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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2010年 1月号

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Academic year: 2018

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■ 1.なぜムーラン(風車小屋)なのか ■  今回は、パリ北方のモンマルトルを舞台にした 絵画と映画を取り上げてみたい。絵画の方は印象 派を代表する画家オーギュスト=ルノワールの《ム ーラン・ド・ラ・ギャレット》、映画の方はその次 男で映画監督のジャン=ルノワールが1889年のム ーラン・ルージュ開設までの物語を映像化した 『フレンチ・カンカン』である。両者に共通する具 象物はモンマルトルの丘にかつて多数存在したと いわれるムーランである。風が強くないと風車は 回らない。パリ随一の高さ(約130m)を誇るこの 丘は、中世以来粉挽きのできる風車小屋地帯とし て人々の生活を利してきた場所であり、殉教者を 祀る聖地でもあった。この丘に仕事の減った粉挽 きのドブレ親子が四角で平たい屋根の木造の納屋 を緑色に塗り替えてダンスホールに改築し、オー ケストラ用のひな檀を設けて開設したのが1837年。 その後このホールはさらなる改装を加えながら自 家製の小麦粉でつくった扁平な焼き菓子=ギャレ ットを名物とし、飲んで踊れるスポットとしてパ リっ子の人気を博した。日曜・祭日の天気の良い 日には庭も開放され、人々は樹陰で真夜中まで踊 り続けることができた。人間讃歌・生命讃歌を木 洩れ日の色彩のシンフォニーによって描いた「印 象派絵画の金字塔」(NHK『オルセー美術館2』) ともされる《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》は、 その賑わいの一瞬を描きとめたものである。この 賑わいの楽しさと喜びを貴族やブルジョワの人々 にもあじわってもらおうと1889年に“赤い風車小 屋”を広告塔にして開設されたのが、ジャン監督 が『フレンチ・カンカン』で取り上げた「ムーラ ン・ルージュ」である。父の絵画を思わせる鮮や かで色彩感あふれる映像は歓楽街・観光地と化し たモンマルトルの姿を描いたものといえるだろう。

■ 2.ルノワールと印象派の形成 ■

 フランス中部の町リモージュ生まれで、一家の 転住に伴ってパリの下町で幼少期を過ごすことに なったルノワール少年は13歳で親の薦めもあり、 セーヴル焼きの絵付け工房に入門、持ち前の器用 さと熱心さでめきめきと腕を上げて、カップにマ リー =アントワネットの肖像を描く作業まで託さ れるほどになった。しかし、産業革命の波はこの 工房にも及び、磁器絵付けの機械化が進む中、ル ノワールも仕事を失い、別の仕事で穴埋めをした。 この頃、度々訪れたルーヴル美術館で学んだブー シェやワトー、フラゴナールらロココ派画家の装 飾的な絵画技法は後の彼の画風にも影響すること になった。ルノワールにとって最初の挫折である 失業は結果的に彼の人生の大きな転機となり、新 たに通い出した美術学校でモネやシスレー、バー ジルらに出会い、いわゆる“印象派”グループ を形成することになるのである。ナポレオン3世 の指示でオスマン知事の下、1853年に始まったパ リ大改造とともに少年期・青年期を過ごした「印 象派」の画家たちが近代化されたパリとそこに住 む人々を描くのは当然の成り行きであるが、彼ら は日々変化していく街の空気や街を照らし出す光 に目を見張った。一方でパリの近代化の裏返しと しての人々の田園志向にも彼らは関心を示し、そ のような中で人々に意識された「自然」を彼らは 描いた。しかし、彼らが「印象派」として本格的 な活動を開始するのは1870年の普仏戦争の敗北と 1871年のパリ=コミューンによる混乱の鎮静化を 待たねばならなかった。その関係で延び延びにな っていた第1回のグループ展もさらなる歴史の荒 波の中で開催された。アメリカに端を発する1873 年の大不況は彼らを支援してきた画商デュランに も及び、ルノワールらは自分たちで会社をつくり、 絵画の展示から販売までを自らやらなければなら なくなった。そうしてようやく1874年、写真家ナ

ダールのアトリエを借りて展覧会が開かれるに至 ったのである。この展覧会の正式名称が第1回グ ループ展「画家、彫刻家、版画家などによる有限 会社の展覧会」と称されたのはこのような事情に よる。展覧会はごうごうたる非難を浴び、その中 で発された揶揄の言葉から「印象派」という名称 が生まれたことは周知の事実である。

■ 3.《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》の周辺 ■

このあと1875年の作品販売会、そして1876年の 第2回印象派展へと彼らの活動は続くが、十分な 成果をあげたとはいえないものであった。ただ、 ルノワールに関していえば、この間、数名の熱心 なパトロンを得るようになり、ルノワールはその 収入でモンマルトルのコルトー街に庭つきのアト リエを借りることができた。このアトリエを根城 にして戸外スケッチを繰り返し完成された作品の 一つが《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》なので ある。この作品が印象派絵画の代表作の一つとさ れるのは何といってもこぼれ落ちる木洩れ日の斑 模様を巧みに描いて、ここに集う人々の幸福感を 際だたせていることだろう。構図としては、左方 斜め上半分が人々の踊る様子、右方斜め下半分が 立って歓談したり座って語り合う人々の、二つの 場面から成っており、この中に自分の友人やモデ ルを配置して印象派の基本的制作姿勢である「見 たままの直接描写」をルノワールが試みたものと みられている。名前が判明している友人やモデル を拾ってみよう。画面左側、黒いフェルト帽の男 はキューバ人画家カルデナス、その相方の女性は 通称マルゴ、その左右で踊る男性たちも、特定は できないが、画家仲間のシルヴェクスとコルディ、 友人で役人のレストリンゲスやジャーナリストの ロートらである。相方の女性たちは、根拠は不明 だが、NHKの人気番組『迷宮美術館』によると 「流行のタンバル帽子のプレゼント」を条件に集 めた娘たちといわれている。画面中央下、ベンチ に座る女性はエステル、その右肩に手を置いてい るのが姉のジャンヌで二人ともモンマルトルで “お針子”をしている素人モデルである。ふだん お針子や洗濯女として働いている若い娘にとって モデルの仕事は比較的割の良い仕事だったのであ る。右横で彼女たちに話しかけている男性は画家

仲間のラミ、さらにその向かい側でシルクハット を被りタバコを口に加えようとしているのが同じ く画家のグヌート、その横で何かメモをしている のが親友のリヴィエールである。当時、身持ちの 良い女性の必需品とされた帽子をここに登場する 娘たちはほとんど被っていないが、ルノワールは あくまで庶民の活気あふれる女性たちをここでは 描きたかったからではないかといわれている。ラ ミとリヴィエールの座るテーブルの前にある飲み 物は当時人気があったザクロのグレナディン・シ ロップと比定されている。野外ホールの奥にはオ ーケストラが楽曲を奏でており、踊りの様子から ウィンナ・ワルツではないかともいわれている。 日曜・祭日のこのホールは夕方、ガス灯が煌々と 輝いて、昼とはまた趣の違うダンスの光景がみら れたに違いない(同じ頃、アメリカのエディソン は白熱電灯を発明しており、時代は電気の時代へ と進みつつあった)。キューバ人画家と踊るマル ゴのドレスは後ろをやや高くしたバッスルスタイ ルで、日本のいわゆる鹿鳴館時代に貴婦人たちが 着たドレスもこれと同様のものであった。《ムー ラン・ド・ラ・ギャレット》はルノワールを取り 巻く仲間たちの“青春讃歌”であり、集団肖像画 的意図もあったのではないかと思われる。

■ 4.映画シーンの教材化 ■

 まず冒頭の“女王ローラ”の踊りが、当時のヨ ーロッパでみられた異国趣味=オリエンタリズム を感じさせる場面であることを生徒には指摘した い。税の強制執行に来た執達吏に対して、このロ ーラが愛人で興行主でもあったダングラールのた めに述べた言葉が奮っている。「ブーランジェ将 軍と知り合いなのよ」。いうまでもなく、初期の フランス第3共和政政府を揺さぶったあのクーデ タ未遂事件の主役である。ムーラン・ルージュが 開園するのが1889年、『フレンチ・カンカン』は その前年の準備段階を描いたものと考えられるか ら、ちょうどフランス中にブーランジェ・ブーム が沸き起こっている頃であり、ジャン監督もこの 辺の時代性をよく考えて映画シーンをつくってい ることがわかる。生徒にこの一言の意味を問うこ とは当時の時代状況を理解させる良質の教材とな りうるだろう。

世 界 史 芸 術 鑑 定 団

12

世界史のしおり 2010年1月号付録

父と子のモンマルトル組曲

―絵画《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》

(1876年、オルセー美術館)

   映画『フレンチ・カンカン』

(1954年、フランス)

をつなぐもの―

参照

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