年~1940 年にベネディクトとボアズの間で交わされた書簡選集 及びボアズの死を悼んでの追悼記事

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全文

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1923 年∼1940 年にベネディクトとボアズの間で交わされた

書簡選集及びボアズの死を悼んでの追悼記事

Correspondence between Ruth Benedict and Franz Boas

between 1923 and 1940, and the Obituary for Boas by Ruth Benedict:

Translation and Annotation

菊 地 敦 子

福 井 七 子

Atsuko Kikuchi

Nanako Fukui

This section of the that we are translating includes selected letters exchanged by Ruth Benedict and Franz Boas between 1923 and 1940. Franz Boas died a couple of years later on December 21, 1942. In his letters to Benedict, he mentions

the state of his health frequently and we can see in Benedict’s writing that she is very concerned for him. What we notice most clearly from their correspondence, however, is how much Boas relied on Benedict to attend to the daily chores of the Anthropology Department at Columbia University.

キーワード

ボアズ、ベネディクト、書簡、コロンビア大学、 (文化の型)、ボアズの死

 本稿は文化人類学者マーガレット・ミードが友人であり、師でもあったルース・ベネディク トの死後 10 年を経た 1958 年に、ベネディクトが遺した論文、書簡、日記などをミードの視点 によって纏め、1959年に出版した (Houghton Miffl in Company, Boston) の一部を翻訳したものである。

 書簡 Selections from the Correspondence between Ruth Benedict and Franz Boas: 1923 1940、(pp.399 418)「1923 年 1940 年にフランツ・ボアズとルース・ベネディクトとの間に交 わされた書簡選集」はミードも書いているように、「ここに遺された書簡はボアズの手書きの書 簡を収めたもので、ベネディクトとボアズの人間関係がどのようなものであった」(

(2)

(pp.419 422)「フランツ・ボアズの死を悼む」は雑誌 156 号(1943 年 1 月 2 日) にボアズの死に対する哀惜を表わしたものである。ミードによればこの記事はボアズの社会的 責任感の強さが強調されたものとなっている。( 1959: 419)

 書簡選集から伺い知ることができるのは、まずボアズとベネディクトの信頼関係であろう。 1920 年代後半にはベネディクトはコロンビア大学の人類学部のなかで大きな影響力を持つよう になっていた。ボアズは 1930 年サバティカルをとり、その秋を利用してカナダのブリティッシ ュ・コロンビアのクワキュートル・インディアンについてのフィールド・ワークを行なってい る。留守中、ボアズは学部長宛に、「私の留守中、ルース・F・ベネディクト博士が人類学のあ らゆる管理上の仕事一切を引き受ける」許可を願う旨の手紙を書いている。(カフリー:1993: 377)殊に 1930 年以降の手紙からわかるように、ボアズに代わって学部における実際的な仕事 や実権をベネディクトに委譲し始めていた。1931 年にはベネディクトの努力がようやく報われ、 彼女はコロンビア大学文化人類学部の助教授になった。

 ボアズはベネディクトに学部の経理的な面、また学生の奨学金など細かな指示をしていた。 手紙を通して要求し、詳細にわたる仕事を任すことができるベネディクトは数少ない信頼でき る右腕であった。またベネディクトはそうした細々としたボアズの願いに応えていた。  一方、ベネディクトはボアズに主として自分自身の学問的な進捗状況を伝えるとともに、論 文や著書を原稿段階で送り、コメントを求めている。この書簡集のなかで最も重要なもののひ とつは、1932 年 8 月 20 日にベネディクトがいつも休暇の時は滞在していた親戚の農場から出 した手紙であろう。少し誇らしげにボアズに書いている。「他に何をやっていたとお思いです か。文化統合に関する私の本の原稿を書いていたのです。もう 60,000 字も書いたんです。…… 本は 100,000 字くらいのものにしたいと思っていたのです。……」1934 年に出版されたこの本 『文化の型』こそが彼女の名前を表舞台に登場させ、文化とパーソナリテ ィー研究の書として長く影響を及ぼすことなった。いつもは冷静・沈着なベネディクトが心躍 らせている様子がこの手紙から読み取れる。ちなみに『文化の型』( )は出 版以来、時代の流れの折々で第一、そして第二の波となった。1946 年には 25 セントのペーパ ー・バックの本として出版され、「この国ではじめての真の人類学のベストセラーの一つ」(カ フリー;1993:310)となった。

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「よみがえるルース・ベネディクト―紛争解決・文化・日中関係―」と題して国際シンポジウ ムを開催した。今考えるとケント氏はベネディクトの思想や考え方を真の意味で理解していた 数少ない研究者の一人であったに違いないのではないかと思われる。ケント氏はいつも「私は まだベネディクトおばさんの研究をやっているの」と言っていた。志半ばで亡くなった彼女の ことが本当に惜しまれる。

 サバティカルから戻ったボアズは再び自分の職責を果たすことを予定していたが、1931 年 12 月に心臓を患ったことで、重病となった。結果としてベネディクトが事実上学部運営を継続す ることとなった。ボアズは 72 歳になっていた。ボアズが正式に大学を退いたのは 1936 年であ った。しかし彼は引退後も執筆活動を続けた。1939 年 12 月 20 日の手紙でわかるように、彼の 心臓は弱っていた。ボアズはベネディクトにだけは自分の不調の様子は語っている。この書簡 集で彼が死について語っている部分は 2 箇所ある。ベネディクトには彼の気弱な部分も見せる ことができたのではないだろうか。しかし、ボアズは他の人には話さないようにと書いている。 ボアズが死亡したのは 1942 年 12 月 21 日であった。ボアズの死後、ベネディクトはそれまでの 経緯から考えて、当然コロンビア大学の中心的な立場になるだろうと考えていたであろう。だ が大学は、そしてボアズも含めて結婚している女性にそれほど甘くはなかったようである。ボ アズ亡き後、ベネディクトは人類学部のチェアを巡って、思いもかけなかった猛烈な大学政治 に巻き込まれることになる。

 本文の翻訳に際しては、現在差別的だと考えられている語がある。しかし、ここでは本文の 通り訳することにしたことをお断りするものである。

References

Benedict, Ruth. “Japanese Befavior Patterns”『日本人の行動パターン』共著 福井七子、ポーリン・ ケント、山折哲雄、NHK 出版、1997 年

Caff rey, Margaret. Texas: University of Texas Press, 1989. M・カフリー『さまよえる人 ルース・ベネディクト』福井七子訳、関西大学出版部、1993 年 Mead, Margaret. , New York: Houghton Miffl ins

Company Boston、1959

シンポジウム報告書 よみがえるルース・ベネディクト―紛争解決・文化・日中関係―2008 年 12 月 6 日、龍谷大学アフラシア平和開発研究センター、研究シリーズ 6

* * * * *

1923 年∼1940 年にボアズとベネディクトとの間に交わされた書簡選集

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欠けるものである。しかし、ここに集録されたベネディクトとのやりとりは彼が手書きしたも ので、ベネディクトの手紙も同じように手書きであり、そのやりとりは二人の関係の深さと文 体をよく示すものである。二人の関係の基本となっていたのは、文化人類学の学問、そして文 化人類学の学生のニーズと世界全体に対する思いであった。(訳者注:この部分はマーガレッ ト・ミードによって書かれたものである。)

ニューハンプシャーのウエスト・アルトンにて 1923 年 9 月 16 日

親愛 博⼠

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会い 本当 楽

〔ルース・フルトン・ベネディクトからドイツにいるフランツ・ボアズへ〕 1929 年 6 月 12 日

親愛 ・

(5)

思い 馳 い 家族 離 い 家族 死 知 受 い

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先⽣ い い 空虚 感 ー ・ い

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社会学部 ⼈ 彼 ⽂化⼈類学部 移籍 ⼀般的 い 考え い

夏移籍 準備 始 う い 移 い

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気 悪 い 漠然

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会う

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改訂 送 確 Twin Brothers 天地創造 予⾔

⾔え う 思い ー 原稿 回 際 私 ー 書い ー ・

ー 添え ー 原稿 戻 時 対 何

い 気 ⼊ い いい

(6)

〔フランツ・ボアズからルース・フルトン・ベネディクトへ〕 1929 年 8 月 21 日、ミッテンウォルドにて

親愛 ー

 8 ⽉ 6 ⽇付 あ ⼿紙 送 便 頂い う

私 1 ヶ⽉近 旅 い 7 ⽉ 26 ⽇ 発 あ

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話 私⽣活 話 ・ ・ ⽒

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⿊ ⾚ ⾦ 同 う 格好 学⽣ 年寄 通 歩い い

姿 想像 ⼀般的 若者 態度 興味 惹 同

暴⼒的 国家主義者 極端 ⺠族主義者 組織⽴ い い中間層

声 聞 え 悲 い 理解 あ あ 語

直訳過 悲 い う あ いう 経済政策 宗教

地元 政策 様々 党 出現 過激 思想 党 あ 若者 強い規律

党 求 教え い 服従 ⽤意 あ 基本的 ⼆ あ

い対 考え あ ⼀ 社会 整備 必要 いう考え う⼀ 統⼀ 国家

対 熱望 ⼈ 政治的事柄 統⼀性 求 ⾃分 考え 統⼀性

求 い …… うい 考え 楽 過 い ー ー

旅⾏ 川下 ー 散歩

⾏ ・ 従妹 会い ⾏ ⽂化⼈類学 実験室 ⾒

⾏ ・ 別 従姉妹 会い ⾏

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(7)

天気 恵 6 年前 ー ー 2)

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  数週間 何 い 気分 い 帰 時間 あ

⾊々

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い点 ⾒ う 歌 集 始 い い う 冬 間 彼 向 う 滞

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号 出航 存知

  ・ ⾔ い ー 何 連絡 あ う

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1930 年 10 月 21 日 バンクーバー、ブリティッシュ・コロンビアにて

 旅 最初 ⼀⾏程 終わ 明⽇ 2 時 蒸気船 乗 う い 23 ⽇ ⽊曜

⽇ 夜 ー ・ ー ー 到着 何 待 い 楽 いい

旅 友 多 求 ⾃然 政治 興味 い ⼭ 横切 素晴 い旅

光 美 8 年前 ・ ⼀緒 ⽴ 寄 ー 湖

氷河 い旅 思い出 美 い⾃然 堪能 うあ う

⼆度 訪 い う

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1 ⽉ 24 ⽇ 出発 い

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出 ⼤学 経理部⻑ 銀⾏ 500 ⼩切⼿ 送 い いい

送 う 聞い い

  ・ ー 次 夏 準備 い う ⾯倒 あ い 彼

⼥ ー 資料 読 必要 あ

 来週 楽 い ⻑い間 い い ー ・ワー 正⾯

(8)

⼀⾯的

 ⾊々 う い 時々⼿紙 教え う い

 皆 伝え い ー ⼿紙 書 う ⾔ い い 愚

彼⼥ 住所 置い

〔フランツ・ボアズからべネディクトへ〕 1930 年 11 月 9 日 フォート・ルーパートにて

 私 ⽣活 ⼤分馴染 ⼥友達

編 ⽅ 習 い 今 彼⼥ 綾取 教わ い 綾取 形 何

百 あ 彼⼥ 村 うわ 仕⼊ ⾔葉 彼⼥

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会話 ⼀部 わ ⼈ 早 少 わ

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⾦ 持 い ⽅ いい 思い 両⽅ 額 ⼀ ⼩切⼿

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歌 ー 関係 厄介 問題 歌 形 少 4 あ

⾊々 あ ー ⼿ ⼊ い

今 ⽂芸的 ⼀致 い 違い

⾒ 昨⽇ 服喪 祭礼 あ ⾷ 悲 歌 歌い ー 歌 悲

払い除 ⼀⼈ ・ い あ ー ・

私 研究室 ⼊ い ⾔語 訳者注:⻄海岸北⻄部 ⾔語系

統 語彙集 中 語彙 あ う 探 出 い

い う ⾒ 書留郵便 送 い

語彙 改訂 わ 彼 6 ⼈

残 い い う

(9)

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1930 年 11 月 13 日 ブリティッシュ・コロンビア、ビーバー・ハーバー郵便局私書箱

 あ ー 要望 受 ⼀時 ⼝座番号 19 150 引 出

ー 送 う 今⽇電報 送 最 い対処⽅法 思い

いう ⼝座 ⼗分 ⾦ ⼊ い ー ー・ ー ー

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・ 受 ⽂化適応 材料 い 得 表⾯上 貧 い

漁村 ⼈々 暮 深層 村 ⽣活 ⽣ 続 い 素晴 い 現

代 制度 発展 関 興味深い ー 増え あ 部族 椅

⼦ 並 ⽅ 慣習 100 年 い い 思い 彼 現在 経済的

⽣活 側⾯ 関 ー 少 収集 い ⽑布 ⼿仕事

学 綾取 形 集 い 綾取 分布 う⾯⽩い 私 ⾊々

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⼈ 個別 様式 い 問題 い 研

究 資料 得 いい 3) ⾳楽 特徴的

あ 夏 歌 嘆 歌 愛 歌 冬 歌 あ 歌 問題

い 間 解 明 い う ⾔語 頭 抱え う 問題 あ い

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い ⽅⾔ 混 混 ⽅ ⼈ 異

思い ⽂化適応 問題 あ い ⼗分 情報 得 願

い 天気 ⾬ 降 い 寒い い ⼤体⾬ 私

伝え い

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1930 年 11 月 24 日 ビーバー・ハーバー郵便局、ポート・ハーディーにて

  ・ 11 ⽉ 14 ⽇付 ⼿紙 い ー ・ 聞い い

今 彼⼥ 訳者注: ・ 助 失うわ い ⼤学 1,000

あ 彼⼥ ⾔語学 仕事 次 2 ヶ⽉ 間 彼⼥ 100

(10)

ー 辞書 仕事 進 い 彼 作 派⽣語 語幹

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書 う 願い い 無理 資料 集 接尾辞 -ka

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い 〜 ka いう あ 種 観察 あ 概念 〜 う 経験 い 意味

い 思い 問題 語幹 k k 終わ k 接尾辞 いう

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 …昨⽇ 宴会 …乾燥 鮭 ⿂油 出 時 12 離 村

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他 ⼈ ー 乗 ⾏ い 帰 わ い 私 ⾏

仕事 ー 決 い 中断

あ ・ 動 関 資料 い 集 違 ⼈ 集

い 何⼈ ⼥性 ⼈⽣ 話 集 い 特 結婚 話 綾取

形 50 以上集 彼⼥ ⼀緒 い 気持 いい⼈

 みなさんによろしくお伝えください。

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1930 年 11 月 26 日 ビーバー・ハーバー郵便局、ポート・ハーディー、

ブリティッシュ・コロンビアにて

  郵便 原稿 必要 い部分 送 ワ ー 原稿 送

⽬ 通 私 帰 放 う 出発前 ー

書い う伝え い 彼 伝え う ー

・ ⾔ い 去年 例 ・ ⾔語

Com-on-Research in Indian Languages 出費報告 ー ・ 作成 う

⾔ い 私 経理報告 送 う 時間 迫 い う 事前

ー ー 送 う ⾔ い ... 頼

あ 思 い ー 直接書

  う い い う ⼥性 受 ⼊ う

い 私 多 ⼀⼈ 会 話 い 機会 あ

(11)

い う 踊 う 綾取 関 う 並

演説 少 気 い う 書 記 いい わ

演説者 あ 早 時折わ 程度 普通 会話

話 物語 語 ⼤分 わ

多 最後 不明確 発⾳ ⼈ 多い い 聞 取

ー 社 ー ・ ・ ー 1,227 儲

聞 いい い

う 論⽂ ⼿ ⼊ ⾔ い ー

う い 次 ⼿紙 書 時間 あ 彼⼥ 書 う

〔ルース・ベネディクトからフランツ・ボアズへ〕 1931 年 6 月 28 日 ニューメキシコ、アルバカーキーにて

 戻 結局 来 夜⾏列⾞ 乗 翌朝 乗

⾏ ⼀番いい いう結論

  先⽣ い ⼤陸 横断 い 時 ⽐ 夏 仕事4)

頃 私 外 出 い思い い い 過 事 ー ー

楽 い

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増 い 暑い⽇ 午前中泳 ⼣⽅外 座 いい ー ⾏

い時 暑い い ⽇ ⼭ 登 ー ⾏

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 親戚 若い⼈ 知 合い ⾦髪 背 ⾼ 全員 湧

出 う 陽気 持 い い ⼼底楽 い う う ⼈

⾃分 ⾎縁関係 あ 不思議 ...

  終わ ー ー 戻 ー 旅⾏

計画 う ー ⾏ いい 先⽣ 帰宅

時 ⼦ 全員 元気 い 祈念 先⽣ い ⻄部

(12)

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1931 年 8 月 1 日

ハンブルグにて

  起 受 ⾔葉 ⾔い尽 い

5) 何 起 想像 訪問者 殺 いう事

態 今⽇ う 引 起 考え あ あ

⼀緒 い ⼈ ⼼配 あ 危険 ⽬ あう いう あ

予定 完全 う ⼼配 い 詳細 聞い 来週 終わ

何 わ い 思い あ 何 起 聞 い あ ⼀緒 ⼈

⼤丈夫 知 い

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1931 年 8 月 14 日

ジェナにて

  来 ワ ・M・ 経験 い 語 い

彼 い 時 通常通 う 原稿 ー

ー 送 あ ー 送 う ⾔ 悲劇 あ 仕事 中

断 い い 聞 い 悲劇 頭 離 ……

 あ 元気 情熱 絶 い 願 い 時折⼿紙 い あ

考え 不安

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1931 年 8 月 27 日

ジェナにて

  着い い頃 ー ・ ワー 6) 代⾦ 3,005.90

通貨 払 い い いう旨 あ 書 状況 銀⾏

監査 ⼊ う 請求書 ⽀払い 良い う 何 対

10% 利息 差 引 私個⼈ ⼩切⼿ 彼 250 渡 残⾼ 電信 う

ワ ⾔ 状況 請求書 合 い 保証

問題 解決 い い う

 夏 う 過 私 返事 受 取 思い

ー ー 悲劇 関 最初 報告書 送 本当 い う

起 後 う 若い⼥ ⼦ 現地 送 う ⼥ ⼦ 現

(13)

紙 受 取 帰 彼 会わ

  ⼿紙 ー ー 送 あ ー い 時 届

う わ い

  静 姉妹 姪 伴 来 い ・ ・ 資料

⼤分⽚付 彼 未亡⼈ 娘 ⼀緒 来 娘 医者

い  ⼼ 込

〔ルース・ベネディクトからフランツ・ボアズへ〕 1932 年 8 月 20 日 ニューヨーク、ノーウィッチのシャタック農場にて

 …9 ⽉ 1 ⽇ い ー ・ 私 呼 出 い限 ⺟

快適 過 い

 来週 ー ・ 例 本 中 ⾃分 章7) 先⽣ 章

取 い い いう 私 章 ー 時間 あ う ー 次第先

⽣ 送

 他 何 い 思い ⽂化統合 関 私 本 原稿8) 60,000 語 書い

去年 春 書 ⾔ い 覚え い う 書

い い 思い 取 掛 い 話

本 100,000 語 い い 思 い 考え 今 進捗具合 あ

何 い う 思い 最初 考え い 少 ⻑ う 筆

遅 1,000 語書 時間 !

  う ⼀学期 ⽅法論 授業 担当 準備 来⽉ ー ー

い 時 取 掛 う 思 い 先⽣ 散歩 話 聞 う 思い

私 2 歩 い 思い

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1933 年 7 月 13 日 コーンウェル・ブリッジ、コネティカットにて

私 思 あ う 私 あ 他 ⼈ あ 過⼤評

価 い 思い 私 ⾃分 性格 ⾃分 短所 知 尽 い 特 慎 いわ

あ 何 価値あ 思 ⾃分 ⽅ 通 “Nur die Lumpen

sind bescheiden, Wackre freuen sich der Tat” 謙虚 い⼈間 勇敢 ⼈ ⾃分

(14)

私 滞在 い 間 い い 何 い ⽇向

眠 う う 時 本 読 い ー

う い

⼼ 込

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1934 年 8 月 23 日 コーンウェル・ブリッジ、コネティカットにて

  神話9) 前書

 献⾝的 ⼦ 話 似 う 話 実際 状況 あ 得 状況 使 空想

話 説明 少 無理 あ う 思い 特定 ー

⾒ 同 う 形 展開 ー 様式 ⽂化 ー

わ 話 影響 与え い 思い え ー 悪い継⺟

⾒ ー 対 献⾝的 ⼦ ー う

ー ⽐較的 最後 仲良 典型

  楽 い時間 過 う 9 ⽉ 会い う 原稿 返

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1935 年 8 月 26 日 地方無料料金配達 3(Rural Free Delivery 3)

リッジフィールド、コネティカットにて

 悪い⽇ ー ー 帰 い 先週 終わ 返 い

 あ 忌々 い本10) 書い 章11) 考古学

史 部分 ⻑ 考古学的 ⾔い難い⺠族学的 ー 混 い 彼 章 読

あ 我慢 ー ー 章 読 始 ー ー “Economic life” ⽣活

経済的 側⾯ う扱 い 章 原稿 受 取 時 う少 他

⼊ う ⾔ 覚え い 読 全部 あ い

植物栽培 歴史 動物 飼い 歴史 経済 い 書 い い

わ 資産 い ⾔及 ⾦ 貿易 関 省略 議論

書 い ー!彼⼥ 章 受 取 い 何 忌々

い 狩 ⾷物採集 関 部分 除い ー ー 書い 部分 発明

⼊ ⾷物 栽培 動物 家畜化 いう特別 章 う 思い ―

(15)

  ー 50 送 話 ⾬ 降 置

去 う

 学⽣ ー基⾦ 関 報告書 送 満⾜

え いい ― 将来 何 起 わ い

 私 ⼀番上 姉 亡 知 思い 姉 苦

胃 仕⽅ あ う 81 歳 ⼈⽣ 与え

些細 楽 い⼒ ⼈ 元気 時 ⾳楽 歴史 好

姉 亡 2 週間前 妹 毎⽇姉 歴史 読 あ い

姉 ⽣ い 思い ・ 同 う ⼈⽣ 愛 楽

い 私 ⾃分 終わ 望 ⼈⽣ 終わ 悔い あ

  ー ー 論⽂12) 10 ⽉号 掲載

ー・ 教え い 同 号 答え 書 何

 今度 ⽉曜⽇ ー ー ・ 戻 9 ⽉ ー ー 帰 思い

あ 会 ⾊々聞 う 楽 い

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1938 年 8 月 29 日 コーンウオール・ブリッジ、コネチカットにて

 牧場 静 快適 時 過 思い 7 ⽉ 10 ⽇ 来 1 ⽇

⽊曜⽇ 町 ⽅ 戻 夏 私 あ あ

6 週間 あ 調⼦ あ 今 気分 い

疲 う あ 仕事 急 年 感 訳者注:

⻑⼥ 彼⼥ 家族 11 ⽇ 帰 息⼦ 家 待 い わ あ

独⽴ 暮 彼 いい 思い 若者 誘惑

様々 巻 込 い いい ― ⼿紙 彼⼥

⾏ う う到着 い 彼⼥ ー・ ー 訳者

注: 州 ・ ー・ ー 族 ⽂法13) 最後 校正

読 終え ― Ge eral A t r l y14) 本 仕上

7 ⽉ 10 ⽇以前 読 終え ―私 南 仲間 何 連絡

あ 彼 何 聞い い 11 ⽉ ・

・ ⼀⼈ 到着 予定 あ 彼 関 何通 ⼿紙 書

い い う い う願 い ー 公務員 職 就 9

(16)

喜 い ⼤学 将来性 あ 何 あ

う 急死 い 聞い い 思い ー 亡

私 彼 書い い 原稿 何 明 い

ー 伝え いい ういう ー あ ⼿紙 い

〔フランツ・ボアズからサバティカルでカリフォルニアにいる ルース・ベネディクトへ〕

1939 年 10 月 24 日 グラントウッド、ニュージャージーにて

 9 ⽉ 26 ⽇付 あ ⼿紙 受 取 う 前 返事

書 最近 筆不精 い 世界情勢 い 私 う思 い

知 い 世界情勢 い あ 考え ⽌

ー ー 駒 い 明 ー ⻄ ー

⼤量出⾎ 死 望 い わ い ー

⾃分 権⼒ 増 い 共産主義 い いう点 私

関 ⾔え 私 偽 旗 掲 航海 完全 関わ

い 軍事物資 貿易 禁 無知 ⾒

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(17)

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(18)

〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1939 年 11 月 17 日 グラントウッド、ニュージャージーにて

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〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1939 年 12 月 20 日 グラントウッド、ニュージャージーにて

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〔ルース・ベネディクトからフランツ・ボアズへ〕 1939 年 12 月 26 日 カリフォルニア、パサディナにて

(19)

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〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1940 年 7 月 19 日 コネティカット、コーンウォール・ブリッジにて

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〔フランツ・ボアズからルース・ベネディクトへ〕 1940 年 8 月 30 日 コネティカット、コーンウォール・ブリッジにて

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* * * * *

フランツ・ボアズの死を悼む

 フランツ・ボアズは偉大な学者だった。56 年間アメリカに住んでいたが、彼をアメリカの偉 大な科学者としてのみ評価する人はいない。彼はドイツでユダヤ人の両親のもとに生まれ、ド イツで教育を受けた。成人してからアメリカで暮らし、文化人類学者として彼は世界全域を自 分の研究領域とした。アメリカとドイツ両国に対して情熱的な愛国心をもっており、各国の最 良の状態は、他のすべての国が良い状態にあるときにのみ達成できると信じていた。彼は膨大 な知識をもっていた科学者で、民族の違いを誰よりもよく理解していた。違いがあっても、は っきりと目を見開き、知的な理解さえあれば、世界が協力して公平な取引をすることが可能だ と確信していた。

(21)

とはなかった。

 そして彼は科学者として、また教室以外の場面で重要な責任ある仕事をした。世界情勢に対 する自己の態度や行動が自分の科学的知識に影響されないはずがないと考えていた。自我を介 入させることなく辛抱強く行なった研究から学んだことは、日常の問題を解決するのに役に立 った。研究成果を社会に応用することは、研究の詳細を出版するのと同じ位重要な科学の責任 だと彼は考えていた。彼は未開と都会の子どもの形質人類学に関する膨大なデータを集めて分 析した。しかしその業績によって、ナチスのアーリア族に関する「北欧のばかげた理論」やア メリカの人種差別を公に非難する免罪とはならなかった。クワキュートル族の考えや行動に関 する惜しみない研究とその記録を通して、彼は様々な形態の生活がそこで育つ人々の深い忠誠 心や喜びを引き出すことができることを学んだ。他の文化に関する彼の研究も彼の考えを補強 するものとなり、彼は文化の相違は不可欠なもので、価値あるものであることを確信した。そ して文化の違いを受け入れることができるような世界でなければならないと信じていた。  そのため彼は世界の仲裁人になろうとしているアメリカ人に対して異論を唱えた。1916 年に 戦争に対する気運が高まっている頃、「アメリカの政治制度が一番で、それはアメリカだけでな く、全人類にとっても一番よいもので、またアメリカ人の倫理観、宗教観そして生活基準もす ばらしい」といったアメリカ人の考え方を非難した。そのようなアメリカ人は、「人類に幸福を もたらす役割を果たそうとし」、「自分たちが崇拝するものを他の人種は嫌悪する」ということ を見逃してしまう。「ドイツ人、オーストリア人、ロシア人、その他どの国の人も自分たちの問 題は自分たちで解決すればいいと思うし、私たちの制度の利点を彼らが受け入れなければなら ない」理由は全くないと思うと彼は言っていた。

 彼はひとつだけ条件をつけた。「その国が他の国の独立性を尊重しさえすれば」というのが条 件だった。そういったことができない人、つまり相手を借金のカタに奴隷にしたりするなど、 人間を見下すようなこと、あるいはある国の人たちに対する侮辱、人種差別のような傲慢さを ボアズは、じわじわと社会全体をダメにするような傷口だと考え、それを直さなければ政治体 制全体を破壊することになると考えていた。彼の診断によると、今日の社会の病はまさにそれ だと思っていた。彼が攻撃するのはその点であり、国家主義や軍国主義や資本主義ではなかっ た。人間の尊厳、あるいは集団の先天的な気高さを彼は信じており、侮辱されたり、人に支配 されたりしては、その尊厳が実現されないと考えていた。「狭い考えを持った無礼な白人といる より自分と同じ興味や理想をもった共感できる中国人、マレー人、黒人といる方が安らぐ」と 彼は言っていた。

(22)

性に対して敬意を示すということは、人々の移住によって、自国の独立性が脅かされた場合、 自国の独立性を維持する権利があるということ」である。市民権を奪うあらゆるものに対して 彼は反対した。学校で知的自由を制限するような状況すべてに抗議した。40 年前から彼はアメ リカと極東との文化理解、そしてアメリカとラテン・アメリカとの文化理解のために働いてい た。近代の様々な発明や近代商業により、ますます世界は小さくなってきている。そしてその ため幾つかの国々は他の国をますます脅かすようになってきている。そういった国々の人々は、 他の国の生活様式を知らないために、それらの国に対して無関心になったり、冷淡になったり すると彼は考えていた。

 1902 年に彼は極東の文化を研究するための教育機関を設立する計画をたてた。そこではアジ ア系の人々の研究をするだけではなく、アジア系の人々に関する情報発信を考えていた。当時 彼が言っていたのは、「極東における私たちの未来をあきらかにするには、まず私たちが持って いるもので、極東の人が価値を見出しているものは何か、そして彼らが達成したもののうちで 何が私たちに価値あるものであるかを知らねばならない」。この教育機関の設立を達成するにあ たってボアズは、ジェイコブ・H・シフとクレーランス・H・マッケイを含む人たちを集めた。 一人の文化人類学者故バートホールド・ローファーは何年間か中国に送られた。しかしアメリ カはフランツ・ボアズが望むような教育機関を維持できるような状態にはまだ至ってはいなか った。残念ながらこの教育機関のための資金は出資されなかった。

 1908 年にボアズはインターナショナル・スクール・オブ・メキシコというアメリカ全土の文 化協力と研究を行なうセンターを設立しようとした。彼は個人でそのための資金集めをし、そ こで一年間研究をし、教鞭をとった。しかしまたしても、このような総合的な分野を扱うセン ターを支持してくれるような社会はまだ実現されていなかった。亡くなる一週間前にボアズは 国際文化理解を促進する試みのこれらの失敗について語っている。「ある程度のことはなされた が、遅きに失したため、私たちはハンディを負うことになった。」

 開戦直前になっても彼は抵抗することをあきらめなかった。ここ数年間、ボアズは自分の手 紙や記事がドイツの地下組織に使われていたのを誇りに思い、彼らを助けるため時間や労力を 惜しまなかった。ドイツにいる 40 歳以上の世代の人たちのなかには、民主主義をまだ支持して いる人たちがたくさんいることを彼は信じており、戦争が終われば連合国はこういった人たち と協力できると考えていた。そしてこの人たちと絶えず連絡を取り合うことにより、ナチス・ ドイツの国外に力強い同士がいることを彼らに知らせねばならないと思っていた。

(23)

1936 年にコロンビア大学の文化人類学科の学科長を辞してから、ボアズは自分の理想を追求す る時間ができたと感じていた。そして私たちは今日もその理想のために戦い続けている。彼は 偉大な人で、我々は、まさに今この時に彼のような人を必要としているのである。

* 156 号、1 月 2 日(1943 年)15 ∼ 16 ページ。ここに書かれたフランツ・ボアズに対す る敬意は、彼がもっていた社会的責任感を強調しているが、1931 年に出版された

32 号(1931 年)278 ∼ 280 ページに記載された American Association for the Advancement of Science の会長としてのフランツ・ボアズ教授を讃えた記事と比較することができる。後者では科学 者としてのフランツ・ボアズに重点が置かれたものになっている。ボアズの貢献に対する評価の違い は、これら二つの記事が現れるまでの 12 年の間に、ベネディクトがボアズの貢献をどのように見て いたのかという変遷の過程を表わしている。

1) 、ベネディクトは 1925 年から 1939 年まで編集者であった。

2) 1925 年 10 月に脊髄性小児麻痺で亡くなったボアズの娘

3) このフィルムは喪失してしまった。1932 年 2 月 20 日付の手紙でベネディクトはそのフィルムが無 くなってしまった状況を次のように説明している。アーヴィング・ラーナーがプロジェクターを借り てバニー(訳者注:ルース・ブンツェル)のガテマラのフィルムをパパ・フランツに見せるためグラ ンドウッドに持って行きました。その時、間違えてパパ・フランツのクワキュートルのフィルムを持 って行ってしまいました。月曜日にグラディスが車でプロジェクターとバニーのフィルムとパパ・フ ランツのフィルムを持って帰りました。一人でオフィスまで運びたくなかったので、月曜日と火曜 日、車に置きっぱなしにしたのですが、火曜日の夜、車に置いてあったものが車ごとすべて無くなっ てしまったのです。すでに一週間経ちましたが、何の手がかりもありません。パパ・フランツは自分 のフィルムがなくなったことにひどく落胆しています。リズムを研究するのに、それを頼りにしてい たからです。「去年の冬のフィールド・ワークはすべて無に帰した」とまで言っています。

4) メスカレロ・アパッチ保護地区で行われた民族学的フィールド・ワークのトレーニング・ディレク ターとしての役割。このトレーニングはニューメキシコのサンタフェにある文化人類学研究所の主催 で行われた。

5) ヘンリエッタ・シュメーラーはフィールド・ワーカーでアパッチの保護地区で殺された。 6) Arthur H. フォー セッ ト の 著 書 ,

, ニューヨーク、1931 年

7) ボアズ編集による の‘Religion’の章。ボストン及びニューヨーク、ヒース 出版、1938 年、627 ∼ 665 ページ

8) 『文化の型』

9) (2 巻本 , University Contributions to Anthropology, 21 号、コロンビア大学出 版、1935)この前書きはこの本の 226 ∼ 245 ページ

10) 、フランツ・ボアズ編

11) “Prehistoric Archaeology” 前掲書、146 ∼ 237 ページ

(24)

13) グラディス・ライカードの論文 “Coeur d’Alene” , 第 3 部、フランツ・ボアズ編集、ニューヨーク、オーガスティン出版、1933 1938, 517 ∼ 707 ページ 14) 1938 年出版

15) ビュエル・クエイン、若い人類学者で 2 回目のフィールドワークの折に自殺。 16) 1940 年出版

17) Wilhelm Schmidt, , trans. S. A. Sieber, ニューヨー ク、フォーチュニー出版、1939

18) The Natural History of War 未出版の原稿。 の 369 382 ページ参照。こ の手紙で述べられているベネディクトの議論は以下である。外婚制をとっている原始社会の部族同士 の戦闘というのは、「家族の暮らしを根元から断ち切ってしまうもので、二つの部落に忠誠心をもつ 女性の存在が無視されている。もし彼女が夫の町に居たなら、自分の兄の首がとられたことを勝利の 踊りで祝わなければならない。もし自分の父親の部落にいれば、自分の夫の首がとられたことを勝利 の踊りで祝わなければならない。」

19) , ニューヨーク、マクミラン社、1940 年

20) ボアズは 1936 年に正式に退職し、名誉教授になった。

21) , ニューヨーク、マクミラン社、1940 年

22) フランツ・ボアズは公の場でもこの立場をとり続けた。Albert Deutsch の“Boaz Says He’ll Vote for FDR because…,”「ボアズは F. D. ルーズベルトに投票するといいます。なぜなら……」PM(新 聞名)1940 年 10 月 25 日参照

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参照

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