9 月 8 日
カッシーラー『人間』第 9 章 「芸術」
担当 重松 大
1 シンボルとしての芸術その 1:現実の発見(pp.292-321)
● 言語と芸術は、二つの対立する「極」、客観的な「極」と主観的な「極」の間をつ ねに往復している。(p.294)
● pp.294-297 模倣説
● pp.297-303 表出説
● pp.303-321 シンボルとしての芸術――現実の発見
● それは真の発見であり、純粋の発見である。芸術家は、科学者が事実または自然法 則の発見者であるのと同様に、自然の形象の発見者である。(p.305)
2 シンボルとしての芸術その 2:感覚経験的シンボル(pp.321-334)
● 芸術家は物および彼らの精神生活の「内面的意味」を感ずるだけではいけない。彼 の感情を外面化しなければならない。芸術的想像の最高であり、また最も特徴的な 力は、このような外面化の行為に現われる。外面化とは、見得るもの、または触り うるものの形をとって具象化することである……(pp.326-327)
● 芸術は実にシンボルである。しかし、芸術のシンボルは、内在的な意味に解するべ きであって、超越的意味に解すべきものではない。(p.333)
● それは我々の感覚経験それ自身の、若干の基本的構造要素に――線、デザインに、 また、建築、音楽の携帯に――求められるべきである。これらの要素は、いわば、 宇宙にあまねく存在するものである。それらは、あらゆる神秘から解放され、公然 と姿を示し、隠蔽されていないのである。それらは見うる、聞きうる、接触しうる ものである。(p.333)
3 シンボルとしての芸術その 3:種差(pp.334-358)
● pp.334-345 芸術の心理学説
● pp.345-350 遊戯説からの説明
● pp.346-347 子どもは物をもって遊ぶが、芸術家は形象、線およびデザイン、リズム およびメロディーをもって遊ぶ……造形的形式の新世界が発見されるのである
→子どもの遊びと芸術の両者における変形について
○ 遊び:物それ自体の変態。環境中の現実のものを、他の可能なるものと交換す るにすぎない
○ 芸術:物から形象への変態。「物」の固い素材を、彼の想像のるつぼのなかで 1
9 月 8 日
溶解し、詩的、音楽的または造形的形式の新世界を発見
● pp.350-353 「遠ざける」こと
● pp.353-358 シンボル形式としての芸術の種差
● 芸術は、これをシンボル的言語と定義することができる。しかし、この定義は、共 通の(包括的な)類を与えるだけであり、種差(特異性)を示すものではない。 (p.353)
● 芸術家にとって、これら一切の経験的関係、他の事実との比較ならびに因果関係の 探求は、すべて存在しないのである。我々の普通の経験的概念は、粗雑にいうなら ば、それが実際的興味に関するか、理論的興味に関するかによって、二つの種類に 分けられる。一つの種類は、物の使用および「それは何のためか」という問に関係 し、他は、物の原因および「どこからか」という問に関係する。しかし、芸術の世 界に入るとき、我々はこのような問をすべて忘れねばならない。存在、自然、物の 経験的性質の背後に、我々は突如それらの形象を発見する。(p.355)
● 芸術においては、我々はその直接の「現われ」に没頭し、この「現われ」を十二分 に、その豊富で多様な姿のままに味わうのである。芸術の場合には、我々は法則の 同一性を問題とせず、直観の多様性と多彩性を問題とする。芸術をも知識だという ことはできようが、芸術は特殊で独特の知識である。(pp.356-357)
● 知覚心理学は、二つの眼を用いなければ、すなわち両眼視でなくては、空間の三次 元(奥行)の認知は可能でないだろうということを教えた。人間経験の深さも、同 じ意味において、我々の見る角度を変え得ること、我々が現実に対する見解を変更 し得ることに、依存しているのである。 rerum videre formas (物の形相をみること ) は rerum cognoscere causas (物の原因を知ること)と同様に重要で、欠くことので きない任務である。(p.357)
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