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Parker Brothers

創設者:George S. Parker (1866-1952) 創設年:1883(事業開始)

創立地:マサチューセッツ州メドフォード(ボストンから北 8km)/セイラム(ボストンから北 20km)

明示されていないが「メドフォードにある 3 フロア 18 部屋で構成された家を売らざるを得なくなり」とあり、裕福な家庭であったことが窺える。 1883 年、16 歳の時、自分が作った同人カードゲーム「Banking」を製作。

※当時のゲームは伝統系ゲームを除けば教育系出版社による教育的効果を狙ったものが多かった。第一回で触れられたとおり、McLouglin Brothers の 当時の本業は教育出版。また、MB 社の The Checkered Game Of Life(1860)、W.&S.B.Ives 社の Mansion of Happiness(Abbott, 1830。Abbott は Authors の作者としても有名)などにも、美徳・悪徳・罪と罰など「教育性」が顕著に見られる。

George Parker はプレイヤーとしてこのような要素を嫌い、ゲームに対してスリルのあるプレイとテーマを求めた。

これを販売するため、自分の家(この時点ではメドフォード)の樹からもいで作った干し葡萄を売って$50 を作り、ボストンに赴いて印刷会社に 500 部分の発注を出し、母親(父親とは 10 歳の時点で死別)と教師の許可を取ってホリデーシーズンに一時休学、ボストンやプロヴィデンスなどの玩具店 と問屋を回ってクリスマスまでにこれをほぼ売り切り、$80 の利益を獲得する。

(卸値は問屋向けが$0.25, 小売向けが$0.33。おそらく小売値は$0.5-0.6。現在価値で 1000 円程度のイメージ)

復学後も複数のゲームを製作(自分のものだけでなく、自分の教師の作になるものも生産している)・販売を続行。

1884 年に卒業し、ボストンの新聞社に就職するも、健康上の理由により 1885 年に一旦退社。親とセイラムに引っ越して療養中、ニューヨークに赴い て玩具問屋と契約しニューイングランド(米国北東六州。マサチューセッツ他)における販路を確保。この段階で、新聞社から受けていた復帰のオフ ァーを蹴り、ゲーム出版社運営のキャリアを選択。

1887 年、別の出版社と、中部大西洋岸(ニューイングランドに隣接する六州。ニューヨーク他)における販売契約を締結。これにより年間の利益で

$2000(現在価値で 400 万円程度)を確保。自宅の地下を倉庫とするほか、セイラムにショップを構え、従業員を雇う。

この頃、パーラーゲームに勝つための戦略になぞらえて、ビジネスで成功するための「ルール」を制定する。 1.自らの目的を知り、そこへ至れ。

2.「勝利への手」を発見せよ。

3.ルールに従ってプレーせよ。ただしそのルールを利用すること。 4.失敗から学び、成功を活かせ。

5.選択に直面したら、対リスク比での潜在利益の最も高い手を取れ。 6.運が無い時は、感情を抑え、次の前進のために準備せよ。

7.躊躇って相手にセカンド・チャンスを与えるようなことの無いように。 8.ゲームに打ち負かされる危機が迫ったら、助けを探せ。

9.オッズが良いなら大きく張れ。

10.機会が狭まってきたら、強みに集中せよ。

11.勝者にせよ敗者になるにせよ、礼儀正しくあれ。卑しい振る舞いをしないように。学んだことを共有せよ。 12.危険を侵して上記 1-11 を無視してみろ!

1888 年、それまでもパートタイムで会社を手伝っていた兄 Charles Parker が、生産・財務担当として正式に入社し、「Parker Brothers」が誕生する。

拡大

その後、投資家を説得して資本を拡大し、倉庫・生産施設を拡充、アセンブリを自社化してコストを削減、他社の事業継承(Mansion of Happiness の 出版社 W&SB Ives が創業者の死去により廃業したので、これを事業継承)により事業を拡大。

1893 年にはシカゴ万博に出展、加えてロンドン出張を開始(この時点でのロンドンは世界最大の都市であり、ゲームという点でもホイスト、リバーシ 等を生み出した「本場」だった)。

諸々により、事業規模は、1883 年の$500/year から 1980 年の$40,000、そして創業十五年目の 1898 年には$110,000(現在価値で 2 億円強)まで 拡大する。また、この 1898 年は、別の会社で成功していた長兄 Edward Parker が正式に Parker Brothers に入社した年でもある。

1900 年には$140,000 を記録。この段階で、アメリカの玩具会社としては McLouglin Brothers に次ぐ No.2 まで成長している。1902 年にはニューヨ ークの中心部、玩具会社が多く存在した区画に建った摩天楼"Flatiron Bldg."に新営業所を開設。同地で 1903 年に開催された第一回ニューヨーク・ト イフェアにも参加。後述する卓球のヒットにより、1902 年の売上は$346,000 まで拡大した。

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Parker Brothers 社のポリシーと制作物

George Parker は、1887 年に自らが制作した最もお気に入りの 2 人用戦略ゲーム「Chivalry」(現 Camelot)が売れなった経験から、「一般層にはあまり スキルフルかつサイエンティフィックなゲームは受けない」と判断。Charles と George はここから Parker が作るべき「売れる」ゲームについて、以 下のように結論づけた。

「興味をそそるタイトルとカラフルなアートワーク。エキサイティングで適切なテーマ設定。大抵の人に解るような簡単なルール。加えて、何度も遊 んでも損耗しないような品質・堅牢性」。

また、George Parker はクリアなルール記述の重要性を理解しており、かつそれを実施できる能力も保持していた。

Parker は上記のポリシーに基づいたゲームを次々に発表していく。地続きの企画として、「ライセンス物」のボードゲームの出版を始める。最初の作品 は当時のベストセラー・ジュブナイル作家ホレイショ・アルジャーの本の主題にもとづいて作られた「Office Boy Game」(ゲームとしては教育ゲーム の枠に留まるが、ジュブナイル的テーマに沿ったものにはなっている)。これが成功したので、続いてマーク・トゥエインのエッセイ「無邪気な外遊記」 のボードゲーム版を出版し、新聞広告を打つ。この作品は大きな評判を呼び、当時の Parker の代表作となった。

(BGG の誰だかわからない人の解説によれば、この作品は「この種の」ゲームとしては初めて、プレーにまともな意思決定を持ち込んだゲームだ、と のこと。複数駒持ち・複数トラック制で、どちらの駒をどう動かすのか決めることができる。また、ゴールへ向かうスピードと金銭消費の間にトレー ドオフがあり、「2着のプレイヤーの金銭消費量が1着の半額未満だった場合には、1着よりも優位とする」というルールが有る)

1890 年代には、英国とのビジネスが実を結ぶ。

1890 年代初頭には Tiddledy Winks (イギリスの子供遊び Tiddlywinks のパッケージ版。チップを弾いてカップに入れるゲーム)を流行らせ(ただし知財 管理の問題で、他社のコピーゲームを防げなかった)、1897 年には Pillow-Dex(ふわふわした枕を打ち合う軽いインドアスポーツ)がヒット(これは エクスクルーシブ・ライセンスを取った)、さらに 1902 年には卓球(「ピンポン」)をロンドンから輸入(これは後に「テーブルテニス」を推す他社と 抗争になった)してこれも当てる。これらの結果を見て、1903 年にはイギリスに支店を開いている。

(この種の遊具としては、1906 年にジャグリング用の空中回転独楽「ディアボロ」のライセンスをフランス人から購入して販売、これもヒットしたが、 他社のコピー商品の反乱と突然のブーム終了により大量の在庫を抱える結果にもなった)

さらに、1898 年の米西戦争では戦意高揚ゲームを戦争が始まる前に 5 つ、戦争中に 4 つと乱造している(内容はどれも同じで、東南アジアでスペイ ン人を撃ち殺す射的)。

カードゲーム

1800 年代の Parker のゲームは、基本的には「(箱が)ビッグゲーム」の路線であり、幅 90cm というものさえ存在した。

一方、1903 年にイギリス支店を開いて最初に契約したゲームは、ホームズ物のカードゲームだった。この作品はそこそこの成功しかしなかったが、結 局のところカードゲームなので、倉庫を圧縮することが全くなかった。これを見て George は「何かグレートなカードゲームを作れば、リソースの問 題に悩まされることなく莫大な利益だけをゲットできるのではないか」と考える。

そのような問題意識のもと、1903 年末、霊能者エドガー・ケイシーが(霊能と全然関係ない)「Pit」のアイデアを持ち込んでくる。Parker はその場で ライセンスを買い取り、Pit を発売(※)。爆発的なヒットとなり、Parker 初のミリオンセラーを記録する。

※Pit の元ネタが"Gavitt's Stock Exchange"(1903)であることは有名だが、この本ではそれに触れていない。

(1904 年にセントルイス・ワールドフェアが開催された際、セオドア・ルーズベルトが Parker のブースを訪れ、George Parker と握手して、自分が プライベートで Pit を遊んでいることを明かした、という逸話が在る)

Pit の売上を見た George Parker は、「ボードゲームなんかどれだけ良くても Pit の欠片くらいにしかならないんだから、新しいボードゲームを作るのは いかがなものか」と考えるようになる。そして「次の Pit」を作るべく、既に 1903 年に発売されヒットしていた「Flinch」を、1095 年に製作会社ご と買収。これも Pit に次ぐヒット作になる。

さらに、「トランプやタロットはピューリタンの倫理では宗教上よろしくないものとされる」との着想から、JQK を 11/12/13 に置き換え、スートも色 に変えた変形トランプ「ROOK」を、トリックテイキングゲームその他のルールをつけて売り出す。初期にはそれほど売れなかったが、地道な営業活動 により安定した売上が出るようになる。

ジグソーパズル

このへんの年代から、Parker は「伝統系」もラインナップには一応揃えるようになる。パズルもそのたぐいのものでしかなかったが、技術革新により 切れる電動糸鋸が入手できるようになるとギアを変え、女工をいっぱい雇って高品質の合板パズルを作り、上層の女性達をターゲットとして 1908 年 に売り出す。これもヒットし、225 台のマシンを買って週 15000 セットを生産する必要が出るほどになる。

(なお、当時は「パズル貸出屋(ライブラリ)」というのがあり、巨大なパズルはこういう貸出屋が買っていたのだ、とのこと)

というような諸々により、1910 年には、Parker の売上は$700,000/year を超え、McLoughlin Brothers を抑えて米国最大の玩具会社になっていた。

参照

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