− 18 − − 19 − 中国史の奥の細道
まずは天安門をみよう
東京大学文学部助教授 吉澤 誠一郎
天安門の風景
私が、北京の天安門広場にはじめて立ったのは、 1988年だった。そのあと、何度、この場所に足を 運んだことだろう。いつも、その広さには圧倒さ れてしまう。広場の南にある前門(チェンメン) から毛沢東の肖像画の掲げられた天安門まで歩く と30分以上はかかるだろう。広場のなかにある人 民英雄紀念碑も、ずいぶん巨大だが、周りが広々 としているのであまり大きさが実感できない。 この広さ
そのものが、 国家の中心 としての威 厳を表現し ている気が してくる。 1949年10月
1日、この天安門のうえから、毛沢東らは、中華 人民共和国の成立を宣言したのであった。ただし、 そのときから現在ほど大きな広場があったわけで はない。現在の広さは、中華人民共和国になって からの拡張工事の結果である。
天安門に来る人々
広場から天安門にかけては、いつでも多くの観 光客がいる。もちろん、私のような外国人もいる が、圧倒的多数は中国各地からのお上りさんであ る。何といっても、13憶の中国人のなかには、北 京に行ったことのない人がまだまだたくさんいる だろう。はじめて北京に来たら、まずは天安門広
場を見ようと思うのは、人情の常に違いない。 この天安門広場のほぼ中央部には、毛主席紀念 堂がある。これは、特殊加工された毛沢東の遺体 を安置した場所であり、ときには入り口が大行列 になっていることがある。毛沢東はどんな様子な のか、ある訪問時に興味津々で入ってみたが、残 念ながら遺体は遠くからしか見えない。
このような展示のされかたが毛沢東にとって本 望なのかどうかはわからないが、年取った農民ら しい人が恭しく献花などをしている様子も目にす ることができた。たとえば中国共産党が政権をと った当初は悲惨な貧しい生活をしていた農民が、 中国共産党の宣伝に呼応して革命に協力し、その 後は地元の幹部として権勢をふるうことができた とすれば、毛沢東を心から尊崇するのも当然とい うものだろう。
広場と大衆運動
私が初めて訪れて1年もしない1989年、同じ広 場には政治変革を求める人々が集まり、弾圧を受 けることになった。これは、いつのまにか「天安 門事件」と呼ばれるようになってしまったが、そ れ以前には天安門事件といえば、文化大革命体制 の末期(1976年)に起きた事件をさしていた。 もともとの天安門事件は、周恩来の追悼を意図 して集まった群衆が鎮圧されたものである。周恩 来は、「批林批孔」運動で攻撃を受けていたから、 この大衆運動は当時の政治体制に対する広汎な不 満を示唆するものであった。
さらに溯れば、民国時期にも、この広場は、た びたび学生を中心とする大衆運動の舞台となった。
1918 年の天安門付近
また祝祭の場となったこともある。1918年の秋 には、中国の第一次世界大戦勝利を祝賀する人々 で埋め尽くされた。その様子を陳独秀は『新青年』 5巻5号によせた時評の冒頭で紹介している。 北京の各学校は11月14・15・16日の3日間を休
− 18 − − 19 − 喧噪をもたらし、はなはだ賑やかな様子である。 東交民巷そして天安門附近は、人出で身動きが とれないほどで、様々な歓声の声があがる。な かでも第一の歓声とは「やったぞ! やった ぞ! 1900年以来の国辱である石の碑坊(モニ ュメント)は、もう既に打ち壊された」という のだ。
中国にとって、アヘン戦争以来、敗戦の連続であ ったが、ようやくここに戦勝国となることができ た。にもかかわらず、山東半島のドイツ権益が日 本に渡されるという一報が、翌1919年の五・四運 動を引き起こすことになったのである。
五・四運動は、偉大な愛国運動として高く評価 されてきた。中華人民共和国の公式歴史観では、 近代史と現代史の境目が五・四運動とされた。 しかし、私はたまたま手にした雑誌に載ってい た文章に驚いた。何と「五・四運動のデモは合法 か?」というもので、運動を賞賛するどころか、 運動が法規に反しているという批判が同時代から あったことを指摘する(『歴史教学』2003年10期)。 天安門あたりに集まって大衆運動をするのは悪い ことだという意図が含まれているのだろうか。
ケトラー・モニュメント
この陳独秀の文章のなかに出てくる石の碑坊と は、ケトラー・モニュメントのことである。ケト ラーは、清末のドイツ公使であり、1900年に義和 団を支持した清朝の兵によって殺害された。しか し結局、戦争に敗北した清朝は、この件でドイツ に謝罪することを約束した。そこで立てられたの が、このケトラー・モニュメントである。アーチ 型をしていたらしい。その場所は、現在の天安門 広場の東にあたる東交民巷の公使館区域のさらに 東北に少し行ったところであるから、天安門から は少し距離がある。
1918年にはドイツの降伏にともない、これを撤 去することになった。しかし、陳独秀は必ずしも それを喜んでいない。なぜならば、中国にはまだ 義和団のような古い「迷信」が横行しており、文 化の革新がまだ達成されてはいないからである。
ここには、義和団イメージの複雑さが示唆され ている。義和団は、外国を排斥して中国の尊厳を 守ろうとする愛国主義の立場から賞賛されること もあったが、別の立場からは愚昧な暴力行為とし て批判的に論じられることもあった。1918年にケ トラー・モニュメントを打ち壊そうとした人々は、 ドイツへの勝利を心より喜んでいただろうが、一 方で、外交官ケトラーの殺害という、国際信義に もとる行為への省察を欠いていたかもしれない。 これに対し、陳独秀は醒めた態度で、天安門付近 の戦勝記念集会を見ていたのである。
政治権力と天安門
清朝時代には、天安門は一般市民の立ち入るこ とのできない官庁区域に含まれていた。
皇帝の命令のひとつの形式である詔書は、もの ものしく威儀を正したなか天安門に運ばれた。天 安門の前に多くの官僚がずらりと並ぶなか、門の 上から担当者が詔書を読み上げる。そして詔書を 黄金の鳳凰にくわえさせ、鳳凰を絹のひもで釣り おろすのである。こののち詔書は担当官庁の礼部 に運ばれ、天下に公布するため印刷にまわされる (『(光緒)欽定大清会典事例』巻316)。天安門は