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HalfReal Introduction

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(2)
(3)

まえがき

005

Chapter 1

序論

009

Chapter 2

ビデオゲームと古典的ゲームモデル

037

Chapter 3

ルール

076

Chapter 4

フィクション

155

Chapter 5

ルールとフィクション

201

Chapter 6

結び

236

参考文献

243

索引

254

訳者あとがき

264

(4)

「」 引用符、引用符内引用符内引用符

『』 書名・作品名、引用符内引用符

〔〕 訳者による補足(ただし、意訳部分における追加・省略はとくに表示していない。)

[] 原文にある補足・省略

〈〉 文章の構造がわかりづらい場合に語句のまとまりを表すために使う。 必要と判断した場合は原語を()内に示した。

段落分けは、読みやすさと理解しやすさを重視して適宜修正を加えた。訳文で加えた改行には「 _ 」を記した。 邦訳がある文献が引用されている場合も、本文との整合性を考えて、原則すべて松永の訳にしてある。 脚注の記号の意味は以下の通り。

†:原注

‡:訳注

※:編注

▶:原文では本文内に記載されている注釈、補足等。

(5)

まえがき

‡1. 3 × 3 のマスに交互に自分のしるしを置いていき、縦横ななめのいずれか一列を先に並べたほうが勝つ伝統的 なゲーム。いわゆる○×ゲームのこと。英語圏では「tic-tac-toe」と呼ばれる。

 事の起こりを話そう。幼いころ、退屈な夏の午後に、友達と三目並べ‡1を延々やり 続けていたときのこと。なかなかのいい勝負だったので、わたしたちは勝敗の記録を しっかりつけていた。しかし、そうこうするうちに、驚いたことに勝負が毎回引き分 けに終わるようになってしまった。わたしたちは、いつのまにか三目並べを完璧にプ レイできるレベルにまで到達していたのだ。三目並べをすっかり遊び尽くしてしまっ たわたしたちは、今度はその戦法について話し合った。たとえば、もし相手が初手で まんなかに置いたなら、自分は必ず角っこに置かないといけない、といった具合に。  それからしばらく経って 11 歳のとき、わたしは、初期のコンピュータ端末でレー シングゲームを作った。これは、大量の「X」でレーストラックを描いたうえで、そ のトラックから外れないようにしながらできるだけ早くカーソルを周回させる(それ ぞれのラップタイムはデジタル時計で計る)という遊びだった。もちろん、壁(X) にぶつからないように車(カーソル)を慎重に動かさなければならない。このゲーム の見た目は、こんなふうだった(図 P.1)。

図 P.1 ビデオゲームらしきもの

(6)

さて、わたしが作ったものはなんだったのか。それは多くの点から言ってゲームだ。 しかし、それがビデオゲーム4 4 4 4 4 4かどうかについては、そうであるとも言えるし、そうで ないとも言える。それはたしかにモニタ画面に表示されていた。また、端末の能力は お粗末であったにせよ、それはたしかにコンピュータ上で4 4デザインされたゲームでは あった。しかし、それはふつうの意味でのビデオゲームではなかった。というのも、 そのゲームのルールを維持(uphold)していたのは、コンピュータではなくわたしだっ たからだ。

 わたしはまた、そのゲームのルールを成立させることに加えて、想像するという行 為もおこなっていた。つまり、わたしは、黒い画面上に並ぶ緑色の文字をなにか別の もの(レーストラックや車)として想像したり、カーソルの動きを車の動きとして想 像したりしていたわけだ。ルールの維持も想像行為も、とくに利口さは必要なかった。 わたしは当時すでに何百もの(あるいはもしかすると何千もの)ゲームに触れていた ので、ルールと目標を持ったゲームを成り立たせるのに困難はなかった。また、長方 形のカーソル■をなにか別のもの(たとえば車)として想像することは、子どもにとっ ては簡単なことだ。わたしはまた、少しばかりのビデオゲームを遊んでみたこともあっ た。それは心底楽しいものだった。そして、コンピュータとゲームのあいだにはなに か根本的なつながりがあるのを感じた。わたしは、そのつながりを探究してみたいと 本気で考えるようになった。

 この本ができるまでには、考えの紆余曲折がいろいろあった。とはいえ、この本の 基本的な問題設定は、子どものころの三目並べの勝負や、23 年くらいまえのお粗末 な自作ゲームのなかにも、はっきりと見いだせる。それは次のような問題設定だ。あ るものがビデオゲームであるとはどういうことなのか。どういう場合にビデオゲーム は楽しいものになるのか。ゲームのルールはどのような仕方で機能するのか、またルー ルはどのようにしてプレイヤーに楽しみを与えるのか。どのようにして、そしてなぜ、 プレイヤーはゲームの世界を想像するのか。

(7)

 第一の問題設定〔ビデオゲームの定義〕に関して一言述べておこう。この本の対象 は、コンピュータの能力を使ってプレイされるゲーム — つまり、そのルールをコ ンピュータが維持し、かつ、ビデオモニタを使ってプレイされるゲーム — だ。以 下では、PC ゲーム、家庭用ゲーム、アーケードゲーム、そのほかのデジタルゲーム をすべてを指す包括的な用語として「ビデオゲーム」を採用する。

 執筆中に影響を与えてくれた以下の聡明な人々に感謝しなければならない。ス サーナ・パハーレス・トスカ(Susana Pajares Tosca)、リスベト・クラストロプ

(Lisbeth Klastrup)、エスペン・オーシェト(Espen Aarseth)、アキ・ヤルヴィネ ン(Aki Järvinen)、ゴンサロ・フラスカ(Gonzalo Frasca)、マリー=ロール・ライ アン(Marie-Laure Ryan)、マルック・エスケリネン(Markku Eskelinen)、トロー エルス・ダイン・ヨハンソン(Troels Degn Johansson)、ヘンリー・ジェンキンス

(Henry Jenkins)、エリック・ジマーマン(Eric Zimmerman)、ジル・ウォーカー(Jill Walker)、ミケル・ホルム・セーアンセン(Mikkel Holm Sørensen)、シモン・イー エンフェルト=ニルセン(Simon Egenfeldt-Nielsen)、ピーター・ブーイ・アナセン

(Peter Bøgh Andersen)、ラース・コンザック(Lars Konzack)、T・L・テイラー(T. L. Taylor)、ミゲル・シカルト(Miguel Sicart)、キム・フォーロム・ヤコブセン(Kim Forum Jacobsen)、ノア・ウォードリップ=フルーイン(Noah Wardrip-Fruin)、ク ララ・フェルナンデス=バラ(Clara Fernández-Vara)、ハイム・ギンゴールド(Chaim Gingold)、アンカー・ヘルムス=ヨアアンセン(Anker Helms-Jørgensen)、ラスムス・ ケルドーフ(Rasmus Keldorf)、および MIT 出版の人々。

 線画についてはマス・リュダール(Mads Rydahl)に感謝する。また、根気強く原 稿を読んでくれたスサーナとリスベトに感謝する。

(8)

※ 2016 年 3 月現在は下記 URI から参照可能。〈https://www.jesperjuul.net/text/justwhatisit.html〉

 この本の前身にあたる博士論文は、2000 年 10 月から 2003 年 10 月までのコペンハー ゲン IT 大学の博士助成金によって書かれた。その大半は、マサチューセッツ州ケン ブリッジにあるマサチューセッツ工科大学の比較メディア研究科に客員研究員として 滞在している期間の 2003 年の 2 月から 7 月までのあいだに書かれた。

 この本の内容の一部は、これまでに出版されている。

• 2 章 の 大 部 分 は、“The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness,” in Level Up: Digital Games Research Conference Proceedings, edited by Marinka Copier and Joost Raessens, 30–45(Utrecht: Utrecht University, 2003)として出版された。

• 3 章の創発と進行についての節の一部は、“The Open and the Closed: Games of Emergence and Games of Progression,” in Computer Games and Digital Cultures Conference Proceedings, edited by Frans Mäyrä, 323–329(Tampere: Tampere University Press, 2002)として出版された。

• 4 章の時間についての節は、旧バージョンが “Introduction to Game Time,” in First Person: New Media as Story, Performance, and Game, edited by Noah Wardrip-Fruin and Pat Harrigan, 131–142(Cambridge, MA: MIT Press, 2004) として出版された。

• 結びの一部は、“Just What Is It That Makes Computer Games So Diferent, So Appealing?” Ivory Tower column for IGDA(April 2003)として出版された。 以下から利用可能。〈http://www.idga.org/colunms/ivorytower/ivory_Apr03. php〉

• 『Grand Theft Auto III』についての記述の一部は、“Hvad Spillet Betyder” [What the Game Means], in Digitale Verdener, edited by Ida Engholm and Lisbeth Klastrup, 181–195(Copenhagen: Gyldendal, 2004)から取ったものだ。

(9)

1 序論

‡1. とくに断り書きはないが、以下この章は、この本全体の内容の要約になっている。なお、次章以降の各章の 冒頭部分は、その章の内容の要約になっている。

‡2. 一般に「iction」という語は、虚構世界を想像するために使われる道具(つまりフィクション作品)を指す。一方、 ユールは、虚構世界それ自体を指す場合にもこの語を使うことがある(4 章を参照)。

 タイトルの『ハーフリアル』は、ビデオゲームがふたつの異なる側面を同時に持つ ものであるということを表している。ビデオゲームは、プレイヤーが実際にやりとり する現実のルールからなるという点で、またゲームの勝敗が現実の出来事であるとい う点で、現実的4 4 4(real)なものだ。一方で、ドラゴンを倒すことでゲームをクリアする という場合、そのドラゴンは現実のドラゴンではなく虚構的4 4 4(ictional)なドラゴンだ。 そういうわけで、ビデオゲームをプレイすることは、現実のルールとやりとりするこ とであると同時に、虚構世界を想像することでもある。そして、ひとつのビデオゲー ム作品は、ひとまとまりのルールであると同時にひとつの虚構世界でもある‡1。  『ゼルダの伝説 風のタクト』(任天堂 2002b)は、表現力豊かなグラフィック、作 り込まれた世界、きめ細やかなストーリー展開といった点で高く評価されている。図 1.1 は、近ごろさらわれた妹を探して主人公が故郷の島からはるばる旅してきた場面 だ。しかし、この画像に示されているのは、そうしたこのゲームの虚構世界上の事柄 だけではない。たとえば、画面内にあるいろいろなマークは、プレイヤーに多くの情 報を与えている。また、花畑にいる少女の頭上にへんな矢印が浮かんでいるが、この 矢印は、プレイヤーがいまプレイしているものがルールと目標を備えたゲームである ことを示している。つまりそれは、プレイヤーが少女とやりとりできることや、少女 がゲーム進行の手助けになるかもしれないことを伝えているのだ。さらに、この矢印 からは、〈グラフィックによって精巧な虚構世界が描かれてはいるものの、実際にこ のゲームのルールとして実装されているのは、その世界のうちのほんの一部でしかな い〉ということもわかる。矢印によって、このゲームのフィクション‡2のどの部分 がそのゲームのルールとして実装されているのかが示されているわけだ。このように、

『ゼルダの伝説 風のタクト』は、虚構世界を表すと同時に、ゲームのルールを表して もいる。そして、ビデオゲームは一般に、これらふたつのもの、つまり現実のルール と虚構世界からなっている。

(10)

†1. 抽象的(アブストラクト)ゲームから具象的ゲームへの移行には、非電子ゲームからビデオゲームへの移行 という側面だけでなく、非商業的ゲームから商業的ゲームへの移行という側面もある。

 伝統的な非電子ゲームのほとんどが抽象的であるのに対して、ビデオゲームは虚構 世界を持つ†1。この点で、ビデオゲームは伝統的なあり方から逸脱しており、またそ のことがビデオゲームの新しさの一部をなしている。ルールとフィクションの相互作 用は、ビデオゲームが持つ特徴のなかでとくに重要なものだ。そして、この本の中心 テーマはまさにこの点にある。両者の相互作用は、ゲームのさまざまな側面に見いだ せる。たとえば、ゲームそれ自体のあり方や、プレイヤーがゲームを知覚したり使っ たりする仕方、あるいはわれわれがゲームについて語る仕方のうちに見いだすことが できる。この相互作用は、プレイヤーに〔楽しみ方の〕選択肢を与える。プレイヤー は、ゲームの表現を使って虚構世界を想像してもいいし、同じ表現をたんにルールに 関する情報のプレースホルダとして扱ってもいいのだ。

 〔理論的な観点については、〕さらに別の選択肢もある。われわれは、ゲームそれ自体 に焦点をあわせることもできるし、ゲームのプレイヤーに焦点をあわせることもできる。 つまり、ルールに関しては、ビデオゲームのプログラムやボードゲームのマニュアルの うちに機械的に見いだせるものとしてのルールを論じることもできるし、プレイヤーが

図 1.1 『ゼルダの伝説 風のタクト』(任天堂 2002b) 矢印は、このゲームのルールのなかでなにが重要かを示している。

(11)

‡3. 最初のビデオゲームがなんであるかについてはさまざまな見解があるが、いずれにせよその答えは「ビデオ ゲーム」の定義に依存する。最初のビデオゲームとして頻繁に挙げられるタイトルとして、ほかに『OXO』(1952) や『Tennis for Two』(1958)がある。

‡4. インドのすごろくパチーシ(pachisi)をもとにアメリカで作られたボードゲーム。

やりとりしたり学習したりするもの(そして、そのなかでプレイヤーのスキルを徐々に 上達させていくもの)としてのルールを論じることもできる。同様に、虚構世界に関し ては、個々のゲームが提示する固定した記号の集まりとしての虚構世界を論じることも できるし、個々のゲームの表現を手がかりにしてプレイヤーがおのおのの仕方で想像す るものとしての虚構世界を論じることもできる。この本のねらいは、こうした互いに異 なる観点をビデオゲームについての一貫した理論として統合することにある。

古さと新しさ

 ビデオゲームの歴史は、ある意味では非常に短く、ある意味では非常に長い。ビデ オゲームと言える最初のものは、おそらく 1961 年の『Spacewar!』(Russell 1961)(図 1.2)だ‡3。それゆえ、〔2005 年現在で〕ビデオゲームが生まれてから 40 年とちょっ とであり、さらにそれがポピュラー文化の一部になったのはせいぜい 30 年くらいま えのことだ。それに対して、おおむねテレビは 75 年、映画は 100 年、印刷機は 500 年だ。このように見れば、ビデオゲームは比較的新しい4 4 4文化形式だということになる。 ビデオゲームはコンピュータの誕生に深く結びついたものであり、それゆえ文学や映 画やテレビよりも後発のものというわけだ。_

 しかし、ビデオゲームを〔媒体としてではなく〕ゲーム4 4 4としてとらえるなら、それ は文学や映画やニューメディアに後続するものではなく、むしろそれらに数千年先立 つゲームの歴史に位置づけられるものになる。古代エジプトのボードゲームである セネト(図 1.3)は、紀元前 2686 年に作られたヘシレの墓で見つかっている。セネト は、現代のバックギャモンや『Parcheesi』‡4— これらのゲームは、こんにちではコ4 ンピュータを使って4 4 4 4 4 4 4 4 4プレイされることが多い — の先駆にあたるものだ。そういう わけで、ビデオゲームは古いのか新しいのかという問いは重要ではない。むしろ、問 うべきは次のような問いだ。ビデオゲームはどのようにしてゲームになっているのか、 ビデオゲームはどういう点で非電子ゲームの特徴を受け継いでいるのか、ビデオゲー ムはどういう点で伝統的なゲームのあり方から逸脱しているのか。

 しかし、そもそもなぜゲームをプレイするのに、電話や電子レンジや車や飛行機と いったほかの発明品ではなく、コンピュータを使うのだろうか。ゲームとコンピュー

(12)

▶図 1.2 の写真はコンピュータ歴史博物館 Computer History Museum の厚意による。Copyright © Computer History Museum.

タのあいだには、たしかになんらかの根本的な相性の良さがあるように思われる。歴 史的に言えば、印刷機や映画技術は、新しい種類の物語表現を促し、その可能性を広 げてきた。それと同じように、コンピュータは、ゲームの可能性を広げるものとして 機能している。それは、古いゲームを新しい仕方でプレイすることを可能にしたり、 これまでにはなかった新しい種類のゲームを可能にするものなのだ。

ルールとしてのゲーム

 ゲームのルールは、簡単には乗り越えられない挑戦課題をプレイヤーに与える。こ こには根本的なパラドックスがある。ルールはふつう、それ自体としては、確定的で あり、曖昧さがなく、扱うのが簡単なものだ。一方で、ゲームの楽しさは、そのよう に簡単に扱えるルールが、簡単に乗り越えることができない4 4 4 4挑戦課題を提示すること によって生まれる。ゲームをプレイすることは、そうした挑戦課題を乗り越えるため にスキルを向上させる活動であり、それゆえ根本的にある種の学習経験だ。そのあり

図 1.2 『Spacewar!』をプレイするアラン・コトック、スティーヴ・ラッセル、J・M・グレーツ。

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▶図 1.3 の写真は Directmedia Publishing 社刊『The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei』所収。パ ブリックドメイン。

方はゲームごとにさまざまだが、おおまかに言えば、ゲームの構造のあり方 — 言 い換えれば、ゲームがプレイヤーに挑戦課題を与える仕方 — には、ふたつの基本 的な型がある。創発型4 4 4(いくつかの単純なルールの組み合わせによって、面白いゲー ム展開のバリエーションを作り出すもの)と進行型4 4 4(個々の挑戦課題が順次提示され ていくもの)だ。

 創発4 4は、古くからあるゲーム構造だ。創発型のゲームでは、指定されているルール は少数だが、それらのルールが組み合わさることでゲーム展開のバリエーションが多 数生まれる。プレイヤーは、そうした多様な状況に対応できるように戦略を練らなけ ればならない。創発型の特徴は、カードゲームやボードゲーム、スポーツ、〔ビデオゲー ムでは〕ほとんどのアクションゲームやすべてのストラテジーゲームに見いだせる。  進行4 4は、歴史的に見れば比較的新しい構造だ。この構造は、アドベンチャージャン ルを通してビデオゲームの一手法として確立した。進行型のゲームでは、ゲームをク リアするために、プレイヤーは、あらかじめ決められた一連の行動をおこなっていか

図 1.3 セネトをプレイする王妃ネフェルタリ。紀元前 1250 年ごろ。

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なければならない。進行型ゲームの特徴のひとつは、ゲームデザイナーが展開を強力 にコントロールできるという点にある。つまり、ゲームデザイナーが出来事の順序を 決めることができるということだ。結果として、物語を重視するゲームのほとんどは 進行型になる。

 ゲームは構造の点ではさまざまだが、ゲームに対するプレイヤーの接し方はどんな ゲームであれ共通だ。つまり、プレイヤーは、自身が持っているスキルのレパートリー を駆使してプレイし、またその過程でスキルを向上させていく。ゲームをプレイする ことは、スキルのレパートリーの幅を広げることだ。それゆえ、ゲームデザインの課 題は、当のゲーム〔の構造〕を通して、プレイヤーが持つスキルにいかに働きかける かということにほかならない。

フィクションとしてのゲーム

 ほとんどのビデオゲームは虚構世界を作り出すわけだが、それはビデオゲームなら ではの独特の仕方でなされる。ビデオゲームの虚構世界は、あやふやであやしげなも のだ。たとえば、主人公が死んだそばから生き返る。ストラテジーゲームでは、プレ イヤーは新しい人間を数秒で「作る」ことができる。プレイヤーは死ぬと、セーブし た状況をロードして死ぬ直前から続きをやる。プレイヤーが使っているコントローラ について、ゲーム内のキャラクタが言及する — こんな具合だ。こうした事柄が示 すのは、多くのゲームの虚構世界は矛盾したものであり、整合性がないということだ。 しかし、プレイヤーは、こうした事柄を必ずしも非整合的なものとして経験するわけ ではない。というのも、虚構世界としてのもっともらしさがほとんどない場合でも、 ルールとして〔プレイの〕方向性を与えることはできるからだ。そもそも、プレイヤー の経験にとって、ゲームのフィクションの整合性はそれほど必要ないように思える。 ゲームの虚構世界は、それを想像するかしないかをしばしばプレイヤーが任意に選択4 4 できるようなものだ。

 フィクションは、ゲームごとあるいはゲームジャンルごとに、さまざまな役割を持 つ。さらに、プレイヤーごとにもちがったりする。たとえば、ゲームのフィクション に感動するプレイヤーもいれば、それをルールを飾るだけの取るに足らないものとし

(15)

て片づけてしまうプレイヤーもいる。とはいえ、フィクションの重要度のちがいは、 ある程度は一般化できる。一方の極には、何度も繰り返しプレイするようなマルチプ レイヤーのゲーム(創発型ゲーム)がある。この種のゲームでは、フィクションの側 面を徐々に無視していっても問題なくプレイできる。もう一方の極には、「一度きり クリア型」のアドベンチャーゲーム(進行型ゲーム)がある。この種のゲームでは、 プレイヤーは〔ひとつのゲームセッション内で〕個々の場面にそれぞれ一度しか出会 わないので、虚構世界をそれ自体で意味あるものとしてとらえる傾向を持つことにな る。

ゲームとはなにか

 われわれが「ゲーム」と呼んでいる事物の大多数のなかに、(あるとすれば)どん な類似性を見いだすことができるのか。わたしはこの本でゲームの定義を探求してい るが、一方で〔ゲームという概念の〕歴史的な変化や境界事例の存在に対しても配慮 している。2 章で示される古典的ゲームモデル4 4 4 4 4 4 4 4 4は、「ゲーム」と呼ばれるものが具体 的にどういう仕方で成り立っているのかを切り取ってみたものだ。それは、歴史的に 見れば、何千年もまえからあるモデルだ。_

 古典的ゲームモデルは、6 つの特徴からなる。それらの特徴は、それぞれ次の 3 つ の異なるレベルで機能する。ルールの集合としてのゲームそれ自体のレベル、プレイ ヤーとゲームの関係のレベル、ゲームをプレイする活動とゲーム外の世界の関係のレ ベルだ。このモデルにしたがえば、ゲームとは、

1. ルールにもとづく形式的なシステムであり、 2. そのシステムは可変かつ数量化可能な結果を持ち、 3. そうした異なる結果に異なる価値が割り当てられており、 4. そのうちの特定の結果をもたらすべくプレイヤーが努力し、 5. プレイヤーは結果に対して感情的なこだわりを感じており、 6. そして、その活動の帰結が任意に取り決め可能なものだ。

(16)

以上の 6 つの特徴は、あるものがゲームであるための必要十分条件だ。つまり、ゲー ムであるにはこれら 6 つの特徴をすべて持っていなければならず、かつ、これらの特 徴をすべて持っていればゲームであるのに十分であるということだ。もちろん、これ らの特徴のうちのいくつかだけを持つような現象は、無数に想像することができる。 そうした特殊な〔ゲームと非ゲームの〕中間領域は、それ自体としてある種の生産性 を持っている。われわれがいまゲームのうちに見いだすことができる膨大な多様性と 創造性を可能にしているのは、この中間領域にほかならない。

 古典的ゲームモデルは、ゲームが成り立つための基盤になるものだ。これは、映画 におけるセルロイドに相当する。あるいは、絵画におけるキャンバスや、小説におけ る言語に近いかもしれない。もちろん、このモデルは、すべてのゲームが同じである ことを意味するものではない。むしろその逆だ。これら 6 つの特徴の観点から見るこ とによって、それぞれのゲームが互いにどのように異なっているのかがわかるように なる。また、このモデルは、ゲームをなんらかの特定の媒体に結びつけるものではな い。ゲームは、物語がそうであるのと同じく、媒体横断的4 4 4 4 4(transmedial)なものだ。 物語は、多様な媒体によって同じ物語内容を語ることができるという意味で、媒体横 断的な現象だ。同様に、ゲームが媒体横断的な現象であるのは、多様な媒体(あるい は道具)を使って同じゲームをプレイすることができるからだ。

 ビデオゲームは古典的ゲームモデルにおおむね従うが、同時にその慣習に変更を加 えるものでもある。実際、ゲームは歴史的に変化してきた4 4 4 4ものだ。ゲームをかなり輪 郭のはっきりしたものとして理解するのは理に適っているが、一方ではそうした変化 をとらえる必要もある。それゆえ、この本では、ビデオゲームが古典的ゲームモデル をいかに改良・補完するものであるかという論点も扱う。ビデオゲームの歴史は、部 分的には古典的ゲームモデルからの脱却の歴史なのだ。

ビデオゲーム研究について

 ビデオゲーム研究には、短いながらも激動の歴史がある。そのような状況のもとで、

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†2. ヴィトゲンシュタインが実際に論じているのはドイツ語の「Spiel」であって、英語の「game」ではない。Spiel は game よりも広いカテゴリだ。

‡5. 表象(representation)は、それとは別のなにかを表すもの(それの代わりになるもの)のこと。言葉や絵の ような記号も含まれるし、なにかについての心のなかのイメージのような心的表象も含まれる。ここでは、とく

この本は生まれた。この本は、過去数年のあいだに数々の学会やセミナーや記事や討 議のなかで提起されてきた多くの問題に対する応答になっているのだ。また、この本 は、なにかひとつの研究分野の伝統に安易に立脚するものではないが、かといって、 無から生まれたものでもない。むしろ、この本は、一方では可能なかぎり多くの分野 と人々の考えを寄せ集めつつ、もう一方では可能なかぎり多くの人々にわたしの考え を吟味してもらうことで成り立っている。ビデオゲームの歴史が非電子ゲームの歴史 に多くを負っているのと同じように、ビデオゲーム研究が非電子ゲームの研究に多く を負っていることを認めなければならない。

ほかの目的のためのゲーム

 理由はよくわからないが、何千年ものあいだ、ゲームは文化的考察の埒外にあった。 そういうわけで、ゲームに触れる論評のほとんどは、なにかほかの目的のためのゲー ムという考え方4 4 4を採用してきた。

 よく知られているように、オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタ インは、自身の言語哲学を構築するに際して、ゲームという概念を利用した†2。そこでは、 ゲームは、定義する(あるいは範囲を絞り込む)ことのできないものの典型として取 り上げられている。ゲームはまた、規則と表象‡5の関係を論じる理論にもヒントを与 えてきた。たとえば、ウラジミール・プロップやクロード・レヴィ=ストロースのよ うな構造主義者たちは、意味や物語が〔ゲームと同様の〕形式的構造にもとづくもの であると主張している(Pavel 1986; Propp 1968)。フェルディナン・ド・ソシュールも また、チェスが言語学に対して示唆的であると考えている。ソシュールによれば、「チェ スの盤上の状態は、言語の状態に正確に対応している。チェスの駒の価値は、それが 盤上のどの位置にあるかによって決まる。それとまったく同じように、ひとつの言語 におけるそれぞれの語の価値は、ほかのすべての語との対照によって決まる」(Saussure [1916] 2000, 88)。このように、チェスの駒の意味はほかの駒との関係から生じるもので あり、それゆえまた、駒のかたちや装飾に左右されないものだと考えられている。  ゲームはふつう、高度に構造化された課題だ。この特徴のおかげで、ゲームという 概念は、ほかの分野でも利用されてきた。ジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モ

(18)

に言語を中心とした記号における規則のあり方が、ゲームとの類比で論じられてきたことが指摘されている。

ルゲンシュテルンは、1944 年にゲーム理論の著作である『ゲームの理論と経済行動』

(Neumann and Morgenstern 1953)を出版した。この著作は、まず第一に経済学に 関するものだが、ゲームについての一般的な研究にいくらか関連する内容を含んでい る。彼らの経済学的な「ゲーム理論」は、「ゲーム」という語を、特定の種類の課題 を指すものとして使う。ゲーム理論は、さまざまな種類の「戦略」を一般化したかた ちで記述するものだ。それゆえ、ゲーム理論の焦点は、楽しむものとしての「ゲーム」 にあるわけではない。とはいえ、ゲーム理論が提示する形式的な諸概念は、ゲームだ4 けでなく4 4 4 4ゲームをプレイすることに対しても重要な洞察を与えてくれる。たとえば、 支配戦略(ほかのすべての戦略よりも優れている戦略)を持つゲームがしばしばつま4 4 らない4 4 4ものになるのは、プレイヤーが挑戦のしがいをまったく感じないからだろう。

〔「支配戦略」という概念によって、こうした説明が可能になる。〕

 ゲームが人工知能研究において取り上げられてきたのも、高度に構造化されている という特徴のゆえだ。1950 年に、クロード・シャノンは、当時最新の「汎用コンピュー タ」を開発するための出発点として、チェスを利用することを提案した。

以下の理由から、チェスマシンは、出発点として理想的なものだ。 (1) チェス のプロブレムは、可能な操作(一手)の点でも最終的な目標(チェックメイト) の点でも明確に定義されている。 (2) チェスのプロブレムは、自明というほど 簡単なわけでもないし、満足な解答を与えるのが難しすぎるというわけでもな い。 (3) チェスを熟練したかたちでプレイするには、ふつう「思考」が必要だ と考えられている。それゆえ、仮にコンピュータにチェスのプロブレムが解け るのであれば、われわれは機械による思考の可能性を認めるか、あるいは「思考」 という概念をさらに限定するか、いずれかを選ばざるをえなくなる。 (4) チェ スの離散的な構造は、現代のコンピュータのデジタルな性格によく合致してい る。(Shannon 1950)

チェスをプレイするプログラムの開発が実際に明らかにしたのは、人間はさまざまな やり方でチェスをプレイする(およびプロブレムを解く)ということ、そして、初期

(19)

†3. 『ゲームの研究』については、以前書評を書いた(Juul 2001c)。

のチェスプログラムのやり方 — 可能なかぎり多くの局面を考える — はそれとは 異なっていたということだ。チェスプログラムの開発は、こうしたかたちで認知科学 と結びついてきた。認知科学では、実際のところ人間はどのようにしてゲームをプレ イするのかについて、多くの研究がおこなわれている。たとえば、アドリアーン・D・ デ・フロートによるチェスプレイヤーの研究(De Groot 1965)は、プレイの純粋な 戦略的側面というよりも、プレイの心理を扱っている。アレン・ニューウェルとハー バート・A・サイモンの研究(Newell and Simon 1972)のように、人間による問題 解決を研究するためにゲームやゲームに似た課題が利用されることもよくある。  さらに、マーセル・ダネージが明らかにしているように、ゲームやパズルは、数学 上の洞察と手法を数多く提供してきた。たとえば、グラフ理論という分野は、数学者 のレオンハルト・オイラーによる「ケーニヒスベルクの橋問題」の研究に起源を持つ。 この問題は、ケーニヒスベルク市にある 7 つの橋について、どの橋も 2 回以上渡るこ となしに、すべての橋を通ることが果たしてできるのかどうかというものだ(Danesi 2002, 19–22; Weisstein 2004)。_

 以上が示すように、歴史的に言えば、ゲームに関係する研究のほとんどは、ほかの 事柄を研究するためにゲームを利用するものだった。そしてまた、そこでゲームに関 して得られた洞察は、そのほとんどが当の研究にとって付随的なものでしかなかった。

それ自体のためのゲーム

 歴史的には、ゲームそれ自体のための研究は、広範な分野に点在するかたちでおこ なわれてきた。そうした研究がはじめて成果を出したのは、おそらく 19 世紀後半の 民俗学の周辺においてだ。たとえば、スチュアート・キューリンによる 1907 年の研 究『北米インディアンのゲーム』(Culin 1992)は、800 ページを使ってアメリカ先住 民族のゲームの収集と分類をしている。1970 年前後にもまた豊かな成果がある。た とえば、E・M・アヴェドンとブライアン・サットン=スミスによる論文集『ゲーム の研究』(Avedon and Sutton-Smith 1971)†3は、非電子ゲームの理論の概観として 非常に優れたものだ。そこには、ゲームに関する多数の論文が、ゲームの歴史、ゲー ムの利用法、ゲームの構造と機能というセクション別にそれぞれ収められている。

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『ゲームの研究』を見ればわかるが、ゲーム研究の細々とした歴史の大半は、社会学 的な研究か、人類学的な研究か、哲学的な研究で占められており、美学的な研究分野 としてはほとんど発展してこなかった。つまり、(当の研究者以外の)ゲームをプレ イする人々についての研究は数多くなされてきたのに対して、ゲームをプレイすると いうことの一人称的な経験については、ほとんどなにも論じられてこなかった。  ゲーム研究には、ふたつの古典がある。ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』

(Huizinga 1950)とロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(Caillois 1961)だ。しかし、 この本の目的に照らすかぎりで、両者とも同じ難点を持っている。いずれも、ルール にもとづくゲーム(rule-based game)と縛りのない自由な遊び(free-form play)を 一緒くたにしているという点で、「ゲーム」よりも広い領域を扱っているのだ。ホイ ジンガは、あらゆる文化の中心にある要素としての「遊び」に焦点をあわせているわ けだが、ゲームそれ自体については大雑把に論じることしかしていない。カイヨワは、 ゲーム(および遊び)を「アゴン」(競争)、「アレア」(偶然の遊び)、「ミミクリ」(真 似、ごっこ遊び)、「イリンクス」(めまい)の 4 種類に分類したことでよく知られて いる。とはいえ、この分類からわかることは、分類をする場合には目標と前提を明確 にしたほうがよいということくらいだ。実際のゲームは、偶然の遊びか競争の遊びの いずれか4 4 4 4になるわけでもなければ、両者の中間のどこかに位置づけられるわけでもな い。実態はむしろ、ほとんどすべてのゲームは競争要素を持ち、かつ4 4、偶然要素をさ まざまな程度で持ったり持たなかったりしているといったところだろう。偶然要素に ついては、いろいろあるゲームデザイン原理のひとつとして考えるのが穏当だと思わ れる。つまり、偶然要素のあるなしは、情報がプレイヤーにとって見えているか隠れ ているかとか、目標がプレイヤー間で共通であるか相反しているかといったことと同 じレベルの話だということだ(こうした多様なゲームデザイン原理については 3 章で 論じる)。「イリンクス」についても同様だ。めまいは、たしかに多くの身体的なゲー ムやビデオゲームのプレイに含まれる要素ではある。しかし、それはゲームが与える 無数の種類の経験のうちのひとつにすぎない。

 ゲームをさらに別の角度から論じるものとして、バーナード・スーツの哲学的な対 話篇『キリギリスの哲学』(Suits 1978)がある。そこでは、ゲームの定義がまとまっ

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たかたちで提示され、論じられている。スーツの見解として有名なのは、「効率のよ くない手段」だろう。つまり、目標に到達するために使える手段として、効率がよく ないものだけをプレイヤーに許可するものとしてゲームを特徴づける考えだ。スーツ は、主に学術誌『Journal of the Philosophy of Sports』を中心に展開してきたスポー ツの哲学の伝統に属している。わたしの本は、スポーツの哲学に比べれば純粋な哲学 への指向は弱いが、一方で遊び研究(play studies)に比べれば美学的な指向が強い。 遊び研究は、子どもの遊びに焦点をあわせる傾向にある。R・E・ヘロンとサットン

=スミスの『子どもの遊び』(Herron and Sutton-Smith 1971)やサットン=スミス の『遊びの曖昧さ』(Sutton-Smith 1997)は、遊び研究の優れた概説になっている。

ビデオゲーム研究

 ビデオゲームの歴史は比較的短いが、ビデオゲーム研究の歴史はそれよりもはるか に短い。ビデオゲーム研究が独自の学会と学術誌と組織を備えた分野としてまとまり を持ち始めたのは、2000 年前後のことでしかない。この短い歴史は、ちょっとしたゴー ルドラッシュのようなもので、ゲームが持つ特別な側面を言い当てるとか、分野の地 ならしをするとか、用語を定義するとか、ゲームとそのほかの文化形式の類似点と相 違点を挙げるとか、そういったことを誰が先にやるかを競うレースのような状況だっ た。もちろん、この分野の経緯についてここで網羅的に概説するつもりはない。わた しが以下で説明したいのは、あくまでこの本がどういう議論に対する応答なのかとい うことだけだ。

 ビデオゲーム研究は、これまでのところ、見解の不一致と明確な答えにいたらない論 争でごちゃごちゃしている状況だが、それは必ずしも悪いことではない。論争はしばし ば単純な二分法のかたちをとる。そして、たとえその決着がつかないとしても、対立 点はゲーム研究の焦点として残る。非常に重要な対立としては、次のようなものがある。

• ゲーム vs プレイヤー

• ルール vs フィクション

• ゲーム vs 物語

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†4. フォースクエアは、地面に描かれた 4 つの正方形のうえでプレイされる。〔各正方形がそれぞれのプレイヤー の陣になる。〕ヒューズは、フォースクエアの基本ルールとして以下の 3 つを挙げている(Hughes 1999, 99)。◇ 自陣に落ちたボールをほかの陣に打って飛ばす。◇打つ場合は、ボールを自陣に 1 回(ただし 1 回だけ)バウン ドさせる。◇ほかの陣に落ちたボールを打ってはいけない。

• ゲーム vs もっと広い文化

• ゲーム存在論 vs ゲーム美学

ゲームかプレイヤーか

 根本的な二分法のひとつは、われわれが研究しているのはゲームそれ自体なのか ゲームをプレイするプレイヤーなのかというものだ。経済学的なゲーム理論は、おそ らくもともとは物としてのゲームについての研究であり、プレイヤーとは無関係のも のだったと思われる。もちろん、ゲーム理論は、プレイヤー経験についての議論を排 除しているわけでもない。たんに、それはゲーム理論の守備範囲外というだけだ。と はいえ、ゲーム「それ自体」にのみ注目して、それが人々によってプレイされるとい う事実を無視する立場は十分にありえる。_

 一方で、それとは逆の立場もありえる。つまり、ゲームのルールそれ自体は、それ が実際のプレイのなかで使われる仕方に比べれば重要ではないと主張する立場だ。リ ンダ・ヒューズは、女の子のグループがフォースクエアをどのようにプレイしたかを 調査している†4。そのプレイは、公式・非公式のルール、相反する諸々の成功基準、 その都度のルールの取り決めといったものが組み合わさったかたちでおこなわれてい たようだ。ヒューズによれば、「ゲームのルールは、お好みの意味と目的に合致する ように再解釈を重ねられる。ルールを行使するか無視するか、反対するか擁護するか、 変更するか押し通すか。こうしたことは選択の問題であり、それぞれのプレイヤーグ ループの集団的目標に合うように選ばれる。ようするに、プレイヤーは同じゲーム を使いながらも、そこから集団ごとにまったく異なる経験を作ることができるのだ」

(Hughes 1999, 94)。これはたしかにもっともな議論だ。_

 また、より一般化すれば、子どものゲームは、それを成り立たせているルールを記 述するだけでは意味がないという話でもある。この議論を論理的に極端に推し進めれ ば、ゲームのルールはまったく重要ではないという主張もできるかもしれない。とは いえ、そうした議論は、〈子どもはフェンシングやポーカーやラグビーもそういうや り方でプレイするはずだ〉などという残念な発想にいたるだろう。フォースクエアを もっと細かく分析すれば、そうしたプレイのあり方を可能にしている4 4 4 4 4 4 4のは、そのゲー

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†5. 相手の方に向かってボールを強く叩きつけること。

ムのぐだぐだな構造であることがわかる。つまり、明確な終わりがなく、最終的な勝 者を作らず、はっきりした得点を持たないといったようなゲームのあり方のおかげで、 プレイヤーは、単純に自分自身の能力を十分に発揮するのとは別の事柄を気にしなが らプレイできるということだ。ついでに言えば、たとえばスラミング†5の禁止のよ うなルールが持つ不明確さは、社会的な力関係を背景にしたプレイが生まれる余地を 作ることになる。_

 〔ルールを軽視することの問題はほかにもある。〕フォースクエアをプレイしていた 女の子たちは、ほかのゲームではなくまさにそのゲームを選んで4 4 4プレイしていたはず だ。そして、プレイヤーがルールを変えるのは、特定のルールを持ったものとしての このゲーム4 4 4 4 4をプレイしたいからにほかならない。そういうわけで、プレイヤー経験の 基本的側面を重視するかぎりは、ルールの役割もまた無視することはできない。よう するに、さまざまな種類の経験を生み出しているのは、さまざまなゲームなのだ。

ルールかフィクションか

 この本の主な主張は、ビデオゲームはルールかつ4 4フィクションであるというものだ。 これは、ゲームはルールかフィクションのどちら4 4 4なのかという長い歴史を持つ議論に 対する応答になっている。ソシュールがチェスについて述べているように、ボードゲー ムにおける駒のかたちが実際にどうであるかは、そのゲームのルールに関するかぎり はとくに重要ではないように思える。このことは、従来からしばしば指摘されてきた。 たとえば、アーヴィング・ゴフマンは、「無関連性のルール」(rule of irrelevance) という概念を提示しているが、これはゲームにおける個々の道具の具体的な形状が重 要ではないことを意味する。

[ゲームを]見ればわかることだが、参加者は、プレイのあいだ、そこで使われ ている道具が持つ美的価値や感情に訴える価値や金銭的価値に対して、目に見 える関心を示そうとしない。つまり、「無関連性のルール」とでも呼ぶべきもの に従っているのだ。たとえば、チェッカーをプレイするための道具は、いろい ろありえる。ボトルキャップを駒、方眼に区切ったリノリウム材の断片を盤と

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‡6. この本全体を通して、「make-believe」と「iction」はほとんど交換可能な語として使われている。「make-believe」 は適宜「ごっこ遊び」、「作り事」などと訳し分ける。フィクションをある種のごっこ遊びとして説明する図式は、 ケンダル・ウォルトンの有名な議論以降広く使われている。

して使うこともできるし、金でできた置物を駒、象嵌細工を施した大理石を盤 として使うこともできる。あるいは、ユニフォームを着た人間を駒、色つきの 石を敷き詰めた特別なコートを盤として使うこともできる。とはいえ、どうい う道具を使う場合でも、「同じ」駒の配置から始めることができるし、同じ指し 手もそれに対する同じ応手も指すことができる。そして、そこから同じような かたちの楽しさが生まれる。(Gofman 1972, 19)

 カイヨワは、ゲームがフィクションを含む可能性を否定しない。しかし驚くことに、 ゲームはルールかフィクションのどちらか4 4 4 4だと述べている。つまり、ルールにもとづ くゲームは、作り事(make-believe)‡6の要素を持たない4 4 4 4というのだ。

逆説的に聞こえるかもしれないが、こうした〔文字通りのごっこ遊びの〕事例 では、フィクションが — つまり、かのように4 4 4 4 4(as if)という意識が — ルー ルに取って代わり、それと同じ機能を果たしていると言える。ルールは、それ 自体でフィクションを作り出す。チェス、けいどろ、ポロ、バカラといったゲー ムをプレイする人は、それぞれのルールに従うというまさにそのことによって、 実生活から分離される。実生活には、こうしたゲームにそっくり対応する活動 はないからだ。チェス、けいどろ、ポロ、バカラといったゲームが本気で4 4 4プレ イされるのは、この理由による。つまり、〔ルールにもとづくゲームには〕かの4 4 ように4 4 4の意識は必要ない。[…]そういうわけで、ゲームはルールを持つと同時 に(and)作り事というわけではない。むしろ、ルールを持つか作り事であるか のいずれか4 4 4 4(or)だ。(Caillois 1961, 8–9)

しかし、この排他的な区分けは、最近のボードゲームやビデオゲームの大半にそぐわな いだろう。ほとんどのビデオゲームは、ルールを持ち、かつ4 4、作り事でもある。  ビデオゲーム研究において、フィクション要素を排除する立場は、たしかに魅力的 なものではある。わたし自身、以前はその立場を取っていた(Juul 1998)。この立場は、 たいていは以下のような単純でありがちな論証にもとづいている。

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‡7. ここでの「表象」は「フィクション」と交換可能な語。この用法は、この本を通してしばしば見られる。

1. ルールは、ゲームをゲームたらしめるものだ。

2. フィクションは、あるものがゲームであるかどうかにとって付随的なものでし かない。

3. ゲームは、フィクションなしでも面白いものになることがある。 4. 面白い虚構世界を持つゲームが、ひどいゲームになることがある。 5. したがって、ゲームのフィクションは重要ではない。

この主張は魅惑的だが、しかしまちがっている。ふたつのゲームを考えよう。どちらも 同じルール(および同じプログラム)からなるが、それぞれのグラフィックは異なって いる。第一のゲーム(図 1.4)では、プレイヤーは宇宙船を操作して、首だけのテレビ 番組の司会者との戦闘を繰り広げる。第二のゲーム(図 1.5)では、プレイヤーは宇宙 船を操作して、さまざまな理論(このケースでは物語論的モデル)との戦闘を繰り広げる。  わたしは、1998 年の論文で、これと同じプログラムで作ったふたつのゲームを比 較し、次のように結論した。「このように、このゲームの記号的あるいは比喩的な意 味は、プログラムにもゲームプレイにも結びついていない。ようするに、その関係は 恣意的4 4 4なのだ」(Juul 1998)。

 ゲームの表象要素‡7がどうであるかは〔当のゲームにとって〕とくに関係ないと

図 1.4 『Puls in Space』 (Juul 1998a) 図 1.5 『Game Liberation』 (Juul 2000)

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‡8. 確立したディシプリンとしての文学理論的・物語論的アプローチを未開拓のゲーム研究にそのまま持ち込も うとする態度を帝国主義的な植民地化になぞらえたもの。次項で述べられる「ルドロジー対物語論」の文脈にお いてしばしば持ち出される比喩である。

‡9. 文脈上、「narratology」はすべて「物語論」と訳した。しかし、この論争の文脈における「narratology」は、

いう考えは、一定の説得力を持つように見えるものの、よくよく考えてみればおかし いのがわかる。ゲームデザイナーのフランク・ランツは、自身のゲームデザイン上の 経験を踏まえて、同じような主張をしている。

わたしは、ゲームにおいて構造と表象がどのように働くのかについて考え始め た。もともと、わたしの頭のなかにはある考えが潜んでいた。ゲームの構造と、 なんであれゲームが表象するもの(主題や活動や背景設定)は、根本的に分離 しているという考えだ。これはようするに、どんな構造でもさまざまなテーマ と自由に組み合わせていろいろな効果を生むことができるが、いかなる特定の テーマと構造のあいだにも本質的で深い4 4 4 4 4 4関係はないということだ。[…]  頭のなかで格闘すること数か月、この考えはそれほど確かなものではない(少 なくともそれほど興味深いものではない)ように思えてきた。[…]

 もちろん、ゲームにおけるテーマと構造のあいだには、多くの関係がある。 それが本質的4 4 4であろうがなかろうが、そうした関係は複雑で生きたものであり、 気軽にとっかえひっかえできるようなものではない。(Lantz 2004, 310)

この議論は、図 1.4 と図 1.5 のゲームにおけるルールとフィクションの関係が恣意的 ではない4 4 4 4ことを強く示唆している。実際、これらふたつのゲームが風刺的4 4 4な性格を持っ ているのは、ルールとフィクションの関係のおかげだ。第一のゲームでは、テレビ番 組の司会者に対して視聴者が抱く好き嫌いの感情が宇宙空間での戦闘として演出され ている。第二のゲームでは、アカデミックな論争 — 理論の帝国主義‡8からゲーム を守ること — が宇宙空間での戦闘として演出されている。いずれのケースも、ま ずなんらかの既存の対立関係が背後にあり、そしてルールがその対立関係の表象に(あ る種の寓意というかたちで)適合しているおかげで、風刺として機能しているのだ。

物語るゲーム

 初期のビデオゲーム研究は、物語論4 4 4 ‡ 9(ゲームを物語として研究する)対ルドロジー4 4 4 4 4

(ゲームを固有のものとして研究する)の論争として考えられることが多かった。こ

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従来の限定的な意味での(構造主義的な)物語論とは一致しないという見方が一般的である。それゆえ、「ludology」 に対置されるゲーム研究のアプローチとしての「narratology」を「物語論」と訳すことには、いくらか問題がある。

‡10. 『スタートレック』シリーズに登場する仮想現実生成装置。映像と重力の制御によって、現実感を作り出す。

‡11. 「透明」(transparent)はメディア論的な概念。それ自体の存在を意識させず、純粋にそれが伝える内容だ

の論争は、たんに表面的な言葉の争いでしかない場合もあれば、重要な論点について の真剣な議論になる場合もあった(Murray 1997; Frasca 1999; Juul 1999; Eskelinen 2001b; King and Krzywinska 2002b; Atkins 2003; Aarseth 2004a; Jenkins 2004)。も ちろん、ビデオゲーム研究は無から生まれたわけではない。それゆえ、この論争にい たるまでの背景を踏まえておく必要がある。_

 物語論は、アリストテレスの『詩学』に起源を持つもので、劇や小説や映画といっ た物語表現媒体についての研究のことだ。とはいえ、最近では、「物語」という概念 がそれよりももっと広い意味で使われる。「物語的転回」(narrative turn)というこ とがしばしば言われるが、この転回以降、物語を〈われわれが世界に意味を見いだし たり構造化したりする基本的な仕方〉としてとらえる見方が一般的になった。この観 点からすれば、たとえば科学的言説、国家のイデオロギー、自分自身の人生について の理解といったさまざまな事柄が、同じ仕方で — つまり物語を使って — 構造化 されているということになる。エスペン・オーシェト(Aarseth 2004a)は、こうし た考え自体が「物語主義」という非生産的なイデオロギーであるとして批判している。 ゲーム研究の外では、トーマス・パヴェル(Pavel 1986)が同じ考えを「神話中心主義」 と呼んでいる。_

 物語表現の一種としてゲームをとらえる考えは、ビデオゲーム(あるいは「インタ ラクティブな物語」)は物語に近づくほどより良いものになる4 4 4 4 44 4 4 4はずだという規範的な考 えと一緒になることが多い。ブレンダ・ローレル(Laurel 1986)は、アリストテレス に依拠しながら、十分に整った筋書きを生み出すための理想的なシステムを考案して いる。この理想的なシステムのもとでは、ゲームが進むあいだコンピュータプログラ ムが作者の役割を担うが、それでいて、プレイヤーがどういう行動をとったとしても、 あらゆるゲームセッションが〔物語として〕十分に構造化されるという。ジャネット・ マレーの『ホロデッキ上のハムレット』(Murray 1997)でも、似たような理想として「ホ ロデッキ」‡10が語られている。これは完全に透明‡11で没入的な環境のことだ。それに よって、ユーザあるいはプレイヤーは、十分に構造化された物語にのめり込めるとい うわけだ。もちろん、こうした発想自体は、ある種の技術的な挑戦として当然ではある。 しかし、〔それを理想として持ち上げる〕理屈には問題がある。つまり、よく整った「物

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けに注目させるような表現媒体を「透明である」と呼ぶ。

†6. マイケル・マティアスとアンドリュー・スターンの『Façade』プロジェクト(Mateas and Stern 2004)は、 そうしたシステムを作り上げる試みとしては、おそらくいまのところもっとも進んだものだろう。

‡12. さらに古い使用例がのちにユール自身によって明らかにされている。以下参照。“First use of ‘Ludology’ :

語」のほうがより面白いプレイ4 4 4経験をもたらすという主張を支持するいかなる説得的 な議論もないのだ†6

 「ルドロジー」(ludology)は、「ゲームについての研究」を意味する語として一般 に理解されている。この言葉そのものの歴史には、いくらか謎がある。知られている かぎりでの初出は、1982 年にさかのぼる(Csikszentmihalyi 1982)‡12。とはいえ、「ル ドロジー」という語が広まったきっかけは、おそらくゴンサロ・フラスカの 1999 年 の論文「ルドロジーと物語論の出会い」(Frasca 1999)だろう。わたし自身がこの語 をはじめて使ったのは、2000 年の論文「コンピュータゲームにできることとできな いこと」(Juul 2000)においてだ。ルドロジーは、当初から、物語論から距離をとる ものとして、つまりビデオゲーム研究を一個の独立した学問分野として確立すること を目指すものとして、理解されることが多かった。

 最近の理論のなかには、ルドロジーと物語論の中間の立場を目指すものもある。そ うした理論では、ゲーム固有の特徴を否定しないかたちで、ゲームにおけるフィクショ ンや物語が持つ機能が論じられる。ルーネ・クレヴィヤーは、論文「カットシーンの 擁護」(Klevjer 2002)のなかで、「極端なルドロジー」がカットシーン(映画的な演 出によるゲームの中断)の役割をまったく無視していることを批判し、カットシーン がいくつかのポジティブな機能を持つことを論じている。たとえば、カットシーンは、 当のゲームにまとまりを持たせる理屈を与えたり、プレイヤーの行為に対するご褒美 として機能したりする。ほかにも、マス・ヴィブローらの論文「ゲームと物語」(Wibroe, Nygaard, and Andersen 2001)では、ゲームと物語の関係について細やかな議論が なされている。

 また別の立場からは、次のような議論がある。ジェフ・キングとターニャ・クリジ ウィンスカ(King and Krzywinska 2002a)によれば、ゲームと映画の関係は複雑で あり、一方では相乗効果と相互刺激があるが、もう一方では顕著なちがいもある。ラ グンヒル・トロンスタッド(Tronstad 2001)、オーシェト(Aarseth 2004b)、スサー ナ・トスカ(Tosca 2003)はそれぞれ、ゲームが持つ開いた構造と物語が持つ閉じた 構造を橋渡しする試みとして、「クエスト」の概念を持ち出している。クエスト要素は、 プレイヤーがおこなわなければならない一連のイベントをあらかじめ定義するという

参照

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