清 水 俊 史
0. 問題の所在
従来、動機論の立場から記された業の体系と、結果論の立場から記された律蔵とが、上座 部においてどのように統合されて理解されているか明らかではなかった1。本稿は、上座部 の律蔵に対する註釈文献を検討し、この問題に光を当てることを目的としている。特に本稿 で問題とするのは、業の体系における善悪と、律蔵における善悪とが全く同一の教理体系の もとに理解できると註釈家たちが考えていたかどうか、という点である。
そもそも業の思想と、律蔵とは別々に成立したものであるらしい。平川彰[9: p. 330. 3-11]
[14: p. 147. 7-14]は、後代に成立したと思われる律蔵資料ほど業報物語が多く挿入されてい
る点から、成立当初の律蔵には業の思想は無く、後に戒律が乱れてくるのに従って「業の倫 理」が導入されたと指摘している2。また、森章司[2000: pp. 29-54]は、律蔵に述べられて いる記述は実践的な生活規定であり、その善悪観は、経蔵や論蔵で説かれる善悪観とまった く異なっていると指摘する。
このように、もともと律蔵における善悪は、業の倫理や、後世の発達した教理に基づいて 説かれたものではない。ところが時代が下り註釈文献が記されるころになると、この事情は 異なってくる。註釈家たちは、経蔵も律蔵も論蔵もすべて仏説である以上、そこに説かれる 善悪全てが統一的に理解できるはずであるという立場にたって註釈を施すのである。このよ うな傾向は有部の『大毘婆沙論』や『倶舎論』において明瞭に見られるが、実はパーリの律 蔵註釈においても同様の傾向が見られる。
現在検討しうる上座部律蔵註釈のうち、最も古いVinA.の段階からこの傾向は見られるが、
この段階で統合が完成しているわけではない3。そこには矛盾しているように読める記述が 0. はじめに
1. 犯罪アディカラナ 1.1. Vin.における定義 1.2. VinA.における定義
1.3. VinṬ(Vjb).とVinṬ(Sd).における定義 2. 学処
2.1. VinA.における定義
2.2. 世俗説としての〈善の学処〉
3. 犯罪と業果
4. VinṬ(Vjb).とVinṬ(Sd).による律蔵理解 5. VinṬ(Vmv).の合理主義的理解
5.1. 〈犯罪アディカラナ〉と〈学処〉
5.2. 犯罪の業果に関する理解 6. 結論
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た」 (「煉獄」第 18 歌 100-102)
«Mariacorseconfrettaalamontagna;/eCesare,persoggiogareIlerda,/punseMarsiliaepoi
corseinIspagna». (Pur.XVIII,100-102)
『新約聖書』ルカによる福音書 1・39 参照
このような、一見異種である聖書とギリシャ、あるいは、ローマ時代のエピソードを並列して詩篇を 構成するという手法は、神の聖性と世俗性のコントラストを表現するとともに、聖性に基づく両者の 一致を表現する。聖母マリアは、「イエスの母であり娘である」から絶対的無限であることに対して、
カエサルは、皇帝でありながら人間であるために有限である。実際、カエサルは、ローマ皇帝という 栄誉に浴しながらも、最後にはブルートゥスの裏切りによって果てるのである。他方、聖母マリアは、
神の無限性において聖性であり、カエサルは、ローマ帝国という世俗的観点において英雄である。こ の点において、両者は一致するというわけである。ダンテは、世界の善悪を間接的に比較対照しながら、
人間を取り巻く宇宙の二元性、無限と有限、神の聖性と世俗世界の空虚を一般民衆に説明すると同時に、
神の国と現世の帝国の絶対性という世界の二元性を読者に暗示するのである。
59) 人文主義の台頭が、非宗教化を推進したと考えるのは短絡的に過ぎる。確かに、ボッカッチョやペ トラルカの諸作品に描かれる信仰心は、作品全体を貫く人間中心主義と比較した場合、大きな意味を なさないのではないかという錯覚を覚えることがある。しかしながら、人間存在の根拠は、人文主義 の目的である自己表現、それを根拠づける自己省察にあるのではなく、あくまで、人間を取り巻く神 秘的宇宙観にあるということである。人文主義が非宗教化を推進したと仮定するならば、それは啓蒙 活動による文化の多様化を原因とする神学離れであると言うことができよう。
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50) Onde,poniamchedinecessitate/surgaogneamorchedentroavois’accende,/diritenerloèin
voilapodestate. (Pur.XVIII,70-72)
51) Dipicciolbeneinpriasentesapore;/quivis’inganna,edietroadessocorre,/seguidaofren
nontorcesuoamore. (Pur.XVI,91-93)
前掲書『饗宴』IV・12,16 IV・26,6-7 参照 52) 「煉獄」第 17 歌 94-96 参照
53) eoralí,comeasitodecreto,/cenportalavirtúdiquellacorda/checiòchescoccadrizzain
segnolieto. (Par.I,124-126)
54) 「もの」は、自然であり神によって創られた(lecosecreate)被造物である。
55) 「もの」は、神を求めるという自己の本能によって、自身に相応しい場所へと移動する。
「私の申す秩序の中では、すべてのものは、さまざまの定めによりあるものはその根源に近く、あるも のは遠くそれぞれ傾きを持っています。
それですから存在の大海の中でみなそれぞれ、さまざまの港へ与えられた本能が導くままに、動いて
ゆくのです。」 (「天国」第 1 歌 109 - 114)
Nel’ordinech’iodicosonoaccline/tuttenature,perdiversesorti,/piúalprincipioloroemen vicine;/ondesimuovonoadiversiporti/perlogranmardel’essere,eciascuna/conistintoalei
datochelaporti. (Par.I,109-114)
宇宙の秩序こそが本能の目的である。
「萬物を動かす者の栄光は、宇宙を貫いて光り輝く、一には強く他には弱く輝きわたる。」
(「天国」第 1 歌 1-3)
Lagloriadicoluichetuttomove/perl’universopenetra,erisplende/inunapartepiúemeno
altrove. (Par.I,1-3)
神の栄光の光は、その対象物の完成度によって強弱の差があるが、すべてにまんべんなく行き渡る。「天 国篇」の冒頭で、ダンテは神を「萬物を動かす力」と呼ぶ。萬物は、神の創造物であるので、神の力 の及ばぬものは何一つない。
神の栄光については、前掲書『饗宴』III・15,5 参照
「煉獄篇」25・70 に記述がある。人間の本能については、前掲書『饗宴』III・3,5-13、「煉獄篇」25・
74,112-115 参照
宇宙の秩序については、次のように説明される。
「あらゆる事物にはその間にお互いに、秩序があるのです、その形があればこそ、宇宙は神に似るので
す。」 (「天国」第 1 歌 103-105)
--- Le cose tutte quante / hanno ordine tra loro, e questo è forma / che l’universo a Dio fa
simigliante. (Par.I,103-105)
プラトン著、種山恭子訳『ティマイオス』プラトン全集 12 岩波書店 2005 年参照
56) Veroèche,comeformanons’accorda/moltefiateal’intenziondel’arte,/perch’arisponderla materiaèsorda,/cosídaquestocorsosidiparte/talorlacreatura,c’hapodere/dipiegar,cosí
pinta,inaltraparte; (Par.I,127-132)
57) 「人間の世界から神の世界へ、有限の時間から永遠の時間へ、」 (「天国」第 31 歌 37-39)
io,chealdivinodal’umano,/al’etternodaltempoeravenuto, (Par.XXXI,37-39)
58) その卓越した知識に裏づけられた文章表現技法は、『神曲』を貫く壮大な世界観の主題に用いられ る聖書から引用される奇跡物語と、神話などから引用される古代ギリシャ起源の伝承物語を紹介しな がら進められる。
「マリアは急いで山へ走った、カエサルはイレルダを制するために、マルセイユを貫いてスペインへ走っ
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ローマ法王に対する批判は、次の箇所にみられる。「地獄」第 19 歌(聖職売買の罪)、「煉獄」第 24 歌 21-24、29-30(大食いの罪)とりわけ、ボニファッチョ 8 世に対する批判は痛烈を極める。「地獄」第 19 歌 54、第 27 歌 105、「煉獄」第 20 歌 86
35) Lonaturaleèsempresenzaerrore,/mal’altropuoteerrarpermaloobietto/opertroppooper
pocodivigore. (Pur.XVII,94-96)
36) eperchéintendernonsipuòdiviso,/eperséstante,alcunoesserdalprimo,/daquelloodiare
ogneeffettoèdeciso. (Pur.XVII,109-111)
37) Or,perchémainonpuòdalasalute/amordelsuosubiettovolgerviso, (Pur.XVII,106-107)
38) ダンテは、神を対象とする愛以外で「被造物」である人間に残されるのは、「隣人の不幸への愛」
であるとして次の三種類に分ける。1、優越を狙い、相手がりっぱな地位から転落することを願う。2、
他人が出世することによって、自身が、権力・寵愛・栄誉・名声などを失うことに対する危惧によって、
他人の不幸を願う。3、不正を被って復讐心にかられ、結果、他人の不幸を愛するようになる。
39) Altrobenèchenonfal’uomfelice;/nonèfelicità,nonèlabuona/essenza,d’ognebenfruttoe
radice. (Pur.XVII,133-135)
前掲書『饗宴』III・6,7 参照
40) 「この(物質的)善をあまりに愛した者は、私たちの上の三つの圏の中で泣いている」
(「煉獄」第 17 歌 136-137)
L’amorch’adessotroppos’abbandona,/disovr’anoisipiangepertrecerchi;
(Pur.XVII,136-137)
「三つの圏」とは、貪欲の罪(第 5 圏)、大食の罪(第 6 圏)、好色の罪(第 7 圏)。
41) Vostraapprensivadaesserverace/traggeintenzione,edentroavoilaspiega,/síchel’animo adessavolgerface;/ese,rivolto,inver’dileisipiega,/quelpiegareèamor,quell’ènatura/che perpiacerdinovoinvoisilega. (Pur.XVIII,22-27)
42) ダンテは、師ウェルギリウスに次のように尋ねる。
「ただ父上、お聞きしたい点は、いっさいの善行もその逆の行ないもみなもとを糺すと、愛に帰するよ
うですが、では愛とはなんなのでしょうか」 (「煉獄」第 18 歌 13-15)
Peròtiprego,dolcepadrecaro,/chemidimostriamore,acuireduci/ognebuonooperaree’lsuo
contraro. (Pur.XVIII,13-15)
43) cosíl’animopresoentraindisire,/ch’èmotospiritale,emainonposa/finchelacosaamatail
fagioire. (Pur.XVIII,31-33)
44) ダンテにとって愛の考察は、ベアトリーチェに対する崇高な女性崇拝から神への愛へと至る永遠の テーマであった。 前掲書『饗宴』III・2,18 以下参照
45) Ortipuoteapparerquant’ènascosa/laveritatealagentech’avvera/ciascunamoreinsé laudabilcosa;/peròcheforseapparlasuamatera/sempreesserbuona,manonciascunsegno/è buono,ancorchebuonasialacera. (Pur.XVIII,34-39)
46) 「煉獄」第 18 歌 43
47) かりに、「愛」という「質料」が人間の外部の力に由来するものであったとしたら、「魂」は「愛」
に影響を受ける自然であるので、人間の行動に対して、「魂」の責任はないことになる。(「煉獄」第 18 歌 43-45)
48) ---innatav’èlavirtúcheconsiglia,/edel’assensode’tenerlasoglia./Quest’è’lprincipiolà ondesipiglia/ragiondimeritareinvoi,secondo/chebuoniereiamoriaccoglieeviglia.
(Pur.XVIII,62-66)
49) 「煉獄」16 歌 64 以下に自由意志についての説明がある。
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epermaleaverlutto./Locieloivostrimovimentiinizia;/nondicotutti,ma,postoch’i’’ldica,/
lumev’èdatoabeneeamalizia, (Pur.XVI,67-75)
ホメロス、松平千秋訳 『オデッセイア』岩波文庫、2003 年、1・33-35 参照
「自由意志」については、トマス・アクィナス著『神学大全』創文社 1960 年~、I・115,4-6 参照 22) Amaggiorforzaeamigliornatura/liberisoggiacete;equellacria/lamenteinvoi,che’lciel
nonhainsuacura. (Pur.XVI,79-81)
23) 「天国」第 5 歌 20 24) 「天国」第 5 歌 21
25) eliberovoler;che,sefatica/neleprimebattagliecolcieldura,/poivincetutto,sebensi
notrica. (Pur.XVI,76-78)
前掲書『神学大全』、II・2 - 115,5 参照
26) 結局、ダンテは、現世における宿命論を完全に否定することはできなかったが、それは、世俗の問 題解決の手段として有用であった、一般民衆に根強かった運命の働きを無視することが不可能であっ たからである。反面、神秘的宗教観においては、「自由意志」を運命論に対峙させながら、人間の本質 を神との関係によって分析する。
27) Però,se’lmondopresentedisvia,/invoièlacagione,invoisicheggia; (Pur.XVI,82-83)
28) 「煉獄」第 18 歌 73-74 に次のようにある。
「ベアトリーチェが貴い力というのは、この自由意志を指している。・・・」
LanobilevirtúBeatriceintende/perloliberoarbitrio--- (Pur.XVIII,73-74)
29) 善意の欠如は、この世の悪意を超越して、人間の存在悪の原因そのものを起源とする。
「意志の力を制御しさえすれば身のためであったのに、それだけの辛抱もできなかったあの生まれたこ とのない男は、自分を罪に落とすとともに子孫をもみな罪に落としました。」 (「天国」第 7 歌 25-27)
Pernonsoffrirealavirtúchevole/frenoasuoprode,quell’uomchenonnacque,/dannandosé,
dannòtuttasuaprole; (Par.VII,25-27)
「生れたことのない男」アダムの犯した罪こそ人間の存在悪そのものであるが、それは、自身の自由意 志を原因とする。神にもっとも近い人間であったはずのアダムは、「意志の力」によって、自身のみな らず、その後に続く人類すべてを罪に陥れた。よって、人類が、神から遠ざけられ地上に降りたその 原因こそ、人間の自由意志の制御を誤った責任であるとされるのである。神から離れ、罪の性格を持 つにいたった人間の性格が「人性」であり、それは神から遠くなればなるほど誤った方向を目指すと される。
30) 教会では、人間の罪悪を「原罪」によるものと断定し、一般民衆に説明していたが、後にカトリッ ク弾劾運動を引き起こす原因の一つとなる「免罪符」乱発は、この時代に端を発する。
31) perchelagente,chesuaguidavede/puraquelbenfedireond’ellaèghiotta,/diquelsipasce, epiúoltrenonchiede./Benpuoivederchelamalacondotta/èlacagionche’lmondohafattoreo, /enonnaturache’nvoisiacorrotta. (Pur.XVI,100-105)
32) SolevaRoma,che’lbuonmondofeo,/duesoliaver,chel’unael’altrastrada/faceanvedere,e delmondoediDio./L’unl’altrohaspento;edègiuntalaspada/colpasturale,el’unconl’altro insieme/pervivaforzamalconvienchevada; (Pur.XVI,106-111)
前掲書『饗宴』IV・5,3-4 参照
33) DíoggimaichelaChiesadiRoma,/perconfondereinséduereggimenti,/cadenelfango,esé
bruttaelasoma. (Pur.XVI,127-129)
前掲書『饗宴』IV・14,12-13 参照
34) 法王権批判は、次の箇所にみられる。「天国」第 33 歌 143-148