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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2004年 1月号

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(1)

 ほぼ1年前の冬から春にかけて、新聞の紙面を 賑わしたのは、謎の病気SARS(重症急性呼吸器 症候群)であった。SARSは、中国の南部を発生 地として香港、さらに台湾・シンガポール・ベト ナムといった近隣地域、遠くはカナダ、アメリカ、 ヨーロッパまで、感染の爪が伸びた。2003年8月 初旬までの累計で916人の死者を数えて、昨夏に は収束した。結果的には、日本では1人の患者も 出なかったし、SARSの恐怖は杞憂に終わるかに 見える。だが、この冬から春にかけて、SARSが 再発するかもしれないという危惧は依然として存 在する。筆者は、SARSへの恐怖が最も喧伝され たとき、かつて猛威を振るった「スペイン風邪」 のことを想起した。後にふれるように、1918年に 世界的な流行となったこのインフルエンザは、世 界疫病史においても稀にみる大惨事となったが、 人類はそうした悪夢の再来を完全に否定できると ころにはまだいない。

 SARSの正体は、コロナ・ウイルスであること が判明しているが、空気感染があるか否かなど、 感染のあり方について未だ不明な点も残っている。 しかし、患者との接触が感染につながることは明 白である。したがって、検疫や防疫という感染者 の移動を監視し管理する古典的な公衆衛生の手法 が、改めて脚光を浴びた。

 歴史を顧みても、交通や人の移動が疫病の発現 と関わる事例は多数見られる。とくに、世界の一 体化(グローバル化)が進展するときに、未曾有 の疫病が起こるという事例が存在する。その意味 で、「疫病と世界史」というのは、好事家好みの キャッチフレーズでは決してない。ここで強調し

たいのは、疫病の発現が世界史の形成 3 3 3 3 3 3

の本質的な 部分に関係していたという点である。以下、大規 模な疫病の発現が世界史における「帝国」の展開 過程や世界の一体化(グローバル化)といった事 態に、如何に関連しているかを明らかにしたい。

 1346年に黒海に面する通商都市カッファで始ま ったペストの流行は、続いて地中海地域、さらに はヨーロッパの北部と西部に広がった。これが、 いわゆる「黒死病」の流行の端緒である。ヨーロ ッパにとって、ペストは未知の病というわけでは なかった。ユスティニアヌス大帝在位中の542年 に地中海地域を襲った疫病は、ペストであったと されている。これは、8世紀頃まで断続的に流行 した。しかし、それ以来、ペストの流行はなく、 その意味でほとんど未知の病といってよい状態と なっていた。概して、人類は未知の感染症と出会 ったときに大きな衝撃を受ける。周知のように、 ペストの衝撃は大きく、ヨーロッパの人口の三分 の一近くが亡くなったといわれている。ペストは、 しだいに被害の規模は軽減化したが、17世紀まで ヨーロッパで繰り返し流行した。

 実は、14世紀におけるヨーロッパの黒死病は、 モンゴル帝国の世界的拡大に付随して起こった現 象であると考えられる。ウイリアム=マクニール は、黒死病流行の前提として、モンゴル帝国によ る東西交通の発展を指摘する。すなわち、ユーラ シア大陸の中央部に位置する大草原地帯(乾燥地 帯)が、ペストの発生地として考えられている。 モンゴル軍は、ペストが風土病化している中国南 部の雲南・ビルマに遠征した後、感染したノミと ともにペスト菌を故郷の中央アジアへ持ち帰った。

疫 病 と 世 界 史

大阪市立大学大学院経済学研究科教授 脇 村 孝 平

SARS の衝撃(21 世紀)

(2)

中央アジアの草原地帯に生息する齧歯類がこれを 保菌することとなった。その後、ペスト菌は、中央 アジアを起点として、初めに中国へ伝播し、続い て黒海地域を経由してヨーロッパに波及した。14 世紀に、中国においてもペストと推測される疫病 が蔓延したようである(W.H.マクニール、佐々 木昭夫訳『疫病と世界史』新潮社、1985年)。  ユーラシア大陸では、紀元後から徐々に発達し てきた交易ルートを基盤として、人の移動の結果 として各地域がそれぞれ特有の疾病(病原微生物) を相互に交換しあってきた。すなわち、ユーラシ ア大陸それ自体が一つの「疾病の貯水池」(disease pool)となっていた。しかし、ユーラシア大陸の 疾病史においても、モンゴル帝国の時代は、大き な転換期であった。モンゴル帝国の興隆と相前後 して、中央アジアの隊商交易、とくに東西の交通 が一段と発展した。ジャネット L.アブー=ルゴド によると、13世紀は、ユーラシア大陸の内陸交通 とインド洋における海洋交通が有機的に結合し、 いわば「13世紀世界システム」とでも呼ぶべき状 況が現出したとされている(ジャネット L.アブ ー=ルゴド、佐藤次高他訳『ヨーロッパ覇権以前 −もうひとつの世界システム』2冊、岩波書店、 2001年)。ヨーロッパにおける黒死病流行の前提 として、このような世界の一体化(グローバル化) の進展を考える必要があろう。

 13世紀のマルコ=ポーロ、14世紀のイブン=バッ トゥータといった大旅行家が、今日の私たちが日 本語で読める旅行記を残していてくれていること

はありがたいことである(マルコ・ポーロ、愛宕 松男訳『東方見聞録』2冊平凡社、2000年;イブ ン・バットゥータ、家島彦一訳『大旅行記』8冊、 平凡社、1996年∼2002年)。これらを読むと、ア ブー=ルゴドのいう「13世紀世界システム」を実 感できる。今日の旅に比べるとはるかに苦難に満 ちているが、それにもかかわらずこのように人が 移動できた事実が重要である。

 日本史に関連して付け加えておこう。13世紀の 後半に起こったいわゆる「元寇」は、日本史の帰趨 をも左右しかねない大事件となった。これは、モ ンゴル帝国の世界的な展開が、ユーラシア大陸の 東端に波及した末のことであった。しかし、その 2回にわたる試みは海という障壁もあって失敗に 終わった。これには、疾病史上の補足的エピソー ドが加わる。すなわち、ペストも海という障壁に よって日本への伝播が阻止されたのである。この 事実もまた、疾病史上特記されるべき事柄である。

 コロンブスによる「新大陸の発見」は、疾病史 において空前絶後の事態を引き起こした。コロン ブスがアメリカ大陸に到達して以降、スペイン人 とともに大西洋を渡った病原微生物が、この大陸 の先住民社会に与えた人的被害は想像を絶するも のであった。一例を挙げよう。かつてアステカ帝 国が存在した中央メキシコの人口は、1548年の603 万人から1608年の107万人に激減したと推定され ている(M. Livi-Bacci, A Concise History of World

Population, Massachusetts, 2001, p.46)。コルテス

と部下の兵士たちがこの地域にやってきたのは 1519年のことであったから、人口減少の規模はも っと激しかったに違いない。アメリカ大陸のいた るところで疾病によるジェノサイドともいうべき 事態が起こった。

 なぜこのようなことが起こったのか。これは、 アルフレッド=クロスビーが「処女地の疫病」と 呼んでいる現象によるものであった。「ヒトの生 涯の最も油ののりきった青壮年時代に、頑健にし て強壮な免疫システムは、もし前例のない侵入者

(3)

の襲撃を受けると過度に反応し、炎症と浮腫を起 こして通常の身体機能を窒息死させてしまう」 (A.W.クロスビー、佐々木昭夫訳『ヨーロッパ帝

国主義の謎−エコロジーから見た10∼20世紀』岩 波書店、1998年)からであった。アメリカ大陸は、 ユーラシア大陸の「疾病の貯水池」から長らく隔 てられていたために、ユーラシア大陸では長い時 間の経過の中で馴化した疾病が、ここでは致死的 な症状に帰結したのである。アメリカに新しく登 場した感染症のリストには、天然痘・麻疹(はし か)・チフス・インフルエンザ・ジフテリア・百 日咳などが挙げられる。

 感染症をもたらしたのは、ヨーロッパ人だけで はなかった。先住民社会の急激な人口減少による 労働力不足に対処して、ヨーロッパ人は16世紀の 前半には西アフリカから奴隷労働の導入を図って いる。アフリカからの奴隷労働の流入とともに、 マラリアや黄熱病といった感染症がアフリカ大陸 からやってきた。これらは、西インド(カリブ海) 地域を中心に、アメリカ大陸の熱帯部分に蔓延し た。これらの疾病は、先住民社会にはさらなる追 い打ちとなっただけではなく、ヨーロッパ人にも 襲いかかった。先住民やヨーロッパ人に比べると、 アフリカ人たちはこれらの疾病に抵抗力を有して いたために、この熱帯地域における主要な労働力 として、その後大量に導入される。西インド諸島 の砂糖プランテーションなどにおける奴隷制の隆 盛には、このような疾病史上の理由も関わってい る。

 大西洋を挟んだ両大陸では、人の移動にともな って病原微生物のみならず植物や動物も相互に海

を渡ったが、アメリカ大陸は新しく流入した新種 の植物や動物によって制圧され、植物相も動物相 も一変した。クロスビーは、大航海時代に病原微 生物・植物・動物が大陸間で交換されたことを「コ ロンブスの交換」と呼んだが、その収支決算は圧 倒的にヨーロッパにとって有利であったというこ とになる。ヨーロッパにとっての新大陸の獲得は、 比喩的には「更地」が一挙に倍増したような結果 になったといえる。そのことは、南北アメリカ大 陸の両温帯部分において、人口の大半がヨーロッ パ出自の人びとやその混血種になり、自然景観も ヨーロッパと非常に類似したものとなったことに あらわれている。いわば「ネオ・ヨーロッパ」が そこに誕生したのである。

 いうまでもなく、大航海時代は、世界の一体化 (グローバル化)を進めるうえで重要なエポック であった。その時代に、再び疾病史上における未 曾有の事態が発生したのである。

 19世紀の後半から20世紀の初頭にかけての英領 インドは、まさに「飢饉と疫病の時代」というべ き状況にあった。19世紀後半の半世紀に、1876∼ 78年、1896∼97年、1899∼1900年の三大飢饉をは じめとして、少なくとも11回の飢饉に見舞われて いる。これらの飢饉による人的被害は大きく、た とえば1876∼78年の飢饉では、推定の死者が500 万人を超えるというものであった。また、飢饉と は別に、天然痘・コレラ・ペスト・マラリア・イ ンフルエンザなどの疫病が流行し、これらもまた 多大の人的被害をもたらした。ペストのみを取り 上げてみても、1896年から1934年までの期間中に、 約1250万人が亡くなったとされている。こうして、 1871年から1920年までの50年間の人口増加率は、 このようなたび重なる飢饉と疫病による死亡危機 のために、0.37%にとどまった(1920年代以降は、 かかる死亡危機も減少し、人口増加率も1%を超 えた)。

 この時代における飢饉の死亡者のうち多数は、 飢饉に併発して起こった感染症(マラリア、コレ

0 2000km

スペイン植民地 ポルトガル植民地 ポルトガルの拠点 都市

ディアス(1487∼88) コロンブス(1492∼93) カボット(1497∼98) ガマ(1497∼99)

ヴェスプッチ(1499∼ 1500,1502) カブラル(1500∼02) マガリャンイス (マゼラン)

ムガル 帝国 ムガル 帝国 サファヴィー朝 サファヴィー朝 オスマン 帝国 オスマン 帝国 マヤ諸国

インド洋

西

日本 ポルトガル

アステカ 王国

インカ帝国

スペイン

香料諸島 (モルッカ諸島) 香料諸島

(モルッカ諸島) マカオ

マラッカ カリカット

コーチン ホルムズ

ゴア ヴェルデ岬

サンサルバドル島

パナマ地峡

クスコ

リスボン セビリア

コロンボ マリンディ

喜望峰

(部下だけで航

行)

サラゴサ条約による 境界線(1529)

マガリャンイス,フィリピン 諸島の小島で死亡 トルデシリャス条約に

よる境界線(1494)

バルボアが太平 洋発見(1513)

1519 ∼22

飢饉と疫病の時代(19 世紀中葉∼ 20 世紀初頭)

(4)

ラ、天然痘など)によって亡くなった場合が多い。 とくに、飢饉に連動して起こったマラリアによる 人的被害は大きかった。飢饉とは独立して、19世 紀全般に各地で流行したコレラ、19世紀末から20 世紀初頭にかけてのペスト、1918年のインフルエ ンザ(スペイン風邪)、そしてこの時期全般を通 じてのマラリアなど、疫病の人口変動への影響は はかりしれないものがある。

 このような「飢饉と疫病の時代」は、今日まで 通説的にいわれてきたように、イギリスの植民地 的収奪による経済的停滞および貧困の帰結として のみ理解されるべき事態であろうか。経済的に見 るならば、この時代は、交通革命(鉄道と汽船の 発達)によって牽引された輸出主導型の経済成長 が多少なりといえども起こった時代である。1850 年代以降のインド農業を規定したのは、世界経済 (貿易)の急激な発展である。鉄道と汽船の導入 による輸送費の大幅な削減は、付加価値の低い貨 物輸送を飛躍的に増加させた。インドではとくに 1870年代から第一次世界大戦まで、綿花・小麦・油 用種子・ジュート・茶・米・皮革といった農産物 の輸出が増加し、農業の商業化が進展した。  このような農業の商業化は、鉄道の発達、用水 路灌漑の建設、プランテーション農業の展開とい う開発活動にともなって進行した。その意味で、 この時代を、「植民地的開発の時代」と呼ぶこと もできる。実はこの「開発」が、この時代におけ る飢饉や疫病の被害の甚大化に大きく作用してい たことに注目する必要がある。鉄道・道路の発達 にともなう人の移動の増加、用水路灌漑の建設に ともなう環境の変容(→マラリアの流行)、さら に都市化などが疾病環境を悪化させ、この時期の 疫病の蔓延をもたらしたといえる(脇村孝平『飢 饉・疫病・植民地統治─開発の中の英領インド』 名古屋大学出版会、2002年)。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけての世界は、 既述の交通革命によって人とモノの移動が飛躍的 に増大し、ここでもまた世界の一体化(グローバ ル化)が大きく進展した時代であるといえる。こ の時代に、モノやカネの移動のみならず、人の移 動も著しく盛んになった。いわゆるヨーロッパか ら南北アメリカ大陸、オセアニアへの移民、また、 中国・インドからのアジア内部への移民など、労 働移民の流れも大きかったことはよく知られてい る。この時期に、コレラやペストがパンデミック (世界的流行)化したのは決して偶然ではなかっ たのである。インドは、この時期に世界経済との 一体化を強めたが、飢饉と疫病の甚大化は、この ような過程の帰結ともいえるのである。

 インドにおける「飢饉と疫病の時代」の最後を 飾ったのは、いわゆる「スペイン風邪」=インフ ルエンザ・パンデミックの波及であった。この世 界的流行は、1918年のわずか数か月の期間に、世 界で4000万人近くの人命を奪ったとされる。意外 なことに、この大事件は、歴史の書物の中で十分 な取り扱いを受けているとはいえない。この史上 空前の大疫病は、インドだけで約1700万人の死者 を出すという大惨事となった。このインフルエン ザの被害の大きさは、やはり人の移動ということ と関連していた。1914年から始まった第一次世界 大戦は、1918年にはほぼ終局を迎えたが、軍隊の 移動や難民といった激しい人の動き、そして混乱 がこの世界的流行につながったことは明らかであ る。インドも、イギリスの植民地としてこの大戦 に参戦し、インド人兵士はヨーロッパ・アフリカ・ 中東へ向かった。彼らの帰還は、インドにおける インフルエンザの被害を高めたであろう。  筆者は冒頭でSARSの流行から「スペイン風邪」 を想起したと書いたが、理由のないことではない。 21世紀の初頭の現在、世界の一体化(グローバル 化)の程度が一段階さらに飛躍しようとしている からである。それに加えて、温暖化などの地球環 境問題が新興あるいは再興感染症の脅威をもたら している。その意味で、疾病史上に、現代という 時代を位置づけてみる必要があるのではなかろう か。

開発 疾病環境の悪化 疫病(健康被害)

人 の 移 動

都  市  化

自然環境の変容

(5)

 生徒たちにとってアフリカの歴史や文化は、決 して身近ではない。したがって特別に1∼2時間 をさいて「アフリカ史」を学習することは、十分 に意義があると思う(本誌の2000年6月号の上田 隆之氏の「『アフリカの文化と前近代の歴史』の 授業について」は、異文化理解の視点からアフリ カ社会を取り上げていて、非常に参考になる)。  しかし普段の授業に、アフリカの話題を意識的 に組み込んでいくことも必要ではないだろうか。 拙稿は、筆者の日常の授業のなかでの「アフリカ 史」を紹介するものである。

 古代ローマ史を扱うときに、筆者は「アフリカ は何処かな?」と生徒に問いかけることがある。 そして「今さら何を質問するのだ」という顔をし ている生徒たちに『最新世界史図説 タペスト リー』(以下「タペストリー」)のp.60 「ローマ 帝国の拡大」の地図を見せる。カルタゴを中心と した地域が属州アフリカであったことに気づかせ て(語源はラテン語のaprica=sunny)、時代とと もにアフリカと呼ばれる範囲が南方に拡大された ことを指摘する(ついでに、属州アシアの位置も 示す)。西洋を中心とした世界史像を乗り越える ことが主張されて久しいし、様々な授業実践も行

われている。しかしそれにもかかわらず、“西洋人”

の命名した地名(アフリカやアジアなど)を使用 せざるを得ないというジレンマを知っておくこと は重要であろう。

 またアフリカという一つの地名で安易に、あの 広大で多様な大陸を括り、各地域の独自性を無視 することがないよう、生徒に注意をうながすのは 大切である。「タペストリー」p.119の「特集アフ

リカの歴史」では、ザンベジ・リンポポ川、コン ゴ川、ニジェ−ル川、ナイル川といった大河の流 域世界を重視して地域区分をしている。アフリカ 大陸では、気候や地形のため陸上での移動が困難 な場合でも、河川によって人やモノ・情報が運ば れてきた。アフリカは、決して閉鎖的な社会では ない。地図を利用しながら、この点も生徒には確 認させたい。

 以下、紙数の都合もあり、大航海時代までのナ イル川流域とアフリカ東海岸について記しておく。

 ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜」と言っ たが、ナイル川流域で栄えた国は、エジプトだけ ではない。ナイル川上流の第三瀑布から南の地域 には、古くからエジプトと関わりのあった黒人王 国が存在していた(導入として、図1のピラミッ ドのある場所を生徒に予想させることもある)。

 エジプト人からクシュと呼ばれたこの国は下流 地域に勢力を伸ばし、紀元前8世紀に、ついにエ ジプトを支配した。しかし彼らが開いた第25王朝 は、アッシリアに侵略されて滅亡する。その後、 クシュ人は第五瀑布の南方のメロエに拠点を遷し、 エジプトの宗教や文字・建築様式などを積極的に 受け入れて独自の文化を形成した。紀元4世紀に アクスムに滅ぼされるまで王国は存続した。  青ナイル川上流は、エチオピアである。ヘブラ

大航海時代までのアフリカ

大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎 笹 川 裕 史

は じ め に

ア フ リ カ と は ど こ か

ナ イ ル 川 流 域

(6)

イ王国を説明するときに、余裕があれば「シバの 女王」を紹介する。この伝説は、当時のエチオピ アとアラビアそしてパレスチナ社会の活発な交流 を示している。

 伝説ではなく、歴史上初めてエチオピア高原に 成立した国はアクスム王国である。南アラビアか ら移住してきたセム系の人々が紀元前後に建国し た。アクスムは、しばしばアラビア半島への進出 をはかった。紅海を軸とする地中海世界への貿易 ルートを確保するためであった。4世紀にキリス ト教を受け入れたのも、ローマのキリスト教国教 化と関連があったといわれている。「プレスター =ジョンの国」と関連して、中世ヨーロッパ史で もエチオピアには言及しておきたい。なお8世紀 以降はイスラーム化が進み、現在では、ムスリム とキリスト教徒の割合はほぼ同じである。  エチオピアでは、イエスの生誕年をめぐる解釈 の相違から、グレゴリウス暦とは異なる暦が用い られている(西暦2002年9月11日が、エチオピア 暦1995年1月1日)。かつてエチオピア出身のマ ラソン選手の生年が西暦表示と誤解され「アフリ カでは、役所の書類が正確でないから、選手の生 まれた年が実年齢とズレるのですかね」とアナウ ンサーが説明した。このような異文化“誤解”が 生じないようにしたいものである。

 インド洋に面したアフリカ東海岸地方では、か なり古い時代から季節風を利用して、アラビアや ペルシア・インドとの交易が行われてきた。紀元 1∼2世紀頃に著された『エリュトゥラー海案内 記』には、その様子が記されている。

 4∼5世紀には東南アジアからマライ系の人々 が渡来し、イネやココヤシ、バナナなどを伝えて いる。とくにバナナは、コンゴ川流域の熱帯雨林 帯の重要な食物となり、この地域の人口を急増さ せたことは強調しておきたい。

 イスラームの勃興後、アラブ人がアフリカ東海 岸部に来航し居住を始めた。ダウ船(「タペスト リー」p.113)を用いると、アラビアまで(3000

∼4000km)3∼4週間で航海できたという。現 地のアフリカ人との混血も生じ、マリンディやキ ルワなどの港町が発展した。イブン=バットゥー タの旅行路を「14世紀ころの世界(「タペストリー」 p.26)」で確認させながら、彼がキルワを「世界 でいちばん美しい整然と造られた町の一つ」と記 し、この地域でスワヒリ語が話されていると述べ たことには触れるようにしている(なおキルワの 繁栄は、内陸のジンバブエの金の交易の支配と深 く関わっていた)。

 鄭和の南海遠征の導入として、図2のキリンが アフリカのどの地域からもたらされたものか生徒

に尋ねてみる。東アフリカと答えられる者は意外 と少ない。「野生の王国」アフリカには、サハラ 砂漠の他なら、どこにでもキリンやゾウがいると 思っている生徒が多いからである。

 中国では、アフリカからの象牙や乳香が珍重さ れ、アフリカでは、陶磁器や銅銭が大いに喜ばれ た。大ジンバブエ遺跡からは、宋・元・明代の陶 磁器の破片が出土している。

 大航海時代までのアフリカに関しても、無文字

社会や“部族”国家といった言葉にとらわれて、「停

滞した社会」という負のイメージを抱く生徒は少 なくない。それだけに、アフリカの各地で多様な 歴史が展開していたこと、外部との交流が活発で あったことは、ぜひ伝えたい点である。

 今後も、アフリカへの視点を失わずに、日常の 授業のなかでの工夫を続けていきたい。

ア フ リ カ 東 海 岸 地 方

図 2 明に献上されたキリン 「タペストリー」p.94

(7)

 中学校で使用する歴史の教科書を読むと、内容 が日本史にかたよっているのに驚かされる。高校 生にとって、今や世界史は初めて学習する科目に なっている。生徒にとってなじみのない国、なじ みのない時代の授業で、文字や言葉だけに頼って 彼らの想像をかき立てることは至難の業である。 そこで様々な教材を活用することになる。なかで も、使い勝手の良い「図説」は大きな戦力になる。  図説の使い勝手は、掲載されている図版や資料 の内容と、全体の構成によって決まる。『最新世

界史図説 タペストリー』(以下「タペストリー」)

の構成に見られる特徴は、時代を追った世界全図 22 枚を冒頭にまとめ、その後に地域通史のペー ジを持ってきていることである。しかも、地域通 史にはその時代に合致した世界全図のページが、 世界全図には参照すべき各地域通史のページが示 してあるため、同時代史的に世界を鳥瞰する作業 と、ある地域に焦点を当てて授業に活用する作業 を交互に進めやすい。また、地域通史の各ページ にある「ヒストリーシアター」には興味深い図版 と、図版を読み解く視点が提示されており、単に 授業の導入に便利であるばかりでなく、観点別評 価にも利用できる。本稿は「タペストリー」に見 られる以上の特徴を活用する授業についての私案 である。

 『高等学校学習指導要領解説−地理歴史編』(平 成 11 年 文部省)には、「東アジアの国際関係が、 中国を中心とする冊封体制に基づいていたことに 触れ、」(世界史 A)あるいは、「中華帝国を再建 し周辺諸国との間に冊封=朝貢体制を確立した明 が、」(世界史 B)等の文言があり、東アジア世界

の学習において、冊封体制・朝貢体制の理解がポ イントの1つになっていることがわかる。そこで、 後漢の授業でこの問題を取りあげる授業を考えて みた。

   「タペストリー」p.79「ヒストリーシアター」

を参照させながら、生徒への質問を印刷したワー クシートを配布して、画像石から得られる情報を 記入させる。

 この問いに対する「概ね満足できる」状況は、  ①中央の画像石と解説より、豪族が農民を支配 下においていたこと、即ち、大土地所有者であっ たことを読みとっていること。

 ②右の画像石と解説より、豪族が望楼(見張り 台)に象徴される武力を持っていたことを読みと っていること。(なお、この図版から、左奥の母 屋で客と対している豪族が、椅子ではなく床に座 っていることなど、当時の生活様式を読みとるこ とができることも生徒に紹介したい)。

   後漢が豪族連合政権であったことを確認し て、「タペストリー」p.270、後漢皇帝系図を参照 させる。系図の在位年に加えて皇帝の生没年を紹 介し、外戚と宦官が勢力を持ったことを確認させ る。この段階で、皇帝の生没年などのデータを載 せたワークシートを配布して、どのような人々が 政権を握ったかを問い、思考・判断を評価しても よい。

 教科書などには、「幼帝が続いて」という記述

東アジア世界をタペストリーで学ぶ

神奈川県世界史教材研究会

はじめに

後漢の授業

 冊封=朝貢体制 の理解を中心に

導入

<ワークシート例①・資料活用の技術>  画像石は、豪族など有力者の地下墓地の壁を飾 るために作られた。表面には神話・伝説や豪族・ 庶民の生活が刻んであり、当時の生活を知る貴重 な資料である。

問1:「タペストリー」p.79 上にある画像石の図 版を見て、当時の豪族は、どのような「ちから」と 「もの」を持っていたか、答えなさい。

(8)

があるが、生徒に皇帝が何歳で即位したかを計算 させることにより、乳幼児が皇帝に即位すること にどのような意味があるかを深く考えさせること ができる。

 中央政界では外戚と宦官が、地方では豪族が力 を振るったことを確認した後、「タペストリー」

p.79 「後漢の対外政策」の地図と整理図を利用 しながら、班超、甘英、大秦王安敦の使者などの 役割についてまとめる。

 次いで同整理図に「奴国王の朝貢」と説明があ ることに注目させ、「タペストリー」p.11「日本 と東アジア海域」を参照させる(このコーナーは 各世界全図ページに掲載されており、とても便利 である)。

 金印の写真を見せながら、「漢の委(=倭)の 奴の国王」という文字が刻まれていること、一辺 が 2.3cm で漢の1寸に符合することから偽印では ないと考えられていることなどを紹介し、ワーク シートの問いに答えさせる。

 問2の答えが朝貢であり、問3の答えが冊封を

参考:後漢皇帝の在位年と生没年  何歳で即位したかな? 実権は? ①光武帝(位 25 ∼ 57)前6∼ 57 ②明帝(位 57 ∼ 75)28 ∼ 75 ③章帝(位 75 ∼ 88)58 ∼ 88

④和帝(位 88 ∼ 105)79 ∼ 105 外戚竇憲 ⑤殤帝(位 105 ∼ 06)105 ∼ 06 外戚 氏 ⑥安帝(位 106 ∼ 25)94 ∼ 125 外戚 氏 、 後宦官 ⑦少帝(位 125)? ∼ 125  外戚閻氏

⑧順帝(位 125 ∼ 44)115 ∼ 44 宦官

     曹操の父は順帝に仕えた宦官の養子 ⑨冲帝(位 144 ∼ 45)143 ∼ 45 外戚梁冀 ⑩質帝(位 145 ∼ 46)138 ∼ 46 外戚梁冀      梁冀により殺害

⑪桓帝(位 146 ∼ 67)132 ∼ 67 外戚梁冀 、 後宦官      党錮の禁(第1次)

⑫霊帝(位 167 ∼ 89)156 ∼ 89 宦官      党錮の禁(第2次) 黄巾の乱 ⑬少帝(位 189)173~90 外戚何氏 、 後宦官      董卓により殺害

⑭献帝(位 189 ∼ 220)183 ∼ 234  曹丕に禅譲      山陽公として魏の明帝の時に没す

<ワークシート例②資料活用の技術と思考・判断>  後漢の歴史を記録した『後漢書』東夷伝には次 のような記録がある。

「建武中元二年(57年)、倭の奴国奉貢朝賀す、使 人は自ら大夫と称す、倭国の極南界なり。光武賜 うに印綬(印と印をつるす紐)を以てす。」 問2:「タペストリー」p.11に載っている金印を手 に入れるため、倭の奴国の支配者はどのようなこ とを行ったか、『後漢書』の記事を参考にして答 えなさい。

問3:倭の奴国の支配者が、光武帝から金印をも らったということは、なにを意味しているか。ま た、金印をもらうことで奴国の支配者にはどのよ うな利益があるか。考えて答えなさい。

(9)

受ける意味であることを確認し、時間の余裕があ れば、「タペストリー」p.11 にある「日本と東ア ジア海域年表」から卑弥呼の遣使を紹介する。生 徒にとって馴染みのある卑弥呼を取りあげ、『三 国志』の記録を利用すると、朝貢と冊封について 繰り返し学習することになるばかりでなく、朝貢 がそれを行う側に大きな利益をもたらすことを確 認させることができる。次のワークシート例は、 授業での使用の他に、定期試験などでの利用も考 えられる。

   後漢や魏と日本の間にあった冊封=朝貢関 係を理解させたうえで、その後の日中関係を概観 して、冊封=朝貢を核とする東アジア世界独特の 国際関係が、近世まで機能したことを理解させる。  まず「タペストリー」p.17「日本と東アジア海

域」で、生徒が よく知っている 遣唐使が朝貢の 一形態であった ことに気づかせ る。次に「タペ ストリー」p.83 ④「冊封体制」 の図(左図)を 参照させながら、中国に対する冊封国、朝貢国、 姻戚関係を持った国々が、唐を中心とする国際体 制を形作っていたことを理解させる。最後に「タ ペストリー」p.23、27、29「日本と東アジア海域」 を順次参照し、日中間で民間貿易が行われていた 宋代、新安沖沈没船の積荷からわかるように元寇 後も貿易が途絶することがなかった元代、冊封= 朝貢体制を再建しようとした明代を概観する。 過去に見られた国際体制を理解させることは、 人物や事件を把握させることより難しい。なるべ く多くの具体例を挙げるとともに、地図や整理図 を多用し、生徒に考察させながら理解させること を心掛けたい。

<ワークシート例③>

 卑弥呼の遣使に対して、魏の皇帝は次のような 詔を下した。

「(卑弥呼の使者は)献上物、男の奴隷4人、女の 奴隷6人、班布2匹2丈を奉じてやってきた。 …汝ははるか遠い土地におるにもかかわらず、使 者を遣り献上物をよこした。これこそ汝の忠孝の 情のあらわれであり、私は汝の衷情に心を動かさ れた。いま汝を親魏 A となし、 B 紫綬を 授ける…」「いま赤地に龍の文様がある錦5匹、 赤くて細かいしわのある毛織物10張、赤の布50匹、 青の布50匹を以て、汝の献上物への代償とする。 加えてとくに汝に…白絹50匹、金8両、5尺の刀 2ふり、銅鏡100枚…を下賜し」

(今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志』筑摩書房  文の一部を改めている。) 問4 A ・ B に適当な漢字各2字を入れよ。 (思考・判断) 問5 卑弥呼の献上物と、魏の下賜品とではどち らの価値が高いか。 (資料活用の技術)

南海

交趾

会稽

弁韓 馬韓 辰韓

会稽 斉

楽浪 北平

(後漢)

(後漢) 鮮 卑

南匈奴

高句麗

南蛮 西戎

南匈奴 馬韓 辰韓 弁韓

高句麗 扶余

広陵

長沙 長安

日本(倭) 57年に九州の奴国が朝貢 し金印を得る。のちに 3 世紀の卑弥呼も中国に朝 貢している。

文化的に先進し大国である中国 の皇帝と関係を持つと,他の勢 力よりも優位にたてるため,中 国への朝貢はすすむ。

朝鮮半島 中華文明をとり 入れて国家形成 北方遊牧民

匈奴が何度も前漢をおび やかすが、やがて分裂し、 南匈奴が後漢に朝貢する。

中国南部

前漢時代に雲南・広東の王がそれぞれ 朝貢し,印璽を受ける。華南からヴェ トナム北部では,中国支配を排除する 動きもおこるが,弾圧された。 洛陽

南蛮 なんばん せいじゅう

ほくてき

とう い

西戎

東夷 北狄

中華 中華

 金印と印影

1784年,志賀島(福 岡県)で農夫が農作 業中に発見した金印 は,光武帝が奴国王 に授けたものとされ ている。「漢委奴国 王」と刻まれている。

かんのわのなの (印影は実物大)

朝貢・冊封体制

後漢は,貢ぎ物とお返し のやりとり(朝貢貿易)を 行った周辺国の支配者に対 し,皇帝と臣下の関係を要求 して,中国を中心とするかたち の国際的秩序を構築し,内外に示 そうとした。これを冊封体制という。 当時倭は小国分立状況であったが,九 州の奴国が後漢に朝貢したという記録が ある。中国より軍事的に強い北方遊牧民は, 容易に冊封に服さなかった。

日本と 東アジア 海域

ちょうこう  さくほう みつ

 価値がより高いものを贈った側の意図はなにか。 (思考・判断)

整理

ウイ グル

チャン パー 突厥 渤海

新羅

日本 吐蕃

南詔

とっけつ ぼっかい

シ ル ラ

し ら ぎ

と ばん

なんしょう カンボジア

(真臘) しんろう 北庭

安西 安北

安東 単于

安南

タラス河畔の戦い

唐の皇帝 中華思想 国際的文化

シュリー ヴィジャヤ

イ ス ラ ー ム

諸 国

(10)

インドのイスラーム化とムガル帝国

大阪府立伯太高等学校 一 ノ 瀬 雄 一

 南アジア世界は、日本に住む我々にとって、距 離以上に遠い存在である。高校生の意識も似たよ うなもので、南アジアに関しては予備知識があま りなく、世界史の授業においても彼らの興味・関 心を引き出すのはなかなかむずかしい。

 今回取り上げたのは、13世紀から18世紀初めに かけての南アジア世界の授業案であり、中心とな るのはムガル帝国時代である。授業をする際、副 読本は重要な役割をもっており、生徒を世界史に 近づけるのに絶好の道具である。本稿で使用した のは、帝国書院の『最新世界史図説 タペストリ ー』(以下「タペストリー」)である。

 「タペストリー」p.114③のタージ=マハルは、 テレビや雑誌、観光ポスターなどでもおなじみで、 インドを代表する建築であるということは生徒も よく知っている。しかし、これはイスラームの建 築であり、すでに勉強したイスラーム寺院とどの ような共通点があるかと聞いてみる。生徒はドー ム(丸屋根)とミナレット(尖塔)の2点を、写 真からよみとることができる。では、南アジア世 界にいつ頃からイスラーム勢力が進出し始めたの か、ヒンドゥー文化とイスラーム文化が出会い、 どのような新しい文化が形成されたのかと問い、 授業に入っていく。

 11∼12世紀、アフガニスタンのガズナ朝および ゴール朝の侵入から、インドのイスラーム化は始 まる。ただし、侵入したとはいっても、両王朝と もに支配の重点はアフガニスタンにあり(「タペ

ストリー」p.114 )、イスラーム勢力の本格的

なインド支配は13世紀に入ってからである。  13世紀初め、アイバクが建国した奴隷王朝がイ ンドへ進出した。この13世紀は、「モンゴルの世紀」

として、すでに授業で触れている。「では、モン ゴルはインドを征服していたかどうか」と発問す ると、征服していなかったという答えが多いが、 自信はなさそうである。地図で確認すると、イン ドはモンゴルに征服されていない(「タペストリ ー」p.25、13世紀ころの世界)。奴隷王朝は、モ ンゴル軍に滅ぼされたホラズム朝の残存勢力の亡 命を断わり、インド侵入の口実をモンゴル軍に与 えなかった。これによって、インドのイスラーム 化の基礎がつくられた。以後、インド北部には、 奴隷王朝をふくめて五つのイスラーム王朝が、16 世紀初めまでつづく。支配領域を地図で確認すれ ば、13世紀にアフガニスタンからインド西北部に かけてであったのが、15世紀にインド東部や中部

にまで広がっている(「タペストリー」p.114 )。

五王朝はいずれもデリーを本拠地とし、君主はス

ルタンを称した。これらデリー=スルタン朝は、

最後のロディー朝がアフガン系であるのを除き、 いずれもトルコ系の王朝である。生徒はアフガン 系やトルコ系といわれてもピンとこない。「マム ルークという言葉が前に出てきたけど、何という 意味だったか」とたずねると、トルコ系軍人奴隷 という言葉を思い出し、イスラーム世界とインド とがつながる。

 イスラーム勢力のインド進出を示すものとして、

1.はじめに

2.タージ=マハルを使った導入

3.デリー=スルタン朝

ガズナ朝の領域 ゴール朝の領域

A11∼12世紀

0 1000km

タッタ

チャンデーラ朝 ヤーダヴァ朝

カーカテ ィーヤ朝

アフガニスタン

アフガニスタン アラル海

インダス川

インダス川

ア ラ ビ ア 海

ア ラ ビ ア 海

ベンガル湾

ベンガル湾 ウルゲンチ

ウルゲンチ

バルフ バルフ ニシャープル ニシャープル

ガズナ ガズナ

ラホール ラホール ムルターン ムルターン

タッタ アジメール アジメール デリー デリー

ヴァラナシ ヴァラナシ

ホラズム朝

ホラズム朝

チャウハーン朝

チャウハーン朝

ガ ン ジ ス 川

ガ ン ジ ス 川

B13∼15世紀

0 1000km

奴隷王朝(1206∼1290) トゥグルク朝(1320∼1413) の最大領域 ヴィジャヤナガル王国 (1336∼1649)

カリカット カリカット ヴィジャヤナガル ヴィジャヤナガル

グジャラート

グジャラート

バフマニー朝

バフマニー朝

ヴァラナシ ヴァラナシ デリー デリー ラホール ラホール

マスリパタム マスリパタム

インダス川

インダス川

アラビア 海

アラビア 海

ベンガル湾

ベンガル湾

ガ ン ス 川

ガ ン ス 川 ヴァスコ=ダ=ガマ

の航路 ハルジー朝の イル=ハン国 攻撃ルート (推定)

 和の航路

てい わ

カンダハル カンダハル カーブル カーブル

10° 30° 40°

20°

Cムガル帝国(16世紀)

0 1000km

ムガル帝国バーブルと フマーユーンの領土(1539年) アクバル死亡時の領土 (1605年)

ヒンドゥー系諸国 カンダハル カンダハル

パンジャーブ

パンジャーブ スリナガル スリナガル パーニーパット パーニーパット アムリットサル アムリットサル

アグラ アグラ デリー デリー

ヴィジャヤナガル ヴィジャヤナガル

マドゥライ マドゥライ カーブル カーブル

メワール

メワール

ジ ス 川

ジ ス 川 1526 バーブルが ロディー朝を破る

ア ラ ビ ア 海

ア ラ ビ ア 海

ヴ ィ ジ ャ ヤ ナ ガ ル 王 国

インダス川

インダス川

赤字

Dムガル帝国(18世紀)

0 1000km

アウラングゼーブ帝の 最大領域(1707) マラータ同盟の直接 支配地域 マラータ同盟支配下 の最大領域 反ムガルのヒンドゥー 教国 赤字

アグラ

ボンベイ 1661(英) カルカッタ 1690(英)

1510(ポ) ゴア

1792(英) カリカット

1639(英) マドラス

ガ ン ジ ス 川

カンダハル カンダハル カーブル カーブル スリナガル スリナガル

デリー デリー アグラ

ボンベイ 1661(英) カルカッタ 1690(英)

1510(ポ) ゴア

1792(英) カリカット

1639(英) マドラス

ラージプート 諸王国

ラージプート 諸王国

マラータ王国

マラータ王国

ガ ン ジ ス 川

インダス川

インダス川

オランダ領 イギリス領 ポルトガル領 (ポ) (英)

(11)

スルタンたちが作った建造物がある。なかでも有

名なのが、クトゥブ・ミナール(「タペストリー」

p.114④)。イスラーム建築に特徴的な尖塔で、ア イバクが基礎を築き、13世紀前半、第3代スルタ ンのとき完成した。赤砂岩で作られ、高さ約72m、 基底部の直径14mの巨大建築である。高さは4階 建ての校舎が3つ分くらい、円周は君たちが25人 ほど手をつないだ輪と同じ長さと説明すると、生 徒はちょっと分かったような顔をする。

 1526年、バーブルがパーニーパットの戦いでロ ディー朝を破り、ムガル帝国を建てた。しかし、 次のフマーユーンのときインドを失い、一時ペル シアに亡命することを余儀なくされた。本格的な イ ン ド 統 治 は、 第 3 代 のア ク バ ル( 位1556∼ 1605)から始まる。

 「ラージプート族の城を 攻撃するアクバル軍」(「タ ペストリー 」p.114①)を見 せる。攻め手にあって守り 手にはない武器は何かとた ずねると、生徒は画面右下 の火砲に気づく。ムガル軍 はオスマン帝国からこの武 器を導入し、インドへ持ち こんだ。このとき相手のラ ージプート族は、まだ火砲 を知らず、苦戦したものの アクバル率いるムガル軍が

勝利を収め、インド支配を確実にした。ちなみに 当時のムガル軍には、騎馬隊(弓、槍を持つ)、 象部隊(よろいを着せる)、砲兵隊などさまざま な部隊があった。民族的にはトルコ・モンゴル系、 イラン系、アーリヤ系などを中心として、さまざま な構成員が帝国を支えていた。アクバルはこれら の諸民族の上に立ち、インド統治を本格的に始め た。その根本方針は、寛容・融和的政策であった。  アクバルは、まず1562年にラージプート族と姻 戚関係をつくって同盟を結ぶとともに、戦いでの 捕虜を奴隷とすることを禁止した。1563年にはヒ ンドゥーの聖地巡礼税を廃止し、さらに翌64年に は、異教徒に対し課せられていたジズヤ(人頭税)

を廃止し、着実に支持層を増やしていった。そして、 ラージャスターンのメワール王国を破って支配領

域を広げるとともに(「タペストリー」p.114 )、

多くのヒンドゥーを官吏や軍人に登用し、ヒンド ゥーとムスリムの共存と融和を促していった(「タ ペストリー」p.115 )。

 さらに、アクバルが活躍した16世紀後半のイン ドでは、大いなる経済発展が見られた。もともと 国内物資が豊かであるのに加えて、当時の貿易・ 経済構造がインドに有利に働いた。「16世紀の世 界貿易」(「タペストリー」p.30)にあるように、 日本銀およびアメリカ銀の大量産出があり、その 多くがインドに流入した。その結果、貨幣経済が 発達して、国内経済の規模は拡大し、対外貿易も 活発化した。

 アクバルの死後、ジャハーンギール(位1605∼ 27)およびシャー=ジャハーン(位1627∼58)の

治世を経て、17世紀半ばすぎに即位したのがアウ

ラングゼーブ(位1658∼1707)であるが、彼は非 ムスリムに対して、非寛容・反動的政策でのぞん だ(「タペストリー」p.115 )。帝自身が敬虔な スンナ派ムスリムであり、イスラーム法を厳格に 適用してインド統治を行おうとした。1664年にヒ ンドゥー寺院の改修を禁止し、翌年にはヒンドゥ ーに差別関税を課し、さらに同じ頃、聖地巡礼税 を復活するなど、ヒンドゥー弾圧を強めた。政府 の要職からはヒンドゥーを追放し、排他的な政治 を行った。そして、非ムスリムとの対立を決定的 にしたのが、1679年のジズヤ復活である。これら の結果、ラージプート諸王国やマラータ王国が相

次いで反乱をおこし(「タペストリー」p.114 )、

帝国は衰退していくのである。

 13世紀以降のインドでは、ヒンドゥー文化とイ スラーム文化とが融合し、独特のインド=イスラ ーム文化が成立した(「タペストリー」p.115 )。  宗教では、ヒンドゥーのバクティ信仰がカース トを否定するとともに、イスラームのスーフィズ ムが社会の平等を説き、両者が歩み寄った。その 結果、ナーナク(1469∼1538)が両者を融合し、

16世紀初めにシク教を創始した。インド西北部パ

ンジャーブ地方を中心に勢力を広げ、16世紀後半、

4.ムガル帝国

「タペストリー」 p.114 ①

(12)

同地方のアムリットサルにシク教の寺と町が建設 され、本山となった。この寺がのちの黄金寺院で ある(「タペストリー」p.115⑦)。しかし、1606 年に第5代教主(グル)

がジャハーンギールに処 刑されてからは、シク教 徒は戦闘集団へと姿を変 えていく。さらに1675年、 アウラングゼーブが第9 代教主を斬首したことに より、対立は決定的とな る。シク教徒の戦士は、 教主の指導のもと、Kの

頭文字がつく五つのものを身につけた。5Kとは 長髪(ケーシュ)、懐剣(クリパーン)、ゆるい半 ズボン(カッチャ)、櫛(カンギー)、腕輪(カラ ー)である。「タペストリー」p.115⑧の写真からも、 それがうかがえる。

 建築ではタージ=マハルが著名であり、これは 初めに触れたとおり、代表的なイスラームの建築 である。しかし、全体を白大理石と赤砂岩とで構 成していること、異様に巨大なドームは二重構造 で蓮の形をしていることなど、西アジアに伝統的 な建築様式からはずれており、ここにインド的要 素が見られる。この建物は、シャー=ジャハーン

帝が亡き妃ムムターズ=マハル(本誌裏表紙裏参

照)を偲ぶため作ったもので、皇帝の妃に対する 愛情の深さを物語る。また晩年、皇位継承戦争の 中、我が子アウラングゼーブによって軟禁状態に おかれ、アグラ城の窓からタージ=マハルを眺め ては、亡き妻を思い出していたという(「タペス トリー」p.115タージ=マハル)。死後はその墓石 が愛妃の隣に置かれ、2人が仲良く並んで眠って いる。

 最後に、日本史との関わりついて述べたい。ム ガル期インドと、日本史で学習する江戸時代日本 とは一見無関係に思えるが、実はつながっていた。 貿易関係を例として取り上げれば、オランダ東イ ンド会社を仲立ちとして、インドと日本は活発に 交易活動を行っていた。インドから日本へは、綿 布や絹などが持ちこまれ、とりわけ「桟留」とよ

ばれた縦縞の綿織物は、江戸時代の日本で絶大な 人気を博し、さかんに輸入された(神奈川世界史 教材研究会「桟留から世界を見る」『世界史のし おり』2003年9月)。日本からインドへは、銀・ 銅などの鉱産資源が大量に流入した。1630年代か

ら60年代にかけては、日本産の銀がバタヴィア経

由で、インドのコロマンデル海岸地方へと輸出さ れた。そのようすは、「日本には金銀の鉱山があ りますが、この日本からオランダ人が持ち出す大 量の金銀も、その一部は、遅かれ早かれこのヒン ドゥスターンに流れ込みます」(ベルニエ、関美 奈子訳『ムガル帝国誌(一)』岩波文庫、2001年、 p.265)という史料から、よみとることができる。

17世紀後半、銀が枯渇してからは、日本産の銅

インドへ流入した。当時、インドでは銅の需要が 高まったが、その用途はさまざまで、銅銭、武器、 建築、装飾、造船など多岐にわたる。それらをま かなったのが日本産の銅であり、18世紀初めの24 年間、長崎から搬出される輸出銅の4分の3は、 インド各地のオランダ商館にもたらされた。日本 側の対応は、新井白石の長崎新令(「タペストリー」 p.285年表)で、金銀の海外流出をおさえ、貿易 額に上限を設け、支払いを銅で行うというもので あった。銀や銅を仲立ちとして、南アジアと日本 とが密接に関係していたのである。

参考文献

佐藤正哲・中里成章・水島司『世界の歴史14 ムガ ル帝国から英領インドへ』中央公論社、1998年 石田保昭『ムガル帝国』吉川弘文館、1965年 石田保昭『ムガル帝国とアクバル大帝』清水新書、 1984年

近藤治『ムガル朝インド史の研究』京都大学学術出 版会、2003年

「タペストリー」p.115 ⑧

6.おわりに

1700

1725

1700 英,カルカッタに城塞建設 1707 アウラングゼーブ死後,ムガ  ル継承戦争おこる

1708 マラータ同盟成立(∼1818) 1710 シク教徒反乱

1713∼19 ファルーク 1714 バーラージ,マラータ王国  宰相となり(∼20)連合王国形成

1719∼48 ムハンマド=シャー 1724 デカンのニザム独立  ムガル宰相サアダッド=ハン,  オードに独立

1709∼12 徳川家宣 1709 新井白石(1657∼  1725)を幕政に登用

 (正徳の治)

1711 朝鮮通信使の待  遇是正

1712∼16 徳川家継 1715 長崎新令を発布  し,金銀の海外流出  制限

1716∼45 徳川吉宗

(享保の改革) 1720 禁書の令ゆるむ 1724 倹約令発布

(13)

オスマン帝国における様々な麦

 オスマン時代のイスタンブルの市場で普通に見 かける麦は、トルコ語でブーダイ、アラビア語で

フンタと呼ぶ小麦と大麦と燕からす麦くらいだった。こ

のうち、食材として決定的に重要だったのは、小 麦であった。ユラフと呼ばれる燕麦や大麦は、む しろ飼料として重要だった。もっとも、トルコ語 でアルバ、アラビア語でシャイールと呼ばれる大 麦は、共和国時代に入りイスラムの聖法シャリー アが国法としての力を失い禁酒の戒律が国法とし てはムスリムにも解かれた後、ビール作りがさか んとなりその原料として重要性がました。しかし、 往時、アルパというと大麦より飼い葉を想起した し、イスラム法学者などに給わる年金的なものに アルパルクというのがあったが、これに、まさに 飼い葉料を原義としていた。

パン食圏としての伝統

 オスマン帝国を樹立したトルコ人は、モンゴル 高原北方を原郷とし、のち移った中央アジアにい た頃から遊牧民ではあるが、小麦にもなじんでい た。その後、イスラム世界に入ったが、イスラム 世界の建設者アラブ人は予言者ムハンマド以前か ら、麦食圏、といってもとくにパン食圏に属し、 ムスリムとなったトルコ人が11世紀末に入ったア ナトリアも、もちろん太古より麦食圏でパン食圏 であった。そこで、オスマン帝国を創り出したト ルコ系ムスリムも、パン食圏の伝統をうけつぎ、 君府イスタンブルでの主食も小麦のパンであった。

パン騒動を起こさせぬために

 それ故、オスマン帝国時代、当局者にとっては、 人々の主食となるパンとその原料たる小麦が欠乏 して、帝都の臣民が「パン騒動」など起こさぬよ うに、常に心を配っていた。一方では、小麦とパ ンの量目と品質と価格を厳重に統制し、他方では、 小麦が品薄とならぬよう輸出を禁ずるとともに、 恒常的調達をはかった。

 帝都のパンのための小麦は、陸路での輸送が困 難なアナトリアより、海路での輸送に便利な黒海・ ドナウ河沿岸地方からおもに調達された。海路運 ばれた小麦は、旧市街北側、金角湾岸の波止場に 水揚げされ、小麦と小麦粉のための秤量所たるウ ン・カパヌで秤量され卸し売られた。秤量所その ものは今はもはや消滅しているが、地名は残り、 しかもここにはイスタンブル商業会議所がおかれ、 かつての重要性の一端を今も想起させる。

パンの品揃え

 さて、ここまで、単にパンといってきたが、君 府イスタンブルには、いろいろなパンがあった。 トルコ語でパンは、エクメキ、古くはエトメキ と呼んだ。中東・イスラム圏というとインド料理 でなじみのナンのような薄焼きパンのみ念頭に浮 かびがちだが、君府には、薄焼きとならび、丸か やや細長いバケット風のパンがあった。トルコの 薄焼きパンは、アナトリアの農村で手作りするユ フカと呼ばれるイースト抜きのごく薄い生地を焼 いたパンとイーストが入った素のピッツァ・クラ スト風のピデがある。バケット風の方も、ふつう の小麦粉製のものと、上質の白い小麦粉でつくっ たフランジャラと呼ばれるものと2種あった。バ ケット風も古くからあったことは、16世紀末の王 子の割礼の祝宴を描いた『祝祭の書』中のパン屋 の慶祝行列のミニアチュールにもこれが見えるこ とから確かである。

パン屋とパン焼きかまど

 君府イスタンブルには、往時、小麦を小麦粉

君府の食における

麦の様々な形

東京大学東洋文化研究所教授 鈴 木 董

(14)

にするためのでデイルメン、すなわち粉引き水車 も多数あった。これに加え、その小麦粉をパンと して焼き上げるためのフルンと呼ばれるパン焼き かまどをもつパン屋の店は、おびただしい数にの ぼった。17世紀のオスマン朝の大旅行家で長大な 旅行記を書いたエヴリヤ=チェレビィなどは、イ スタンブル旧市街に加え西の大城壁外の西部の エユプと金角湾の北側のガラタとボスポラスを隔 てたアジア岸のウスクダルを含めれば、パン屋は 999軒、パン職人は1万人と書いているが、この 人は元来、マルコ=ポーロの「百万屋敷」のくち で話が大きく、せいぜい人口40∼50万の君府でこ れは過大だが、パン屋が多かったのは確かである。  そして、人々は、町内のパン屋に焼きたての熱 いパンを求めてつめかけたことであろう。今日で も、この手の町内パン屋はイスタンブルでは数多 く、パンが品薄のためでなく、焼きたてを入手しよ うと頃合いをみはかり店頭に並ぶ人々が見られる。

パン類似の様々な食べ物

 さて、君府は、小麦圏、それもパン食圏に属す るから、主食のパンだけでなく、その延長線上に ある様々な小麦粉製の食品もあった。その一つは、 もはや今では見られぬが、フォドラというものが あり、丸パンに類似の食品であったようだが、帝 国の精鋭、常備歩兵軍団のイェニチェリに、定時 に定量給付され、その事務を扱うフォドラ・キャー ティビ(フォドラ書記)という専任の役人までい た。また、イースト入りの味つきパンようのもの でチョレキというのがあり、これは今もあるが、 いろいろ種類があり、パスカリヤ・チョレイと いうのもあり、パスカリヤはギリシア語でイース ター、復活祭を意味するから正教徒の祝い用品の 一つでもあった。

 また、ポアチャというバターたっぷりの味つ き焼き物があり、これも古くからあるが語源はイ タリア語だというから、本邦イタ飯屋で登場した ホッカチャに由来するのであろう。他にもいろい ろあるが、とくに今も昔も人気があり街頭で行商 されているのに、シミットがある。これは輪投げ

の輪のような形の少し固めのパン風の食べ物で上 面に白胡麻がふられ香ばしく、庶民のおやつ、軽 食として親しまれてきた。

パスタとパイと菓子と

 小麦粉製品のうち、麺はふるわず、シェヒリエ というのがあり、素麺状のはスープの具、小さな 星型や大麦の粒の型のはピラフに入れたりそのま まゆでて食すがあまり力がない。マントゥという トルコ・ワンタンというべきものがあり、これが 中部アナトリアを中心に根強い人気があるが、小 麦粉をねって作った薄いユフカなるもので羊の挽 肉を包みゆでて、ヨーグルトとソース少々をかけ たものである。

 パン以外では、甘辛両方のパイ類と焼き菓子が 多いが、これは稿を改めることを要する。

イルミクとブルグル

 最後に、全粒の小麦を用いた食材として、一つ にイルミクがあり、これはセモリナ質のみを固め 細かく砕いたもので、いくつかの菓子の材料とな る。ブルグルは、一度ゆでて乾かした挽き割り小 麦で、これは、いくつかの料理の材料にもなるが、 とりわけピラフとされ、ブルグル・ピラフは、今 日のイスタンブルでの挽肉ケバブのつまだが、ア ナトリア農民にとっては、準主食となる。

(15)

「ハードな」物乞い カルカッタの街は、ここ10年急 速に清潔になっている。ゴミ収集車がまわり、街中の あちこちでは掃除をする人々も増えた。多様多態の「物 乞い」の数もずいぶん減った。とはいえ、オー、カル カッタ! サダー(サダル)ストリート、パークスト リートなどの中心部には、依然として乞食さんは健在 である。インドの乞食は、どこでも誰でも実にタフで ある。身体的ハンディのある者は、これでもかとばか りにその姿を最大限にさらし、足腰立たない者は、そ ばの相棒が声を絞り出して訴える。歩ける者は、通行 人の袖を引きつづけどこまでも追ってくる。物も言え ず立てない者は、アルミ鍋やカンの底を棒でたたき、 あるいは鈴を鳴らして、通行人の気をひきつける…。 一片の同情や憐れみも拒否するが、何としてでも「喜 捨」させる、「カネ出させるぞ」という「物乞い」の 強い気迫がみなぎっている。

物乞い問答 インドの「物乞い」は論理的(?)でも

ある。忘れられないのは、マドラス(現チェンナイ) の港に近い中央郵便局で出会った子どもの物乞いとの 「対話」である。

 「カネくれ(英語)」「なんでやねん(これも英語。 以下同)」「なんでかって、日本人ここまで来れるや ないか、カネあるやろ」「ない」「水は高い所から低い 所へ流れるやろ。カネもそうや。あるもんからないも んへおちるのは自然やないか(it is natural.…といっ たかどうか、私のフィールドノートの記録は定かでな い)」私はついに根負けして何がしかの喜捨をした(喜 んで、ではなかったが)。

 インドで「乞う」こととは、自らの「ハンディキャッ プ=負」も含めた最大のパフォーマンスである。正確 には「乞う側」と「乞われる側」とのぎりぎりのかけ 引き。そのかけ引きに、日本人旅行者の多くはコロリ と負ける。ともかく、インドの「物乞い」は強引でタ

フでアグレッシブなのである。

「ソフトな」物乞い バングラデシュのダッカ、チッ

タゴンでのことである。洪水で土地を失った男、稼ぎ 手に先立たれた未亡人、ハンディキャップの人々…多 種多様多因の「物乞い」が流入し、移動し、うごめく。 でも、彼らは総じて「穏健」である。高額札しかもた ない通行人にはツリをくれる。なかには、ツリ銭を適 当にもっていく喜捨人もいる(らしい)。追いかけて きても、10数mで引き返す。インドのように「払わず ば手離すまじ」の気迫はない。おとなしいのである。 だが、国中上から下まで物乞いだらけ、乞うて当然、 もらって当然の気風。

 これが、マレーシアのKLやシンガポールとなると 様相が変わる。チャイナタウンの食堂で海南飯の鶏骨 をしゃぶっているそばで、杖ついたバーサンが、ひと しきりブツブツつぶやく。やおら、ビニールカバー綴 じの「文書」、中国語が並ぶ文章。なにやら「我いかに して物乞いになりしや」なる来歴、履歴らしい。小銭 を渡すと、ティッシュペーパーを1個くれる。宝クジ 売りも頻繁にやってくる。これも「物乞い」の一種か。 東南アジア諸都市の「物乞い」は概して静かで、喜捨 への「対価」(ティッシュが多いが、ガムもある)が 払われる。これは一種の「物乞い」ビジネスか。イン フォーマルセクターか。

システムとしての物乞い 私は「物乞い」を善とも悪

とも思わない。ある時代のある国のある状況での経済 文化の一様式である。「Give me chocolate. I am hungry.」 の世代であった僕らの日課は、必死でオヤツを稼ぐこ とだった。そんな僕らは、インドの子どもの物乞いに 出会うたびに、同情や憐れみよりも、懐かしささえ覚 える。大きく違う点は、彼らのしたたかさである。  バングラデシュやネパールなどの「開発途上国」の 多くが、他の金持ち国からの「物乞い」で生きている。 ODAをはじめ、国連、国際NGO、国際民間慈善団体、 あるいは、中国などの「開発途上国」までが援助とい う名の下、他の「開発途上国」への「物乞い支援」競 争をくり広げている。「物乞い」とは、国際規模・国 家規模のスケールや「物乞いシステム」の違いを別に すれば、個人レベルでも同質なのである。「乞う」「乞 われる」関係が、ベンガル湾沿いで微妙に姿を変えて ゆく。ハードなインド型、情と対価の東南アジア型、 中間に位置するソフト・ズッポリ依存(がっぽり?) のバングラ型。開発研究者も国際経済学者も社会経済 史家もふり向かない「物乞い」の実情から、それぞれ の国・地域・ヒトの今がうかがえるのである。 南海寄帰内聞伝

ハードベギング、

ソフトベギング

追手門学院大学教授/中部高等学術研究所客員教授 重松伸司

参照

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