− − 1 グローバルヒストリー構築の
「ブリッジ」としてのイギリス帝国史
グローバルヒストリーとは、地球的規模での世界 の諸地域の相互連関を通じて、新たな世界史を構築 しようとする試みであり、最近、内外の学界で注目 を浴びている。従来の一国史(ナショナル・ヒスト リー)の枠組みを超えて、ユーラシア大陸や南北ア メリカなどの大陸規模、あるいは東アジア・海域ア ジアなど広域の地域(メガ・リージョン)を考察の 単位とするグローバルヒストリーでは、帝国・移民・ 環境問題などが研究課題として注目されている。グ ローバルヒストリーを考えるうえでのキー概念は、 「比較」と「関係性」である。それが最も明確にな
るのが、近世以降のグローバル化の進展、国際秩序 の形成・発展、いわゆる「近代世界システム」の変 容の問題である。
近代世界システム論は、アメリカの歴史社会学者 I.ウォーラーステインが提唱する世界経済体制論で あり、帝国書院の世界史教科書の骨格を形成してい る。日本では、川北稔氏の一連の翻訳・紹介を通じ て広く知られるようになった。近代世界システム は、「中核」、「半周辺」、「周辺」の三層構造からな り、6世紀以降、西欧を「中核」として地球的規模 で拡張を続けたとされる。だが、最近、この西欧中 心の見方に対して、非ヨーロッパ世界、とくに東ア ジア世界の優位、あるいは西欧との同時並行的な経 済発展を強調する新たな世界システム論が、A.G.フ ランクやK.ポメランツ、B.ウォン、杉原薫らによっ て提唱されている。
ここでは、これらの新説をふまえたうえで、世界 システムが安定するために、政治経済・軍事・文化 イデオロギーのすべてにおいて、圧倒的な影響力
を行使した強力なヘゲモニー国家の役割に注目した い。とくに、アジア諸地域と英米二つのへゲモニー 国家との「関係性」に注目したい。9世紀から20世 紀半ばまで続いたイギリスのヘゲモニー(覇権)が いかにアジア諸地域に支えられていたのか、逆に、 アジア諸地域はイギリスのヘゲモニーをいかに利用 し自らの利害を実現することができたのか、具体例 を交えて考えることで関係史的な世界史像を描いて みたい。
2 非公式帝国、国際公共財とイギリスのヘゲモニー
9世紀にイギリスがヘゲモニーを握る契機は、 ()8世紀のオランダ資金流入による「財政=軍事国
家」の展開、(2)フランスとの重商主義戦争を通じ た植民地帝国の形成、(3)環大西洋世界とアジアを 対象とした海外貿易の急激な拡張(イギリス商業革 命)によりもたらされた。とくに、西アフリカから の黒人奴隷労働力による砂糖プランテーションで栄 えた西インド諸島は、タバコ栽培の北米南部植民地 とともにイギリス帝国経済の核となった。奴隷貿易 を含む「大西洋の三角貿易」の発展は、イギリス東 インド会社が南アジア地域から輸入した綿布に対す る需要を高めて、アジア産品の輸入代替産業として 8世紀末に「産業革命」が起こる重要な要因になっ た。産業革命によりイギリスは、農業社会から商工 業社会に移行し、鉄道・蒸気船・電信が発明されて 経済発展を支えた。
8世紀末のアメリカ独立戦争以降、帝国・植民地 経営の重心は、環大西洋世界からアジアに移行した。 当時のイギリス帝国は、カナダ連邦・オーストラリ ア・ニュージーランドなどのように本国からの移民 により建設され自治権を獲得した白人定住植民地 (のちの自治植民地・ドミニオン)と、インド大反
関係史の視点から近現代史をとらえなおす―アジアを事例に 1
イギリスのヘゲモニーとアジア世界
− 2 − − 3 − 乱以降に本国政府の直轄支配に切り替えられた英領
インドや、東南アジアのシンガポールを含む海峡植 民地、エジプトなどの従属領から構成された。これ ら公式帝国に加えて、ナポレオン戦争後に独立した アルゼンチン・ブラジルなどのラテンアメリカ諸国、 西アジアのオスマン帝国、アヘン戦争後の中国(清 朝)は、名目上は政治的に独立した主権国家であっ たが、対外経済政策や金融・財政の面でイギリスの 影響下に置かれ、イギリス「非公式帝国」(informal empire)に編入された。9世紀中葉に自由貿易政策 を世界中に拡張し強要したイギリスの外交政策は、 イギリス帝国史家ギャラハーとロビンソンによって 「自由貿易帝国主義」と呼ばれる。
しかし、9世紀のイギリスの世界的な影響力は、 公式・非公式の両帝国に限定されるものではない。 当時のイギリスは、帝国を超えて地球的規模での圧 倒的な経済力と軍事力、文化的な影響力を行使した ヘゲモニー(覇権)国家であった。ヘゲモニー国家 は、英米の経済史家キンドルバーガーやパトリック= オブライエンが指摘するように、世界諸地域に多様 な「国際公共財」(international public goods)を 提供してきた。国際公共財とは、コストを支払わな い人を排除しない「排除不可能性」と、ただ乗りさ れても他の人が影響を受けない「非排他性」をあわ せ持った財である。9世紀のイギリスの場合、自由 貿易体制、金との兌換が保証されたポンド(スター リング)を基軸通貨とする国際金本位制、鉄道・蒸 気船のネットワークや海底電信網による世界的規模 での運輸通信網、国際郵便制度やグリニッジを基準 とする国際標準時、国際取引法などの国際法体系、 さらに、強力な軍事力に支えられた安全保障体制や 世界言語としての英語などを、その国際公共財とし てあげることができる。これらは、国際秩序におけ る「ゲームのルール」の形成に直結していた。 通常、ヘゲモニー国家は、近世までの世界帝国(ア ジアの中華帝国やムガール帝国、オスマン帝国な ど)と異なり、地球的規模での影響力の行使にとも なうコストを削減するために、統治のための官僚組 織や軍事力を必要とする公式帝国(植民地)を持た ないのが理想的な形態であった。しかし、9世紀の
イギリスの場合は、英領インドに代表される従属植 民地を世界各地に保有したヘゲモニー国家であった 点がユニークであり、現代のアメリカ合衆国のヘゲ モニー(パクス・アメリカーナ)とは決定的に異な る構造を有していたのである。
3 公式帝国をもつヘゲモニー国家イギリス 多角的決済機構の確立と英領インド
まず、イギリスのヘゲモニーを支えた圧倒的な経 済力は、産業革命以来のマンチェスターを中心とす る綿工業(消費財生産)、バーミンガムの金属機械 工業(資本財生産)に加えて、ロンドン・シティの 金融・サーヴィス部門が決定的に重要であった。 近年のイギリス(本国)経済史では、「世界の工場」 としての資本主義発展史は、P.J.ケインとA.G.ホプ キンズの「ジェントルマン資本主義」論の出現によ り大幅に書き換えられている。彼らによれば、近代 のイギリス社会経済は、大土地所有者としての土地 貴族と、ロンドンの金融街シティで活躍した金融資 本家、やがてその両者が融合して形成される「ジェ ントルマン資本家」層が主導することで発展を遂げ てきたのであり、産業革命の結果台頭したとされる イングランド北西部・マンチェスターの産業資本家・ 製造業者たちの影響力は限定的であった。9世紀の ロンドン・シティは、海外貿易と帝国の拡張に伴い、 アムステルダムに代わって国際金融サーヴィス業の 中心地となった。
− 2 − − 3 − 880年代以降は、温帯地域の白人定住植民地(のち の自治植民地・ドミニオン)向けの投資が急増し、 一貫して増えたインド投資(鉄道建設・インド政庁 債券)とあわせると、イギリス帝国内の投資が増大 した。
国際収支全体の構造(カネのやりとり)を見ると、 イギリスは、 対米・ヨーロッパ大陸諸国との間で生 じた膨大な赤字(20世紀初頭で年間約9500万ポンド) を、英領インドからの巨額の黒字(約6000万ポンド) と、オーストラリア・日本や中国・オスマン帝国(非 公式帝国)との黒字で埋め合わせることで収支の均 衡を維持した。S.B.ソウルが提唱したポンドの世界 循環システムである「多角的決済機構」の成立がそ れであった。世紀末のイギリスの国際収支は、多角 的決済機構と海外投資の利子・配当収入により支え られ、ロンドンで考案された国際的な原則やルール が、事実上の国際標準・規範(グローバルスタンダー ド)として世界中に広まった。日露戦争前後の日本 の戦時債発行に見られるように、新興工業国は外債 発行などでロンドン金融市場に大幅に依存した。 この多角的決済を円滑に機能させるうえで、イン ドの役割は決定的に重要であり「安全弁」の役割を 果たした。英領インドからの約6000万ポンドの黒字 は、()インドが原棉・ジュート・茶・小麦などの 第一次産品を欧米諸国や、後述するように日本に対 して大量に輸出して貿易黒字を稼ぎ、その黒字を、 イギリスからインドへの消費財輸出で吸い上げるこ と、(2)植民地統治にともなうインド財政からの「本 国費」(軍事費、官僚の給与・年金を含む行政費、 鉄道資材などの備品購入費、対鉄道投資をはじめと する各種の利子支払いなどから構成された)の円滑 な支払い、を前提にしてはじめて可能になった。イ ンドは、イギリスが世界に提供した国際公共財の一 つである国際金本位制、いわゆる「ポンド体制」の 最大の安定要因になったのである。
4 アジア間貿易の形成と英領インド ―国際公共財の利用
以上の考察から、パクス・ブリタニカを経済的に 支えた最大の貢献者が英領インドであったことは
明らかであろう。だがインドは、本国イギリスとの み貿易をしていたわけではない。世紀転換期にイン ドの対外貿易の約3分の1は、東側の東アジア・東 南アジア諸地域に向けられており、日本はインドに とって重要な輸出相手国であった。同時期の日本と 英領インドは独自に、904年に最恵国待遇条項を含 む日印通商協定を締結していた。それは、いわゆる 不平等条約の改正の一環として、相互対等の最恵国 待遇、領事裁判権撤廃を含む日英通商航海条約が 894年に締結された0年後であり、関税自主権回復 の9年新条約締結の7年前であった。その背景に は、インド産原棉輸出、 ボンベイ(現ムンバイ)と 大阪・神戸の近代的機械紡績業を基軸とするアジア 地域間貿易の形成・発展があった。杉原薫が提唱す る「アジア間貿易」の形成である。