福 ふ く に し 西 志 し げ こ 計 子 第 2 回 文 児 こだま玉 享
すすむさん 女 子 教 育 に 身 を 捧 げ た
高梁偉人列伝 ⑫
余もこれ有り、中々開化風にて、夜も所々ランプもつき、暗夜といえども差し支えはなし、牛乳もあれば牛肉もあり、書店もあり、格別の不自由のなき所」と紹介されている。 西欧文明と共に自由民権運動やキリスト教も入ってきた。明治
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(1879)年初めて県議会議員の選挙が行われ、高梁より柴 しば原 はら宗 そう助 すけが選出された。「山陽新報」に「米国遣伝教師ベレー氏及び中 なか川 がわ横 よこ太 た郎 ろう、金 かな森 もり通 みち輪 ともの両氏は十月四日より三日間高梁裁縫校にて耶 や蘇 そ教の説教を行いたまい、六日午後六時より開 かい口 こう社 しゃの演説あり、終りに岡山の谷 たに川 がわ達 たつ海 み氏が国会開設論を演説せられたり」の記事が出ているが、これは柴原が自由民権運動を唱える中川横太郎とキリスト教牧師金森通倫を連れて帰り、風俗改良講演会を開いたものである。金森通倫はキリスト教を説き、その後、毎月キリスト教の伝道に訪れ、福西、木村の2人は初めてキリスト教に接した。 新島襄は明治
13年2月
17日から
)く(次号へつづ 19日 27815(治明。み)年 え生の時代を迎、活面でも西欧化が進 めたてい勤に所こ。明の頃から文開化 (高176)年から8梁属小裁縫付校学 村福西志計子と木明静は治9 らきしずかむ ってい。た め従事すにるなど、変まぐるしく化し 住隣近地かの移ら者が新しい職業土の 代にやり職を求めて京東大阪に出、わ 梁っていっな。高たでも士族の多くは す道を求めて競争るす厳しい社会と の自由となったため、日中が身を処本 四分制が廃されて、民平等・職業選択 実々と統次一政策をた施ていっ。身し は 明治新政府図富国をり、強策兵 治明、れら 比んだ、高梁はが較速く取り入れ的 中た。西欧化は方央から地へと進され 用暦、併を導入しがた農村では旧暦が し年1月1日とじて欧米と同太陽治6 12明を日3月
13(
1880)年の新 にい島 じま襄 じょう
の妻への手紙でみると「山の中とは申せ、至って繁華なる地なり、家数は千 の3日間高梁に滞在、高梁小学校の裁縫所で1日目300人、2日目400人の聴衆を集め、別に婦人会で200人位の人に話をしている。当時の高梁の人口は5000人位だから、町中こぞっての一大イベントになったと思われる。新島は人々に、我が国にとっては富国強兵よりも欧米のような文明国にすることこそ急務であり、文明の基を立てるためには信仰と教育であると説いている。まず神を知り、敬い、恐れ、そして信じ、愛することで、これは人間にとってもっとも大切なことであり、神の規律を守ることにより自由人となり、文明の民となることができる、と説く。教育の重要性と教育によって人心改良に取り組むことこそが国を盛んにすることであり、特に婦人 会では女性の教育の重要性を説き、母親として自分の子を立派に育てるため、自由の心を持ち、見識と愛情をもった女性を育てることの大切さを説いた。 新島の教えは福西の教育理念に合致していた。彼女は強く共感し、キリスト教に学び、風俗改良婦人会を組織して指導者として活動した。このような活動が町議会で問題となり、福西、木村両教師の活動への圧迫が強まった。ついに2人は明治
の者年のこ、て得も持支の援後、し職 14年辞を校学に月7
12月
は立謝月。たし立設を所縫裁 10り日に向町の黒野宅を借私、て のろく
10銭~
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銭(100銭が1円)までとした。最初生徒は
1間00間円3年、援助している。 、家)、清水質教師(比庵年で)ら父の んひしみずあただし 屋町川長ちの豊資薬次(郎(産)、石 といかわよじうしろ 医)、師藤(江英須小)、林師尚郎一 しえどううろちいやこういうょしこばす 医重宣井(実業家)、赤柳木蘇)、平員( やないぎしのりあかそへげい 々を奉する人信で議柴原宗助(県会、 この学校の後継 はト主教者スキリに き突進んだ。 がは厳しかった念、2人は信をっても 30人、に達動ずせ生活、学校活