また、ドミトリー・ストレリツォフは、「イルクーツク声明」をめぐってロシアと日本での解釈が根本 的に異なっていることを指摘し、ロシアにとって56年宣言第9項の規定は最終的なものであるのに対し、
日本はロシアのさらなる譲歩を当然のことと考え、56 年宣言を領土問題解決への道の中での中間的な段 階であるとみなしたことを問題点として挙げている316。ストレリツォフは、ロシア側がそのような日本側 の解釈を断固として退けたこと、ロシアの指導部が、歯舞・色丹の引き渡しの期限や条件については法律 家が明確にすべきであるものの、56 年宣言は国際条約として効力を有する唯一の文書であり、問題解決 の基本的な文書であると言明したことを強調している317。
「イルクーツク声明」調印直後、日本では小泉内閣が成立した。同政権は、森政権で進められつつあっ たいわゆる「並行協議」あるいは「段階的返還論」に基づく交渉方針を否定し、旧来の「四島一括返還論」
に回帰した318。ロシア側は、日本の新政権が平和条約交渉に関する路線を変更し妥協の姿勢を見せなくな ったことで、56 年宣言の「領土条項」に関する専門家間の交渉を行う余地がなくなったため、領土問題 について具体的に話し合いの方策を探ることは不可能となったと受け止めた319。
パノフ元駐日大使は、「2002年は、平和条約問題に関して、日本で『伝統的立場』の支持者が最終的勝 利を収めた特筆すべき年となった」320と指摘するが、いわゆる「鈴木事件」を境に日本外務省の対ロ外交 は破綻し、日ロ外交関係は取り返しがつかないほど悪化していく321。そのような状況下、2003年1月10 日、小泉首相はプーチン大統領と会談し、両首脳は「日露行動計画」に調印し、以降、同行動計画に沿う 形で日ロ関係は総合的に発展していくこととなる。ここで重要なことは、当時駐日大使を務めていたパノ フが、「モスクワ会談のあと、領土問題解決に向けての日ロ双方の具体的アプローチに何らの変化も生じ なかった」322とし、日ロ双方は互いの交渉ポジションを具体的に接近させるための共通の基盤を見つける ことができなかったと指摘していることである323。この指摘から見えてくることは、同行動計画調印後、
日ロ関係は総合的に発展していくものの、領土問題交渉の進展は見られなくなったということである。
「92年秘密提案」の時と同様、「イルクーツク声明」で56年宣言の法的有効性を認めたロシア側の譲 歩案に対し、日本側は歩み寄ることができなかった。そして、そのような日本側に対する反応として、2001 年9月4日、「イルクーツク声明」調印のおよそ5か月後、サンフランシスコ講和条約締結50周年記念の 中で、ロシア外務省は、ロシア側としてはじめて、同条約に対して肯定的評価を与える声明を出した324。 パノフ元駐日大使は、同条約は日本がクリル諸島への権利・権原・請求権の放棄を認めた条約であること
315 パノフ(2004)、162頁。
316 Территориальный вопрос в афро-азиатском мире. С. 62.
317 Там же. С. 62-63
318 小泉政権成立後の日本政府の交渉方針の転換や日本国内における「四島一括論」と「段階的返還論」
の支持者の間での議論についてロシア側の視点から整理したものとして、パノフ(2004)、158-161頁。
319 パノフ(2004)、165頁。
320 Панов. Россия и Япония. С.141.
321「鈴木事件」が日ロ関係に与えた影響についてロシア側の視点から分析したものとして、パノフ(2004)、 166-171頁。Там же. С. 141-143.
322 パノフ(2004)、173頁。
323 同上、174-175頁。
324 Панов. Россия и Япония. С. 147.
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に言及し、対日関係の文脈において、ロシア側が重要な一歩を踏み出したことを指摘している325。 第1期プーチン政権において、ロシア側は、「イルクーツク声明」により56年宣言第9項の規定が最終 的なものであることを明確にした。同時に、ロシアは、日本側が妥協の姿勢を見せなくなったことで、同 宣言第9項に関する交渉を行う余地がなくなり、領土問題について具体的に交渉していくことは不可能と なったと考え、「南クリルの問題」を「第二次大戦勝利」という「政治的神話」の中に組み込み始めてい ったと言える。
第2節 第2期プーチン政権(2004-2008)における「南クリルの問題」
第1項 「2005年9月27日プーチン発言」
第2期プーチン政権が成立してからおよそ半年後の2004年11月14日、ロシアのラブロフ外相は、ロ シアはソ連の継承国家であり、ソ連から継承した義務の中には56年宣言が含まれること、ソ連邦最高会 議によって批准された同宣言には、日本に南の二島を引き渡し、それで終止符を打つことが提起されてい ることを確認した326。翌日、プーチン大統領は、閣議で「我々は常に自らに課された義務を果たしてきた し、今後も果たし続ける。批准された文書であればなおさらである」327と述べた。このことについて、ア ナトリー・コーシキンは、ロシア外務省とプーチン大統領が出した二島引き渡しの可能性に関する予想外 の声明は、国民の反応を調べ、ロシア世論を見極める観測気球であったとみなしている328。コーシキンに よると、これらの声明の結果、ロシアでは猛烈な反応が呼び起こされ、いかなる領土の譲歩にも反対する 勢力は即座に活発な動きを見せ始めた329。サハリン州社会団体評議会は、「我々は、日本に南クリル諸島 を引き渡す問題に関して日本と交渉が行われるのであれば、ましてやサハリン州の住民の同意なくそれら の引き渡しに関する条約に署名がなされた場合には、住民に対して抵抗するよう訴える権利を行使する。
日本にクリル諸島が引き渡された時には、売国行為のかどでプーチン大統領の罷免をロシア連邦議会へ要 求する権利を行使する」330との声明を出した
ロシア国内でこのような逆風が吹き荒れていた中、日本側はロシア側の妥協のジェスチャーを評価する ことはなかった。同年11月16日、小泉首相は「二島返還は既定の事実と受け止めている。日本はそれで いいといいうことにはならない。四島の帰属を明確にしてからでないと、平和条約締結にはなりません」
331と発言する。ロシア側ではこの発言は高慢なものとして受け止められた332。コーシキンは、「そのよう な非妥協的な方針は、『現在、日本側にとってこの問題は原則的なものである。すなわち、歯舞・色丹・
国後・択捉の全北方四島の返還かゼロかのどちらかである』と公然と表明している日本の右翼勢力の立場 と一致している」333と指摘している。
325 Там же.
326 Территориальный вопрос в афро-азиатском мире. С. 63.
327 Кошкин. Россия и Япония: Узлы противоречий. С. 390.
328 Там же. С. 391.
329 Там же.
330 Там же.
331 朝日新聞(夕刊)、2004年11月16日付。
332 Кошкин. Россия и Япония: Узлы противоречий. С. 393.
333 Там же.
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その後、2004年11月21日のAPECサンティアゴ首脳会議の際に行われたプーチン・小泉首脳会談で の日ロ平和条約・領土問題交渉の決裂334を経て、日本政府によって表明された非妥協的な立場への反応と して、プーチン大統領は、2004年12月23日、クレムリンでの記者会見の席上、日本の新聞記者の質問 に答える形で、「我々は二島はいらない、欲しいのは四島である―と今日あなた方は言うが、私にとって それはちょっと奇妙なことである。それではなぜ、当時批准したのか?もし日本側がこの宣言を批准した のならば、なぜ、今になって日本側は四島に関する問題を再び持ち出すのか」335と発言している。
そして、第2期プーチン政権が成立してから1年余りが経過した2005年9月27日、プーチン大統領は 国民とのテレビ対話の中で、「クリルの島々―四島―に関する日本との交渉プロセスに関して言えば、そ れらはロシア連邦の主権下にある。このことは国際法によって認められた。これは第二次世界大戦の結果 であり、まさにこの部分について、我々は何ら議論をするつもりはない」336と発言した。同大統領は、は じめて、「南クリルの問題」を「第二次大戦勝利」という政治的イデオロギーの中に明示的に位置づけ、
この発言以降、同大統領の口から56年宣言を基礎に両国が妥協し領土問題を解決しようとの具体的呼び かけは見られなくなった。日本との領土問題を解決したいという意志は見られるものの、ロシア側の妥協 案を明言することを控えるようになったという点で、日ロ領土交渉において分岐点となる発言であったと 言えよう。
それにもかかわらず、コーシキンは、「プーチン大統領は、56年共同宣言の規定へ戻ることによって領 土問題の解決を目指す立場に留まり続けたようである」337と分析している。しかしながら、コーシキンは、
日本でもロシアでも、そのような妥協に同意するための政治的・心理的条件が欠けていたことを指摘し、
ロシア市民の大多数が日本に四島、あるいは二島を引き渡すことに反対しており、2005年10月には南ク
334 コーシキンへの筆者による2014年3月17日のインタビュー。また、このことについて、チュグロフ は、次のように述べている。「2004年7月、小泉潤一郎率いる自民党が参院選で印象的な敗北を喫した。
それから少し経った2004年11月14日、ロシア外相セルゲイ・ラブロフは、日本政府代表の再三の外交 的打診に応じ、平和条約締結後に小クリル諸島(色丹・歯舞)を日本に事実上引き渡すことを規定した 1956年日ソ共同宣言の原則にモスクワが立ち返ることに同意するとの声明を出し、この提案はプーチン 大統領の言明によっても確認された。その後の小泉首相の反応は多くの外交官に大きな衝撃を与えた。ロ シア側のイニシアチブに基づくいかなる交渉も提案せず、日本の指導者は、サンティアゴでのG8サミッ トで、日本は争点となっている四島全島返還についてのみ協議する準備があると表明し、ロシア側の提案 をただ単に拒否し、日本側・ロシア側双方を身動きとれない気まずい状態にさせた。そのような予想外の 強硬な反応は、小泉首相がロシアに対する強硬な言明により自分の政党の選挙イメージを回復させようと したことによって生まれたであろうことは、かなりの自信をもって推測することができる。日本には争点 たる諸島の帰属に関するロシア側の比較的妥協的な立場を支持し得るような現実的な政治勢力や国民階 層は存在しない。全『北方領土』の返還を要求することが国民的コンセンサスになっている。しかしなが ら、そのような要求を実現することは甚だ現実的ではないので、一般的なムードは『無関心』という言葉 で特徴づけることができる。だがその無関心とはネガティブな感情が蓄積されて出来あがったものである ということを忘れてはならない。いかなる選挙候補者もいかなる政党も、国民的コンセンサスに自らを対 峙させる程大胆なことはしない。まさにそれゆえに、日本の有権者は、島々の問題解決へのアプローチを 追い求めるいかなる候補者もいかなる政党も支持しないのである」(Чугров. Социокультурное
пространство и внешняя политика современной Японии. С. 117-118)と。
335 Кошкин. Россия и Япония: Узлы противоречий. С. 393.
336 Президент России: Стенограмма прямого тел-и радиоэфира («Прямая линия с Президентом России»)(ロ シア大統領府ホームページ、「テレビ・ラジオ生放送の速記録(ロシア大統領との直接対話)」)
< http://www.kremlin.ru/transcripts/23190#sel= >
337 Кошкин. Россия и Япония: Узлы противоречий. С. 395.