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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2003年 9月号

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教科書ではバルフォアは第一次世界大戦中のイ ギリスの戦時外交における「バルフォア宣言」と いう事項名としてのみ登場する。授業では「フサ イン=マクマホン協定」「サイクス=ピコ協定」と ともに、イギリスの二枚舌外交の例として取り上 げられるのが一般的である。そして授業後は、バ ルフォアはもはや登場することはなく、生徒は 「帝国主義者」「植民地主義者」「ユダヤ人寄りの 姿勢をとる外相」と言う印象を持つのがせいぜい である。しかしこのバルフォアこそ、日英同盟締 結の当事者であり、日露戦争を通じて首相として 日英同盟を最大限に活用した人物であり、しかも 同盟締結から20年後のワシントン会議において日 英同盟を破棄した当事者であるということはほと んど知られていない。

本稿ではバルフォアがどのような経歴を持った 人物であり、どのように日英同盟を捉え、関わっ たか、授業においてバルフォアがどのように活用 できるのかについて述べてみたい。

A.J.バルフォア(1848∼1930)はスコットラ ンドの地主の家柄に生まれた。父方は祖父の代に インドで富を得たネイボッブと呼ばれる成金であ り、その富によって所領を得た。彼は幼くして父 を失い、母方の叔父ソールズベリ(1830∼1903) の影響を受けて育った。ソールズベリはのちに3 回にわたって組閣する保守党政治家である。

1874年に庶民院議員となり、78年には外相ソー ルズベリの秘書としてベルリン会議に出席した。

86年に入閣し、87年に はアイルランド問題担 当大臣となった。91年 には蔵相となり、95年 成立の第3次ソールズ ベリ内閣では、健康を 害したソールズベリに 代わって98年から実質 的に政務を取り仕切り、 南 ア 戦 争 を 指 導 す る 。 1900年にはランズダウ ンを外相としたが、ラ ンズダウンこそ02年1 月の日英同盟成立に中心的な役割を果たした人物 である。南ア戦争終了後の02年7月、ソールズベ リから首相の地位を譲られたバルフォアは、アジ アにおける英露対立、ドイツの世界政策、日露戦 争(1904∼05)英仏協商(1904)等の外交問題を 処理していく。しかし閣内不一致によって、05年 12月総辞職し、さらに06年1月の総選挙での保守 党の大敗で下野する。その後バルフォアは保守党 党首として自由党アスキス内閣の議会法改正に反 対する抵抗勢力となった。しかしこれが保守党の 支持率低下を招いて総選挙に敗北し、11年末に党 首を辞任した。

第一次世界大戦の勃発後、彼は14年10月に内な る内閣(inner Cabinet)である帝国防衛委員会 に入り、15年5月のアスキス連立内閣成立の際に 海軍大臣となった。彼はドイツ艦隊を封鎖するこ とによってその消耗を待つ作戦を採った。それは 圧倒的な海軍力の差を前提とした戦略であったが、 そのために彼は首相時代から10年以上に及ぶ独自 の建艦政策を実現させてきていた。しかし、この 「戦わずして勝つ」戦略は、主戦論の同僚やマスコ

バルフォアと日本 ∼イギリスから見た日英同盟∼

千葉県立浦安南高等学校 石 井 聡

− 10 − 1.はじめに

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− 11 − ミの批判を招き、アスキス内閣瓦解の一因となっ た。16年12月のロイド=ジョージ内閣の成立とと もに、バルフォアは外相に横滑りする。ロイド= ジョージは政治的立場を超えてバルフォアの建策 を参考にし、政治的表明はロイド=ジョージが、 裏での秘密外交の立案はバルフォアが行うという 関係がつくられた。一方、バルフォアは外務省の スタンスとは別の立場で発言することが多かった ため、「イギリスのよくわからない外相」と呼ば れた。17年の「バルフォア宣言」も実際は彼の私 的な書簡であり、外務省の立場とは異なる。彼は 19年のパリ講和会議では、イギリス代表団の長で あり、また同年外務省を去って枢密院議長となっ ても外交に携わった。1920∼23年には国際連盟の イギリス代表であり、ワシントン会議(1921∼22) のイギリス首席全権であった。26年にはウェスト ミンスター憲章のもととなる「バルフォア報告書」 を公にしているが、28年以降、健康が衰え、29年 にボールドウィン内閣の枢密院議長を辞してその 政治的経歴を終える。彼は30年3月に死去した。

バルフォアが政府の中枢を占めていた期間は、 多少の離脱はあるものの、1886年から1929年まで 40年以上にわたっている。

それでは、バルフォアは日英同盟をどのように 考えていたのであろうか。それにはまず同盟締結 のいきさつから振り返る必要がある。日本の世論 が日英同盟をほとんど無条件に受け入れたことは、 よく知られている。しかし、イギリスは当初から 同盟相手国を日本と考えていたのではなかった。 イギリスが同盟を模索したのには、日本とは異な る事情があった。その1つは露仏同盟の成立や三 国干渉以後のロシアの中国進出が極東におけるイ ギリスの地位の低下をもたらしたことであり、も う1つは南ア戦争における国際的孤立であった。 そこで首相代理であったバルフォアは、伝統的な 外交政策である「光栄ある孤立」を放棄し、同盟 を模索する方向への転換を図ったのである。

当初、バルフォアはアメリカとの同盟を考えて いた。アメリカは中国の門戸開放に好意的であり、 その点で極東における利害が一致していた。しか し、米大統領マッキンリーは伝統的な孤立主義政 策を捨てず、同盟は実現しなかった。そこでバル フォアは98年3月末にドイツとの同盟実現に方針 を転換し、植民地相チェンバレンに非公式な交渉 を行わせた。しかしドイツはロシアを刺激するこ とを望まず、交渉は不調に終わった。それでもバ ルフォアはドイツとの同盟に執着し、翌99年にも 滞英中のヴィルヘルム2世に打診している。1900 年にも外相ランズダウンと植民地相チェンバレン とともに、ソールズベリに対して英独協定を推し、 それは「中国の門戸開放を維持する」という内容 で締結された。しかしロシアが北清事変で満州に 軍隊を増派すると、この協定は効力を失った。

1901年11月にソールズベリの決裁で日本との同 盟交渉がランズダウンに一任された。しかしバル フォアはこれに批判的であった。彼は書簡でラン ズダウンに「日本との同盟は、ドイツと同盟する のと同じ敵との戦いを我々にもたらし、しかもよ り弱いパートナーと対処しなければならないので ある」「日本と同盟をするよりも、独墺伊三国同 盟と結びつくほうが危険は少なく得るものが多 い」と述べている。このことからバルフォアが日 英同盟を最善の選択とは考えていなかったことが わかる。当時の日本はいまだ不平等条約の撤廃も 実現しておらず、言うならば「東洋の三等国」で あった。そのような日本を考えるならばバルフォ アが不安を覚えたとしても当然であろう。日英同 盟は1902年1月に締結された。

バルフォアは1902年7月に首相となった後は、 同盟相手が日本では力不足ではないかという自ら の懸念を隠し、公式には一貫して「極東における 日英の利害は一致している」と表明し、こののち 日英同盟を最大限に活用する方向で行動していく。

その後、日露の関係が悪化する中で、バルフォ アは有事の際の日露への対応を考慮している。彼 は1903年10月の段階では、日本が戦争に突入して も勝利の可能性がないとして戦争回避を図ってい

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たが、12月には日本が戦争することを支持する方 向に傾いていた。彼はロシアが侵略することがな ければ日本は戦わないだろうが、それは不可能だ と考えた。「もしイギリスが日本に極東で譲歩す るように忠告したら、日本はイギリスを偽りの友 人とみなし、日本を救おうとして結果的には日本 を失うであろう」と述べ、「同盟の本当のねらい は、日本をロシアと戦わせることだったのではな いか?」と自問している。彼は日露戦争によって 得るものがあると判断していた。しかし同時に日 本が勝利するとは考えていなかったのである。彼 はイギリスが戦争に巻き込まれないこと、日本が 決定的な敗北を蒙らないことに留意しようとして いた。彼は次のメモを残している。

このように日露戦争直前のバルフォアの政治的判 断は、日本の犠牲においてロシアの軍事的・財政 的負担を増大させ、ロシアを極東に釘付けにする ことを意図したものであった。

1905年1月までにバルフォアはロシアの決定的 勝利はないと考えるようになった。そこで彼は日 本を国際的に強い立場に置くべく、アメリカに仲 介を頼んで有利な講和に持ち込もうとした。とい うのは、ドイツが三国干渉のときのように日本に 圧力をかける可能性があったからである。またバ ルフォアは2年早く日英同盟を改訂することによ って日本の立場を強めることにした。その結果、 05年8月には第三国条項のない日英同盟が成立し たのである。このことはバルフォアが日英同盟の 強力な推進者であるというイメージを一般に植え つけることにもなった。それは同盟の絆を一貫し て主張するバルフォアの政治的発言と相俟って、 バルフォアこそ日英同盟の提唱者であり、同盟を

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ほとんど無条件に支持しているという印象を日本 側にも与えることとなったのである。

1905年にはロシアの脅威は消滅し、いまやドイ ツの脅威にのみ対処すればよいことになった。こ うしてバルフォアは日英同盟を最大限に活用する ことによって、戦わずしてイギリスの国際的な地 位を改善することに成功したのである。

それでは、バルフォアはなぜ日英同盟を廃棄し たのであろうか。

第一次世界大戦後、日本は同盟国でありながら イギリス政府および海軍省から筆頭潜在敵国とし て扱われるようになる。その流れのなかで、日英 同盟廃棄の動きが現れ、それが現実化したのが 1921年のワシントン会議であった。

日本では、ワシントン会議はアメリカとの関係 で語られることが多く、イギリスとその全権バル フォアの果たした役割についてはほとんど知られ ていない。彼がこの会議に臨むに当たって本国の 首相ロイド=ジョージに宛てた電信には次のよう に記されている。

ここにバルフォアの政治的リアリズムが現れてい るというのは過言であろうか。

会議においてはバルフォア自身も駆け引きの中 で揺れ動き、個別の発言を取り上げれば「日英同 盟の廃棄はバルフォアの策謀」と解釈できるもの もある。しかし、会議の席上、四か国条約が日英 同盟の拡大版であるかのように扱われたこと(現 実にはそうではなかったが)や、会議の流れの中

日本は朝鮮半島から撤退し、戦争を後悔することになる だろう。同時にロシアが朝鮮半島で経費とトラブルを抱え るようになることは我々にとって好都合である。これはロ シアが極東に大艦隊を、そしてロシアの根拠地から数千マ イルのところに大陸軍を保持することによってはじめて維 持することができるものである。

4.日英同盟廃棄とバルフォア

本計画[ワシントン会議]の目的は、

a)アメリカ人が軍事力行使に訴えることのない形で、条 約の賛同者とすること。

b)我が同盟国[日本]の感情を逆なですることなく、同 盟廃棄の際に同盟以前の関係に復すること。

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− 13 − でバルフォアが英米同盟(ときには英米日同盟) を模索していたことによる誤解が含まれている。 バルフォアが意図したことは、やはり彼のトータ ルな言動から判断する必要がある。すると彼が世 論に配慮しつつも、イギリスの海軍力が相対的に 低下する現状を容認し、アメリカがイギリスと対 等の世界一の海軍力を持つことを認め、その代わ りにアメリカを新たなパートナーとすることで、 イギリス帝国の安定をもたらそうとしたことがわ かる。

本稿では、日英同盟を材料にバルフォアの言説 から「自己」である日本と「他者」であるイギリ スの思惑の違いについて述べてきた。近年、多文 化共生・国際理解の視点から複眼的に事象を捉え る必要が叫ばれている。『学習指導要領』の内容 の取り扱いには「政治、経済、社会、文化、生活 などさまざまな観点から歴史的事象を取り上げ、 近現代世界に対する多角的で柔軟な見方を養うこ と」「日本と関連する諸国の歴史については当該 国の歴史から見た日本などにも着目させ、世界の 歴史における日本の位置づけを明確にすること」 とある。日英同盟を授業で扱うとき、我々はとも すればその締結については日本の状況に重点を置 きがちで、イギリスの思惑に注目することは少な い。またその廃棄についても、日米関係の視点か らのみアメリカ外交の勝利、日本外交の敗北と捉 え、イギリスの意図や動きを看過しがちである。 同盟の成立についても、廃棄についてもイギリス からの視点を生徒に注目させることが、歴史を多 面的に捉える力を養わせることになるであろう。 バルフォアは『オリエンタリズム』のE.サイー ドやA.J.P.テイラ−などの歴史家からはもちろん、 当時も今も「帝国主義者」「保守的政治家」のレ ッテルを貼られ続けているが、意外なことに彼を 重用したのは帝国主義者カーゾンや保守党党首ボ ナ=ローではなく、自由党のアスキスやロイド=ジ ョージであった。それはバルフォアが政治力・軍

事力に依存しない、英語を話す人々(English speaking people)による世界秩序を構想してい たことによると思われる。この考え方は同時代の 帝国主義者に違和感を与えたが、これは今日で言 う言語帝国主義、それもポストコロニアル型の言 語帝国主義からの発想であった。したがってワシ ントン会議におけるアメリカに対する譲歩も、そ の構想から言えば、十分に彼の政治的選択肢の1 つであったといえよう。今日のアメリカによる世 界支配と、それに対するイギリスの協調路線を生 徒に理解させようとするとき、バルフォアの構想 した英語文化の世界支配(英語による文化帝国主 義)とそれに連動する経済のグローバリゼーショ ンをからめた視点から現代世界の特質を確認させ ることも1つの方法であろう。たとえば、帝国書 院の教科書『新編高等世界史B』新訂版の第5部 第2章「相互依存と世界政治」あるいは最終ペー ジ「世界史と21世紀の人間社会」で、バルフォア を「いち早くグローバリゼーションの流れに気づ き、言語(英語)を媒介とした情報化による世界 秩序を構築することを企てた人物」として用いる ことができよう。

バルフォアに限らず、生徒が主体的に特定の人 物を追究していくならば、その人物が持っている 様々な側面が明らかになり、「歴史的思考力を培 う」ことにつながると考える。バルフォアを教材 の1つとして活用していただければ幸いである。

参考文献

木畑洋一『支配の代償』東京大学出版会、1987年 木畑洋一編著『大英帝国と帝国意識』ミネルヴァ書房、 1998年

小池滋編『ヴィクトリアン・パンチ』全7巻、柏書房、 1996年

E.サイード『オリエンタリズム』今沢紀子訳、全2巻、 平凡社、1993年

東田雅博『大英帝国のアジア・イメージ』ミネルヴァ 書房、1996年

細谷千博、イアン・ニッシュ監修『日英交流史1600-2000』全6巻、東京大学出版会、2000-02年

参照

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