同じような情動(アフェクト)が ともなう。映画を見るということは、ただ見るだけというわけにはいか ない。映画が想起されるときも同じである。それは本当に経験された出 来事と同じように情動 (アフェクト) をともなって想起される。すると、 今自分が想起していることが自分自身の経験に由来するものなのか、そ いものが故意に含まれている。例えば「田舎道を走っていて納屋の前を 通りすぎたとき、白いスポーツカーはどのくらいのスピードで走ってい ましたか」 (実際には「納屋」はなかった) 。1週間後、被験者は別の質 問を受ける。 「あなたは納屋を見ましたか」 。この質問に対して、被験者 の17%は「はい」と回答している。自分が見なかったものを想起した のである。 目撃者の証言がしばしば事実と食い違うのはこのためである。 ヒ ッ チ コ ッ ク の『 間 違 え ら れ た 男 』( 1 9 5 6) の よ う に、 警 察 は 善 良 な市民の証言を信用するだろう。それ以上に、目撃者自身が自分の誤記 憶を信じているのである。真犯人が現れるまでは自分の記憶にかんする 目撃者の確信は揺るがない。こういう心理学的な知見を考慮すれば、国 民的記憶の形成への関与という点でドキュメントとフィクションを区別 しないスターケンの論理はべつに奇異なものとはいえないであろう。   このような歴史学の新しいトレンドのなかで注目すべきなのはアリソ ン・ランズバーグの提案である。ランズバーグは、映画に代表される現 代 の 大 衆 文 化 に よ っ て、 自 分 が 経 験 し な か っ た こ と を 記 憶 し 想 起 す る と い う こ と が そ の 人 の 現 在 の 思 想 や 行 動 に 大 き な 影 響 を 及 ぼ し て い る と 主 張 し、 経 験 に 由 来 し な い 記 憶 を「 補 綴 記 憶( prosthetic memory )」 ( Landsberg 2004 :2)と呼ぶことを提案している。   「 補 綴 記 憶 」 の「 補 綴 」 と は、 本 来 の 用 法 か ら す る と 義 手 や 義 足 の よ うにもともと自分のものではない手足が自分の身体に接合すされること で、まるで自分の手足のように機能することを意味する。だから「補綴 記憶」という概念の意味は次のように理解できる。自分が経験していな い出来事についての記憶を自分の経験に由来する記憶に接合して、自分 の記憶の一部としてしまう過程が「補綴記憶」という概念によって意味

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柴    田    健    志 九六 ちろん悪影響もある。映画史上もっとも悪影響を及ぼしたのはグリフィ ス の『 國 民 の 創 生 』( 1 9 1 5) で あ ろ う。 町 山 智 浩 が 詳 細 に 論 じ て い る よ う に( 町 山 2016 :10-37 )、 こ の 作 品 は 白 人 に よ る 黒 人 差 別 を 黒 人 の 脅威に対する白人の自衛行為として描くことによって、当時すでに会員 の激減していたクー・クラックス・クランの勢力を復活させ、黒人差別 を存続させる強力な原動力となった。映画はこういう危険をはじめから もっていた。問題は『國民の創生』が取扱った「南北戦争」という素材 で あ る。 と い う の も、 「 ア メ リ カ で は 南 北 戦 争( Civil War ) が 歴 史 と し て で は な く 神 話 と し て 想 起 さ れ て い る 」( Lang 1994 :3 と い う 文 脈 が 存在したからである。人々は 「南北戦争」 について 「神話」 を語っていた。 だから、グリフィスが白人向けメロドラマ仕立ての「神話」を語ったと ころで誰も文句をつけるはずがない。悪役にされたのは黒人だった。   こ れ に 比 べ て、 『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 や『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 が 観 客 に 与 え う る 影 響 は き わ め て 道 徳 的 な も の で あ る。 『 ア メ リ カ ン・ スナイパー』は精神的に深刻な状態に陥った夫が妻の協力をえて新しい 生 に 踏 み 出 そ う と す る 物 語 で あ り、 『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 は 災 害 時 に 責 任ある行動をした人間の道徳的な葛藤を描いた物語である。しかし、こ ういう側面からの評価はさしあたり問題ではない。どんな映画もそれを 見た人間の「補綴記憶」となりうる。映画を見ることはその人間の将来 にとって決して小さくない影響をもつのである。問題はデジタル撮影さ れた実話物がどんな「補綴記憶」となりうるかという点にある。   これらの作品は現実に起こったことを再現する物語ではなく、現実に 起こったことをもういちど起こすことで成立する物語である。また、観 客が出会うのはクリス・カイルやサレンバーガー機長に似た役者ではな れとも映画で見たものなのか、 知的には区別できても情動(アフェクト) の次元では区別できないであろう。このような身体的な過程を経ること で、映画を見ることは自分が経験したわけではない出来事を自分の「記 憶 の ア ー カ イ ブ 」( Landsberg 2004 :19 ) に つ け 加 え る こ と だ と い う こ とになる。   以上の論理を受け容れるなら、映画で見た出来事は観客自身の記憶の 一 部 に な る と 結 論 づ け ら れ る。 「 映 画 を 見 た 」 と い う 事 実 を 記 憶 し て い るという意味ではなく、映画のなかで描かれた出来事が自分の過去とな るということである。ところで、ベルクソンが主張していたように、人 間 の 現 在 の 思 想 や 行 動 に は そ の 人 の 過 去 が 影 響 を 及 ぼ し て い る。 「 わ れ われとは何か。われわれの性格とは何か。われわれが生まれてこのかた 生 き て き た 歴 史 が 凝 縮 し た も の 以 外 の 何 も の で も な い。 (・・・) わ れ われが何かを望み、意志し、行動するとき、われわれは自分の過去全体 を 用 い て い る 」( Bergson 2009 :5 )。 つ ま り、 現 在 と は そ の 人 の 過 去 全 体が集約された一点である。この点に着目すれば、映画を見るというこ とは人間の現在のあり方を決定する重要なモメントであるということに な る。 こ こ か ら 次 の よ う な 問 い か け が 導 か れ る。 「 個 々 人 は 彼 ら が 経 験 し な か っ た 出 来 事 の 記 憶 に よ っ て ど ん な 影 響 を 及 ぼ さ れ る の だ ろ う か 」 ( Landsberg 2004 :1 )。 映 画 を 見 る と い う こ と の 意 味 を こ の 点 を 焦 点 に して考えてみようとランズバーグは提案しているのである。   そこで、 この「補綴記憶」という概念に依拠することで『アメリカン ・ スナイパー』や『ハドソン川の奇跡』のような作品を見ることの意味を もういちど考えて直してみることができる。歴史物や実話物というジャ ンルの映画を見ることは事実にかんする理解に影響を及ぼす。だからも

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デジタル映画論 九七 れに対して、イーストウッドのこれらの作品は映画そのものが記憶とし て存在している。ということは、観客は映画を見ながら自分が経験しな かったことを想起するという不思議な経験をしていることになる。映画 は観客が見ることを前提に作られている。ということは、この作品は観 客がそれを見る前から「補綴記憶」となっているのである。これらの作 品が再現物語と最も異なっているのはこの点であろう。過去を再現する 場合、時制を過去形にすることはできない。われわれから見れば過去の 出来事でも、それが起こったときは現在なのだから。イーストウッドの 作品も同じように現在形で語られているが、見ているとまるで過去形で 語られているかのようである。 『ミリオンダラー ・ ベイビー』 (2004) のような過去形で語るボイス・オーバーがないだけである。これらは現 在において想起されている過去の物語である。観客は現実の世界ですで に起こったことを映画館のなかで想起している。こんな経験は今まで誰 も経験したことのなかったことである。これらの作品の映画史的な意味 はまさにこの点にあると思われる。    文献 ・ Bazin, André 2002, Qu

’est-ce que le Cinema?, Les Édition du Cerf

Bergson, Henri 2009, L

’Évolution Créatrice, PUF

・ Burgoyne, Robert 2003, “Memory, History and Digital Imagery in Contemporary Film,” Paul Grainge(ed.) Memory and Popular

Film, Manchester UP, pp.220-236

・ フ ロ イ ト 2010 「 遮 蔽 想 起 に つ い て 」 角 田 京 子 訳『 フ ロ イ ト 全 集 3』 岩波書店 く、イメージのなかにしか存在しないもうひとりのクリス・カイルであ り、もうひとりのサレンバーガー機長である。これらについてはすでに 述 べ た と お り で あ る。 し か し、 「 現 実 に 起 こ っ た こ と を も う い ち ど 起 こ す」ということは文字通りには不可能である。むしろ、現実に起こった ことを想起する物語であるといい直したほうが正確である。デジタル撮 影とは現実の対象から切り離された純粋なイメージを作り出すという点 で記憶と同じ存在なのである。だから『アメリカン・スナイパー』のク リス・カイルは想起されたクリス・カイルであり、 『ハドソン川の奇跡』 のサレンバーガー機長は想起されたサレンバーガー機長である。フロイ トがいうように、想起とは過去の忠実な再現ではなく解釈だと考えられ る。 「 我 々 の 幼 年 期 想 起 は 人 生 の 最 初 の 年 月 を 見 せ て く れ る が、 そ の 年 月がそうであったようにではなくて、その年月が後になって呼び覚まさ れた時にそう見えたようになのである」 (フロイト 2010 :351 )。だから、 『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 も『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 も イ ー ス ト ウ ッ ド の解釈なのだが、その点は重大な問題にはならない。想起が意図せざる 解釈であるということは、多かれ少なかれ誰の想起にもあてはまること なのだから。

 

おわりに

  こう考え直すと、これらの作品は映画を見るという経験にまったく新 しい次元をつけ加えたということになる。ランズバーグは、映画で見た 物語が観客自身の記憶の一部となっていく現象を 「補綴記憶」 と呼んだ。 つまり、映画を見ている時点では、映画はまだ記憶になっていない。こ

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柴    田    健    志 九八 ・ ク リ ス・ カ イ ル 2015 『 ア メ リ カ ン・ ス ナ イ パ ー』 田 口 俊 樹 他 訳、 早 川書房 ・ Landsberg, Alison 2004, Prosthetic Memory: the Transformation of American Remembrance in the Age of Mass Culture, Columbia UP ・ Landsberg, Alison 2009, “Memory, Empathy, and the Politics of Id en ti fica tio n,” In ter na tion al Jo ur na l o f P oli tic s, C ult ur e, an d

Society, vol.22 no.2, pp.221-229

・ La nd sb er g, A lis on 2 01 5, E ng ag in g th e P as t: M as s C ult ur e an d th e

Production of Historical Knowledge, Columbia UP

Lang, Robert 1994, The Birth of a Nation, Rutgers Film in Print

・ Loftus, Elizabeth 1975, “Leading Questions and the Eyewitness Report,” Cognitive Psychology 7, pp.560-572 ・町山智浩 2016 『最も危険なアメリカ映画 「國民の創生」 から 「バック ・ トゥ・ザ・フューチャー」まで』集英社インターナショナル ・ チ ェ ス リ ー・ サ レ ン バ ー ガ ー 2011 『 ハ ド ソ ン 川 の 奇 跡 』 十 亀 洋 訳、 静山社文庫 ・ Sturken, Marita 1997, Tangled Memory: the Vietnam War, The Aids Epidemic, and the Politics of Remembering, California UP 〔邦 訳 マ リ タ・ ス タ ー ケ ン 2004 『 ア メ リ カ と い う 記 憶   ベ ト ナ ム 戦 争、エイズ、記念碑的表象』岩崎稔 他訳、未来社〕 ・ Toplin, Robert Brent & Stone Oliver 2000, Oliver Stone ’s USA: Film,

参照

関連したドキュメント

脚本した映画『0.5 ミリ』が 2014 年公開。第 39 回報知映画賞作品賞、第 69 回毎日映画コンクー ル脚本賞、第 36 回ヨコハマ映画祭監督賞、第 24

とである。内乱が落ち着き,ひとつの国としての統合がすすんだアメリカ社会

シーリング材の 部分消滅 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁の漏水跡が多い.

・新宿区 〔武家地〕46 遺跡が該当する。行元寺跡が 16~19 世紀代に出土している。若宮町遺跡、 市谷左内町遺跡の 2 遺跡が 17 世紀代に、新小川町遺跡、尾張藩上屋敷跡遺跡など 15

 しかしながら,地に落ちたとはいえ,東アジアの「奇跡」的成長は,発展 途上国のなかでは突出しており,そこでの国家

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